脚を落として夢の中
@GrandFather_Sumiyoshi
序章 夢を見ている
「それで、何か質問はありますか?」
「ないよ」
「気になる点やおかしな点だったりはどうです?」
「ない」
「仕事は順調ですか?」
「どうだか」
「身体の方は? 調子は悪くないですか?」
「似たような質問ばかりだな」
「言葉というのはニュアンスの違いで大いに変容しますからね。精神の事となると尚更です。それで、もう一度聞きますが」
「違うよ」
「はい?」
「同じ質問ってのはそういう事を言ってるんじゃないんだよ。ここが刑務所みたいに規律に縛られた場所だってのは承知の上だ。僕が言いたいのは毎日毎日同じ事ばかりを答えさせられてるってことさ。一日の内に何度も似たような質問に答えて、それがその日の内に終わるのなら僕としても前向きに協力するけどね、ちっとも変わりはしない質問とその答えの為に毎日ここを訪れなくちゃあならないんだったら、僕とて多少は思うところがあるよ」
「それはつまり」
「好調な訳が無いだろう」
「そうなんですか」
「そうなんですかって、あんた医者だろう。精神科医だ。何故僕の方が質問しているんだ。いや解るよ。今あんたには僕が好調のように見えているんだろう。それは偏に僕が今、喋り過ぎているからだ。でもこう見えて今凄く疲れているんだよ。僕は喋るのが嫌いだ。そもそも口を開くのが億劫なんだ。何か伝えようとしてまともに伝わったことなんて一度も無いよ。二言三言口走るだけでも今なんて言ったと聞き返されて、明瞭に発音してやろうとか考えると今度は変な所で噛むんだ。僕にとっては無言を差し引けば小声が一番なんだよ。それなのに人は皆伝えろ伝えろと口煩く僕の心情を探って来るじゃないか。だから疲れたんだ。愈々喋ることに嫌気が差した。僕が無口なのは何も考えていないからじゃないぞ。僕は喋りたくなくて喋ってないんだ。そんな僕に、何度同じ質問に答えさせるつもりだよ」
「申し訳ございません。私は精神科医としての義務を全うできていなかったのかもしれません。しかし、それにしても」
「なんだよ」
「涙が零れていますが」
「涙?」
「ほら、貴方泣いていますよ。大丈夫ですか? これで拭いて下さい。落ち着いて、ゆっくりで良いので呼吸を整えて下さい」
「整ってるよ。これは何かがおかしかっただけだ。いつもの事だろう。喋り過ぎたんだよ」
「とはいえ涙は一つの兆候ですからね。貴方の現在の精神状態から考えるにこれは矢張り」
「だから大丈夫だ。大丈夫だから。もう僕の会話についての質問は止めてくれよ」
「そうですか。では」
「他に、何か言いたいことはありますか?」
眼前に居座る医者にそう言われたところで、僕は夢から覚めた。
瞼を開くよりも先に頭を上げる。肩を抑えながら首を回すと、頭の奥でぱちぱちと弾けるような音がした。枕が草臥れて低いせいで毎朝首が痛いのだ。しかし寝起き一番のこのストレッチが妙に快感で僕はどうにも枕を変えようという気になれない。
それ以上に、枕などに高い金を払いたくはなかった。通販で安っぽい枕を買えば良いとは思う。だがそうしたところでどうせすぐに萎びれる。するとまた枕が入り用になる。だから高い枕を買った方が、長期的に見れば得ではある。
しかし本人にその気が無いのだから、結局いつも交渉は破断する。
それに、枕を変えたところで悪夢は見るだろう。今朝の夢だって、もう何度見たか解らない。この枕が新品である頃から見ていたようにも思うし、それ以前、つまりこの枕を購入する前から見ていたようにも思える。
そしてそれは、僕の悩みが一向に解決されていない証拠でもあるのだが。
暫くして瞼を上げた。快感だけに集中できたら良いのに、苦悩苦悶の類は否応なしに日常に忍び込んでくる。考えるよりも先に手を動かさなければいけないのだ。下らない雑念に惑わされぬ為には、下らない些事に現を抜かしていなければならない。今すぐにでも手を動かさなければ。早く手を、動かさなければ——。
一通りの家事を終えて僕は、再びベッドへと戻ってきていた。矢張り枕が気になるのである。早い所この悪夢の対処をしなければ、愈々延々と付き合わされる事になるのではないかと、そう感じてならないのだ。
枕のカバーを外して本体を確認する。汗やら垢やらの影響か茶色い染みが大きな輪を作っていた。その周りにはまるで水紋が浮かび上がるかのように幾つもの小さな輪が点在している。どれも茶色く、等しく汚らわしい。
