第17話 制度は、殴らずに殺す

 最初は、メール一本だった。


 件名は丁寧で、本文はもっと丁寧で、だからこそ――背骨の奥に冷たいものが入った。


『このたび、貴団体における会計処理および関連する収支について、確認のためのご連絡を差し上げました。ご多忙のところ恐縮ですが、下記日時にてご対応いただけますと幸いです。』


 添付ファイル。日程候補。持参資料のリスト。


 文面に怒りも、断罪も、疑いもない。


 ないから怖い。


 代表の榊原恒一さかきばら・こういちは、スマホ画面を見つめたまま、指先だけをわずかに動かして、もう一度スクロールした。


 何度読んでも、そこにあるのは「お願い」だけだ。


 でも、榊原は知っている。


 世の中には、お願いの形をした命令がある。


 そしてそれは、断ると「こちらの都合」ではなく、「社会の都合」で潰しに来る。


 息を吸った。


 今日も、彼は“善人の顔”を作らなければならない。


 作らないと、ここまで来られなかった。


     ◆


 団体のオフィスは、駅前の雑居ビルの五階にある。


 入口の壁にはロゴ。清潔感のあるフォント。支援、再建、居場所――そんな言葉が並ぶパンフレットの棚。受付のカウンターには、寄付のお礼状と、自治体の委託事業の掲示。外から見れば、正しい場所だ。


 椅子に座っているのは若い女性たちだった。毛布を肩にかけ、紙コップの甘い飲み物を両手で包み、目だけが落ち着かない。


 榊原は、その光景を見ると、いつも通り胸の奥が軽くなる。


(俺は、救っている)


 救っている、はずだ。


「おはよう、みんな。寒くない?」


 柔らかい声。優しい笑顔。白い歯。


 女性たちの中のひとりが、びくっと肩を跳ねた。


 その反応を見て、榊原の心は静かに苛立つ。


(……怖がられるほど、俺はしてないだろ)


