仁科と春
春山純
高3の秋
「ここはバントだろー」
父は相変わらず采配に異を唱えている。阪神タイガースの弱さに嫌気がさし、黄金週間の前に今年はもう野球を見るのをやめると宣言していたはずの父だが、最近また見始めたようだ。7回裏、後攻、父の贔屓チームが2点を追いかける状況で、ワンアウト1塁2塁と攻めていた。小柄な9番打者は、ヒッティングの構えをしている。
「普通に打つのじゃダメなの?」
野球はしたこともないし、父が見ているのをたまに見る程度の私だけど、バントは効果的でないと以前聞いた気がする。
「だってバッター仁科だぜ。見ろよ、この打率」
画面は、バックスクリーンに載っている打率をズームアップしていた。
「1.53か」
「仁科は守備はいいけど、打撃はさっぱりなんだ。そもそもまだ高卒3年目だし、二軍で打撃を磨けばいいんだよ」
仁科は今年打点が0ですからねー。解説も采配に疑問を呈しているような口ぶりだった。
「その通りだ、次は1番の大江だからな」
父は解説の言葉に同意した。監督らしき年配の男性は、腕を組んだままだ。眼鏡の奥の瞳は、一点をじっと見つめていた。初球は外側の変化球だった。様子見ですかね、と実況が口にする。
「セーフティーか?」
父はバントにこだわっているようだった。小柄な右打者は頼りなさそうで、見るからに自信なさげな顔をしていた。一応プロで一軍に出てるんだから、もっと堂々としていればいいのに。そんなことを言いたくなる。投手は筋骨隆々で半袖からは太い腕が見えていた。眉毛は太く、ピンチを招いているはずなのに、怖気付くどころかむしろ鼻息は荒い。2球目はインハイの真っ直ぐだった。どうやらストライクらしい。打者はただ見送っただけだった。
「156km/hだって。打てるわけないだろ」
仁科という選手にどれだけ恨みがあるのかと思ってしまった。あまりに気の毒で、私は気づいたらその打者、仁科選手を応援していた。仁科選手の構えは、素人目から見てもあまり打てそうにない。はっきり言って、あまりやる気がないように見えてしまう。投手は少し間を置いた後、3球目を投じた。白球は打者の体に向かったかと思うと、カクンと曲がった。スライダーだ。
追い込まれましたね、厳しいですね、そんな声がする。
「こうなったら三振でいい。ゲッツーよりましや」
父はどうやら、仁科選手にバントをさせることを諦めているようだった。1.53、という数字がぼんやりと頭に浮かぶ。よくわからないけど、いいことが起こる確率があまりにも低いのだということはわかった。私がK大に入れる確率もそれくらいかなー。そんなことを考えてしまう。眉毛の太い投手は一つ息を吐いたかと思うと、2、3回頷いた。私は思わず、胸の前で手を握っていた。雄叫びとともに、豪速球がアウトローに放り込まれた。投手は吠え散らかしたが、投球はわずかに低いようだった。
「助かったな」父は小さく呟く。仁科選手は一瞬ベンチに帰りかけていた。その仕草でも、自信がないのがはっきりとわかる。投手は苛立ちを隠せないようだった。サイン交換は一瞬ですぐに投球モーションに入るーー
画面がニュース番組に切り替わる。一瞬状況が飲み込めなかった。父が慌ててチャンネルを元に戻す。音量を上げようとした父が、操作を誤ったのだろうと思った。野球中継に切り替わった画面では、白球が芝生の上を転々としていた。さっきとは打って変わって、実況は大きな声を出している。
「おお、打ったんか」
父の声も上ずっていた。走者が本塁へ帰還し、抱き合う様子が映し出される。年配の監督はベンチの前で拳を握り締め、咆哮していた。私の気持ちも高揚し、燃え上がる何かを感じた。
「バントしなくて正解だったね」
塁上で静かに拳を握る仁科選手を見て、私は言った。心なしか、声が興奮を帯びていた。
「どうせまぐれだろ」
父の声は嬉しそうで、自分が采配に異を唱えたことを全く反省していなかった。
「春、明日定期試験なんだろ。今日はどうせ勝つから早く寝ろよ」
別に父の贔屓チームが勝とうが負けようがどうでもいいのだが。まぁ、父の機嫌が悪いよりはいい方がいいのだけどーー
「定期テストじゃなくて、模試ね」
「仁科が打ったから、明日は雪だな。模試は中止だ」
父は上機嫌に言った。私はなんかすごい場面を目撃したような気がして、興奮して勉強に手がつかなかった。あまり眠れないまま迎えた模試の結果は、あまり良くなかった気がする。
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