 彼女たちは、こうやって怯えて、そして頼る。


 頼るために怯える。


 榊原の中で“理屈”が出来上がっている。


 恐怖は武器になる。弱さは盾になる。


 だから、彼は助ける側でい続けなければならない。


 助ける側は、責められにくい。


「榊原さん、今朝も面談が三件入ってます」


 秘書役の女が、タブレットを持って近づく。三十代。気が利く。口が固い。榊原が“選んだ”人間だ。


「うん。……それと、ちょっと来て」


 奥の会議室。ドアを閉めてから、榊原はスマホ画面を見せた。


「これ、来た」


 秘書役の目が、一瞬だけ止まる。


 止まったのは、驚きじゃない。


 “想定の中”に入っていた表情だ。


「……税の確認、ですか」


「“確認”って言葉、嫌いだよね。うち、何も悪いことしてないのに」


 榊原は笑ってみせる。笑えば、空気が軽くなる。自分の中の焦りも薄まる。


 秘書役は、言葉を選ぶ。


「資料の整え方次第で、向こうの見方は変わります。ここは――」


「大丈夫。うちは善行をしてる」


 榊原は言い切った。


 善行。善行。善行。


 その言葉を口に出すたび、自分の足元の泥が見えなくなる。


「一応、顧問の先生にも共有して。あと……通帳とか、そういうの。関連は全部、まとめておいて」


「……関連、というのは」


 秘書役の目が、榊原の目を見た。


 榊原は、そこだけ声を落とした。


「法人だけじゃない。個人もだ」


 秘書役が、小さく頷く。


 榊原は、それで安心した。


 ――安心した瞬間、もう遅い。


     ◆


 “お願い”の面談は、二日後に来た。


 スーツ姿の男が二人。名刺。丁寧な口調。足音まで静かだ。


 榊原は会議室の机に、指定された資料を並べた。帳簿。領収書の束。契約書。支援実績。委託事業の資料。


 見せれば見せるほど、正しさが伝わるはずだと信じた。


「ありがとうございます。では、順番に確認させていただきますね」


 片方の男が微笑む。


 もう片方は微笑まない。


 微笑まない方が、ページをめくる音だけを淡々と鳴らす。


 ――国税庁からの連絡は、叱責でも告発でもなかった。

 ただ、「確認したい点がある」とだけ告げられた。


 団体の帳簿と、代表個人の口座。

 収入と支出。名目と実態。


 数字は、嘘をつかなかった。

 合っていないだけだ。


 支援事業の名で集まった金が、いつの間にか個人の側に寄っている。

 説明できない現金比率。用途の曖昧な外注費。


 それは「不正だ」と断じられたわけではない。

 ただ、照合の結果として“整合しない”と判断されただけだった。


「こちら、委託金の支出項目についてですが、同一の取引先が複数回出てきますね」


「ええ。信頼できるところなので」


「なるほど。では、こちらは……」


 “質問”は、刺すような言い方ではない。


 でも、榊原の中で一つずつ、何かが削れていく感覚があった。


 気づけば彼は、説明しているのに「評価」されている側になっていた。


 そして、微笑まない方が、さらりと言った。


「念のため、関連する口座についても確認させてください」


「関連?」


「はい。法人の取引口座に限らず、実質的な管理実態があるもの、出入りのあるものです」


 榊原は、一瞬だけ言葉が詰まる。


 詰まった瞬間、微笑まない方が、視線を上げた。


 目が合う。


 その目は、「疑っている」ではなく、「見ている」だった。


 榊原は笑った。反射だ。


「もちろん。うちは透明性が売りですから」


 言いながら、胃の内側が冷えた。


 透明性。


 透明でいられた人間が、こんな団体をやれるわけがない。


     ◆


 面談が終わった帰り際、微笑む方が玄関で言った。


「ご負担をおかけしますが、追加でお願いする資料が出るかもしれません。その際は改めてご連絡します」


「ええ、いつでも」


「……それから」


 微笑まない方が、最後に一言だけ添えた。


「銀行から連絡が行くことがあります。驚かないでくださいね」


 榊原は、笑顔のまま固まった。


 銀行。


 その単語だけで、空気が急に重くなる。


 “確認”が、金融に触れる。


 金融に触れた瞬間、団体は理念では生きられない。


 榊原は、男たちが去ってからも、しばらく玄関に立っていた。


 背中に汗が張り付く。


 冬なのに。


     ◆


 銀行からの電話は、その日の夕方に来た。


 しかも、ひとつじゃない。


「榊原様でお間違いないでしょうか。お取引について、確認事項がございまして」


 言葉は丁寧。


 丁寧さは、刃だ。


「一部の支出について、証憑の追加提出をお願いできればと」


「え、今?」


「はい。期限は、明日の午後まででお願いしております」


 明日。


 それは“お願い”じゃない。


 榊原は顧問に電話を入れ、秘書役に叫び、スタッフを動かし、コピー機を回した。


 オフィスの空気が、急に戦場になる。


「代表、これ、取引先の見積書が見つからなくて……」


「探せ。探して、なければ――形を揃えろ」


「形って……」


「形を揃えろ!」


 榊原は自分の声の荒さに気づいて、すぐ笑顔を作り直した。


「ごめん。焦ってるわけじゃないんだ。ちょっとね、丁寧にやろうって話」


 スタッフの目が、わずかに揺れる。


 その揺れが、榊原を苛立たせる。


(お前らのためにやってんだろ)


 支援も、生活も、給料も。


 俺が回している。


 俺が“守っている”。


 そのはずだった。


 その夜、もう一本、電話が来た。


 メインバンクの担当者だった。声のトーンが、今までと違う。


 ――銀行からの電話は短かった。

 担当者は、理由を詳しく説明しなかった。


「評価が更新されました」

「現行条件での継続取引はできません」


 それだけだ。

 善悪の話は一切ない。

 あるのは、リスクの再計算だけだった。


「……は?」


 榊原は笑おうとした。笑えなかった。


「なぜ? うちは委託もあって、補助金もあって――」


「はい。ただ、内部の審査基準に基づきまして」


 内部。基準。基づき。


 何ひとつ具体を言わない言葉が、榊原を締め付ける。


「当面、というのは、いつまで?」


「確認が完了するまでです」


 完了。


 それは“終わり”の言葉だ。


 榊原は、喉の奥が乾くのを感じながら、必死に声の温度を保った。


「わかりました。必要な資料は全部出します。……こちらも支援を止められないので」


「承知しました。今後とも、よろしくお願いいたします」


 電話は切れた。


 榊原はスマホを握ったまま、机に額を押し付けた。


 頭の中に、数字が並ぶ。


 家賃。人件費。生活費支援。宿泊費。医療費。


 支援とは、金だ。


 金が止まると、理念は死ぬ。


 理念が死ぬと、団体は“ただの箱”になる。


     ◆


 翌日、自治体からの封筒が届いた。


 “公的”な紙の匂い。


 開ける前から、榊原は分かった。


 こういう紙は、救ってくれない。


『委託契約に関する重要なお知らせ』


 文字が整いすぎている。人間の体温がない。


 ――自治体から届いた文書は、丁寧すぎるほど丁寧だった。


「事実確認中につき、一時停止」

「委託条件との適合性を確認する必要がある」


 断罪ではない。

 だが、再開を約束する言葉もなかった。


「……大丈夫」


 榊原は言った。言ったが、声が薄い。


「うちはやってない。やってないんだから、説明すれば――」


 説明すれば。


 説明すれば、分かってもらえる。


 そういう世界のつもりで、榊原は生きてきた。


 だが、自治体の文書は、説明を求めていない。


 “処理”を進めている。


 そして、処理は感情を挟まない。


 午後、ニュースサイトに小さく出た。


 団体名は伏せられていた。


 だが、支援界隈は狭い。


 匿名のアカウントが匂わせる。


『DV支援の看板で金吸ってる団体、監査入って草』

『あそこ昔から黒い噂あったよね』

『女囲ってるって話、ほんとだったんだ』


 榊原は、スマホを握り潰しそうになった。


 怒鳴った声がオフィスに響き、女性たちがびくっと震える。


 榊原は、すぐ笑った。


「ごめんね。大丈夫。あなたたちは守るから」


 守る。


 守ると言った瞬間、榊原は自分の言葉が空っぽだと気づく。


 守るための金が、止まり始めている。


 守るための権威が、剥がれ始めている。


 守るための“善人の皮”が、裂け始めている。


     ◆


 火に油を注いだのは、外だけじゃない。


 夜、支援対象の女性のひとりが、スマホで小さく呟いた。


『榊原さんは悪い人じゃない。私は助けてもらった』


 その投稿は、彼女にとっては「恩」だった。


 恩を口にしないと、自分の人生が崩れるからだ。


 だが世界は、それを恩とは呼ばない。


 ――誰かが最初に書いたわけではない。

 誰かが「気づいてしまった」だけだ。


 断片的な情報が、つながり始める。

 国税、銀行、自治体。


「あれ、同時じゃない?」


 その一言で、物語は完成した。

 事実より先に、説明しやすい“悪役”が作られた。


『被害者を使って自己正当化すんな』

『洗脳されてるだけ』

『助けてもらった? じゃあお前も同罪だろ』


 彼女は、投稿を消した。


 消した瞬間、彼女の顔色がさらに青くなる。


 救いの言葉を口にしただけで、叩かれる。


 榊原は、その現象を見てもなお、理解できなかった。


(なんでだ? 俺は、救ってるのに)


 ――読者の目には、もっと冷たく見える。


 救いを与えたと言いながら、救いを口にした者が焼かれていく。


 榊原の正義と、社会の正義が、噛み合わない。


 噛み合わないのに、歯車だけが回る。


     ◆


 国税の追加連絡は、三日後に来た。


 “お願い”の形のまま、しかし要求は増える。


 取引先の実態確認。契約の整合。支出の合理性。人件費の配分。


 榊原は、書類を出した。


 出せば出すほど、質問が増えた。


 増えるほど、銀行の動きが重くなった。


 カード決済が通らない。口座の入出金に時間がかかる。振込が遅れる。


 現場スタッフが混乱し、支援対象の女性たちが不安になり、オフィスの空気が荒れる。


「代表、ホテル代、払えませんって言われました」


「代替のシェルター探します」


「代表、今夜行くはずだった子、戻されました」


 戻されました。


 その言葉が、榊原の背中を殴った。


 戻された先は、地獄だ。


 榊原は――心の底で分かっている。


 分かっているのに、目の前の現実はこう言う。


 「お前の団体が止まったせいだ」と。


 責任が喉元まで来る。


 だから榊原は、もっと大きな理屈に逃げた。


(国が悪い)

(監査が悪い)

(現場を知らないやつが悪い)


 そして最後はいつも同じ場所に戻る。


(俺がいないと、みんな死ぬ)


 救世主の理屈は、依存の理屈と同じ形をしている。


 榊原は気づかない。


 気づけない。


 気づける人間は、最初からこういう場所に立たない。


     ◆


 週末、家で妻に言われた。


「……あなた、最近、顔が怖い」


 妻は、強い女だった。


 榊原が“支援の代表”でいられるのは、家に“普通の生活”があるからだ。


 普通があると、異常が正当化される。


「心配かけてごめん。ちょっと監査が入ってさ」


 榊原は笑顔を作る。


 妻は笑わない。


「監査だけで、銀行まで動くの?」


 榊原は、言葉が詰まる。


 妻は、続けた。


「あなた、何をしたの?」


「何もしてない」


 即答。


 妻の目が、榊原の目を見た。


 その目にあるのは、怒りじゃない。


 判断だ。


「……何もしてない人の“何もしてない”って、私は信じない」


 榊原の胸がざわつく。


「お前まで俺を疑うのか」


「疑うよ。だって、私はあなたの部下じゃない」


 榊原の世界観が、そこで壊れる。


 榊原の世界では、女は“助けられる側”でなければならない。


 助けられる側が反抗すると、秩序が崩れる。


「俺は、家族のためにもやってる」


「……違う」


 妻は静かに首を振った。


「あなたは、“あなたの正しさ”のためにやってる」


 榊原は笑おうとした。笑えなかった。


 夜、子どもの寝息を聞きながら、妻は言った。


「もし、何かあるなら、今のうちに全部話して」


「……何もない」


「じゃあ、明日、あなたのスマホ見せて」


 榊原の喉が鳴った。


 スマホ。


 そこには――“善人の顔”だけではない履歴がある。


 榊原は、初めて妻に怒鳴った。


「お前、誰のおかげで生活できてると思ってんだ!」


 その瞬間、妻の目が冷えた。


 冷えると、人は強くなる。


「……ねえ」


 妻は、子どもの寝室のドアを静かに閉めた。


「その言い方、やめて。子どもに聞かせないで」


 榊原は、そこで気づく。


 妻はもう“俺”ではなく、“子ども”の側に立っている。


 その立ち位置は、二度と戻らない。


     ◆


 月曜。


 自治体から、二通目が来た。


 今度は“解除”だった。


『委託契約解除通知』


 同じ調子の文字。丁寧な定型文。誠に遺憾。規定に基づき。速やかに。


 そして最後に、刺すような一行。


『支出の一部について、返還を要する可能性があります』


 可能性、ではない。


 これは予告だ。


 榊原は、椅子に座ったまま立てなくなる。


 秘書役が口を開きかけて、閉じる。


 スタッフが息を呑む。


 女性たちのひとりが、泣きそうな顔で呟いた。


「……私たち、どうなるの」


 榊原は、笑顔を作ろうとした。


 作れなかった。


 作れない瞬間、彼の中の“支配”が顔を出す。


「静かにして」


 声が低い。


 女性がびくっとする。


 榊原はそれを見て、余計に苛立つ。


(俺が守ってやってるのに)


 苛立ちは、恐怖の裏返しだ。


 恐怖が増えるほど、支配が濃くなる。


 善人の皮が剥がれ、素の榊原が出る。


 ――そして、それは漏れる。


 誰かが録音する。


 誰かが切り抜く。


 誰かが正義の顔で殴りに来る。


 その日、とうとう団体名が出た。


 まとめアカウントが投下する。


『DV支援団体「○○」代表、資金流用疑惑。監査で発覚か』


 疑惑。


 発覚。


 榊原は口の中が鉄の味になる。


 顧問から電話が来た。


「榊原さん、今は何も発信しないでください。特に“被害者”を盾にする発言は逆効果です」


「盾? 俺は盾にしてない。救ってるんだ」


「……いいですか。今は、“救っている”という言葉が一番燃料になります」


 榊原は笑った。笑いが喉の奥で引きつった。


「じゃあ、どうすればいい」


「黙って、出すものを出してください」


 黙って。出すものを出す。


 ――まるで、処刑台の指示だ。


     ◆


 夜、家で妻に離婚届を置かれた。


 突きつけた、というより、置かれた。


 テーブルの上に、静かに。


「……なにこれ」


「離婚届」


「ふざけるな。今、こういう時に――」


「こういう時だから」


 妻は言った。声が揺れていない。


「あなたが“守る”って言う時、あなたはいつも誰かを縛る」


 榊原は立ち上がり、椅子を引きずる音が部屋に響いた。


「俺が何をしたっていうんだよ。家族のために、社会のために――」


「違う」


 妻はもう一度言う。


「子どものために、私は切る」


 榊原の喉が詰まる。


 子どものため。


 その言葉は、榊原の正義に対する“上書き”だ。


「お前、俺を捨てるのか」


「捨てない。罰しない」


 妻は言い切った。


「あなたがやったことの責任は、あなたが持って。子どもには持たせない」


 榊原は、頷くことしかできなかった。


 守る、と言いたかった。


 でも、守ると言ったら、また縛る。


 榊原は、何も言わないことで、自分の中の最後の“まとも”を保った。


     ◆


 翌日、榊原はオフィスに戻った。


 机の上には封筒が積まれている。


 銀行。自治体。取引先。賃貸管理会社。リース会社。


 “通知”。


 “お願い”の形をした“死刑宣告”。


 スタッフが青い顔で言った。


「代表……給与、今月分……」


 榊原は、笑ってみせた。笑顔が歪む。


「払う。払うよ。何とかする」


 何とか。


 その言葉には、もう根拠がない。


 秘書役が小さく言った。


「代表、外……」


 窓の下に記者がいた。


 カメラ。マイク。――“正義”の顔。


 榊原の喉が鳴った。


 彼らは、助けるために来ない。


 終わらせるために来る。


 榊原は気づく。


 自分が今まで、支援対象の女性たちに与えてきた恐怖と、同じ種類の恐怖を、自分が味わっている。


 逃げ場がない恐怖。


 どこに行っても追いかけてくる恐怖。


 言い訳が通じない恐怖。


 榊原は、椅子に座り込んだ。


 机の上の封筒が、紙の重さで押し潰しに来る。


 ――書類は出した。

 電話も掛けた。


 だが、一度止まった番号には、

 もう誰も掛け直してこなかった。


     ◆


 その夜、榊原はひとりでスマホの画面を見ていた。


 自分の名前が並んでいる。


 団体名の横に。


 「疑惑」「監査」「返還」「告発」「被害者」


 そして、何より恐ろしい言葉。


 「当然」


『当然だろ』

『死ね』

『家族も終わりだろ』


 榊原は、そこだけ画面をスクロールした。


 指が震える。


 胸が苦しい。


 息が浅い。


(違う)


 家族は関係ない。


 子どもは関係ない。


 妻は関係ない。


 榊原は、そこだけは“本気で”そう思う。


 だが、世界は“関係ない”を許さない。


 世界は、“物語”にしたがる。


 悪の血、という物語に。


 榊原は怒りでスマホを投げかけて、やめた。


 投げたら、自分の中の何かが折れる気がした。


 代わりに、机の上の封筒を一つ開けた。


 国税の追加。


 短い文面。


 丁寧。


 しかし、最後の最後だけ、言い切っている。


『必要に応じて、追加の確認を行います』


 必要に応じて。


 必要とは誰が決めるのか。


 榊原は、そこで初めて理解する。


 自分は、もう“説明する側”ではない。


 “説明させられる側”だ。


 しかも、説明が通るかどうかは、こちらが決めない。


 国家が決める。


 銀行が決める。


 自治体が決める。


 社会が決める。


 榊原の声は、もう届かない。


 善人の顔も、もう効かない。


 榊原は、喉の奥で小さく笑った。笑いは乾いている。


「……これが、処刑か」


 誰も殴っていない。


 誰も血を流していない。


 誰も銃を撃っていない。


 それなのに、確実に死んでいく。


 団体が死ぬ。


 肩書が死ぬ。


 信用が死ぬ。


 名前が死ぬ。


 榊原の“世界”が死ぬ。


 スマホの画面が、通知で光る。


 銀行からの新しいメール。


『ご返済について、ご相談のお願い』


 お願い。


 またお願いだ。


 榊原は、目を閉じた。


 救いの言葉は、どこにもない。


 ただ、正しい形式だけが並ぶ。


 形式は、刃だ。


 刃は、感情を持たない。


 だから、止まらない。


     ◆


 翌朝、榊原は離婚届に判を押した。


 手が震えて、朱肉がにじんだ。


 妻はそれを見ても何も言わなかった。


 言わないことが、いちばんの優しさにも、いちばんの断絶にもなる。


 妻は最後に一言だけ言った。


「あなたは、子どもに近づかないで」


 榊原は頷くことしかできなかった。


 守る、と言いたかった。


 でも、守ると言ったら、また縛る。


 榊原は、何も言わないことで、自分の中の最後の“まとも”を保った。


 妻が去ったあと、部屋には音がなくなった。


 冷蔵庫のモーター音だけ。


 榊原はそこに座って、しばらく動けなかった。


 この静けさは、殴られるより痛い。


 静けさは、言い訳を許さない。


 ふと頭の中に浮かぶ。


 ――誰が、ここまでを動かした?


 国税が動いたのは分かる。


 銀行が動いたのも分かる。


 自治体が切ったのも分かる。


 社会が燃やしたのも分かる。


 でも、最初の一押しは?


 “お願い”の面談が来る前に、誰かが「見ろ」と言ったのではないか。


 榊原は喉の奥で、名前を探した。


 誰だ。


 誰が俺を。


 答えに辿り着けない。


 辿り着けないまま、机の上の封筒が増えていく。


 増えるたびに、榊原の世界は削れていく。


 ――誰かが命じたわけではない。


 それぞれが、それぞれの権限で、

 正しく、淡々と、手続きを進めただけだ。


 それでも結果は同じだった。


 団体は、制度の中で呼吸を止めた。


 スマホが震えた。


 秘書役からのメッセージ。


『代表、明日、国税の追加。銀行も同席を求めています』


 同席。


 それはもう、“確認”ではない。


 榊原は、ゆっくりと笑った。


 笑いは乾いて、音が出なかった。


 ――第18話で、終わる。


 終わる、という言葉が、喉の奥で自分のものになっていく。


 誰かに言われたわけじゃない。


 でも、もう分かる。


 この国は、殴らなくても殺せる。


 そして、殺すことを“殺し”と呼ばない。


 榊原はスマホを伏せ、目を閉じた。


 薄い冬の空気が、肺の奥まで入ってきて、痛かった。

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