最後に洗濯をしたのはいつだったか。それこそ初めの内は、週に一度かそこら洗濯だったり天日干しだったりの機会を設けていたが、今となってはそれも皆無である。汚れに慣れたというよりかは、清潔を保ったところで大した意味は無いように思えてしまったが為の事である。事実、僕を悩ませる悪夢は収まらなかったのだし。
僕には汚いくらいの方が丁度良いのだし。
今更何だって良いのだ。
——枕は。
どうすべきだろうか。矢張り、このまま同じ枕を使い続けるべきだろうか。愛着が無いと言えば嘘になる。あると言えば、それもまた嘘になる。本当にどうだって良い。変えようが変えまいが最早それは僕に関係のないことであると言っても過言ではない。だがこうして悩んでいれば、きっとまた。
僕は、脳内で弾劾裁判が開廷される前に、そそくさと家を出た。
街にはそこここに水溜りが現れていた。
夜の内に降ったのであろうそれは今や残骸として路上に横たわっている。僕の経験上、どうやらこの残骸は死に場所を決めているようだった。というのも、いついかなる時もこの水溜りというのは同じ場所に出現するのである。例えば街灯の下。例えば歩道の右端。例えば公園の出入り口を塞ぐように——それらは街の至る所に落ちている。
僕はその位置を全て知っている。街は単調である。単調であるが故に、時たまおだてられているとそう感じない訳でもないが、とにかく僕の足元が下手に濡れることはない。
一つまた一つと水溜りを避け、飛び越えながら道を歩いた。
行き先は枕屋である。枕屋という偏った商売がこのご時世、この貧相な街で儲かっているのかどうかは置いておいて、どうやらそういった店が存在するというのを小耳に挟んだ事があるのだ。それも遠い昔、亡くなった母の口から聞いたことではあるのだが、しかし。
いざ枕を買うとなると、どこへ向かえば良いのか解らなくなる。こんな事ならば矢張りネット通販でも利用すれば良かったか。僕の生来の不器用という性質は、なす術もなく肥大し、今となっては僕自身よりも大きな存在へと成り上がってしまっているようだ。出世と言えば出世なのだろう。だがしかし、この世界に於いて何かを成し遂げるという事にそれ程の価値を見出せない僕にとっては、それは羨望の種子にすら恵まれぬ単なる雑事であるのだが。
電柱の冷たさを手に感じながら道を行く。
僕の記憶が正しければ件の枕屋はそう遠い所には無い。懸念としては、その記憶というのがもう何十年も前の事であるが故に、枕屋自体が無くなってしまっているのではないかというところだ。この世界では人が十年生き延びるのにも大層精神を使う。それが枕屋ともなれば抱える負担は尋常でないだろう。良くも悪くも、人の夢を扱う仕事なのである。
そういう意味で僕は枕屋を尊敬してもいる。普通、商売というのは人の活動にこそ目をつけるものだろう。けれど枕屋は違う。枕屋は人が活動しない時間——厳密な話は置いておいて——を担っている職業である。その時点で彼らは他と一線を画している。特に僕のような寝つきの悪い人間からすれば、それはより色濃く映る。
眠りは、死と同義であるという。そしてまた、人は活動の為に睡眠を活用するのではなく、眠る為に生きているのだと、そう主張する者も居る。
どちらもごめんである。睡眠が一義的なものであるのなら、僕はあの病室の中に住んでいるようなものではないか。またそれが死と同類であるのなら、僕の人生は地獄行きを確約されているようなものではないか。
死は遍く生物にとっての救済であるべきなのだ。
僕達は逃げるように死に、死んだように逃げるべきなのだ。そしてその思想こそが、恐らく僕の不安の源泉であって——。
否。
どうにも。
如何にも立ち行かない。僕の思考は悉く、ずれてしまっているのではないか。言葉を口に出すのは苦手だ。だがその言葉は脳内に常々飽和しているのだ。伝えたいモノはあるのに伝えたいという意志に欠けるというのは、何ともやるせない。僕の精神は僕の身体と離れた位置に在る。その乖離した両端を再び結合させなければ、何事も始まらない。
だから多分、僕は一生始まる事はない。
道を抜けると視界が開けた。右手にコンビニ。左手には交番と、その奥には河川敷へと続く橋が架かっている。真っ直ぐと横断歩道を進んだ先にはペットショップが在り、店外から中の動物を覗く親子連れが、何やら嬉々として声を上げていた。
僕は信号を進み、その親子連れを横目に通り過ぎた。獣臭さと、意味深長な店員の視線がここからでも感じ取れた。
この先の道はよく知らない。依然として歩いて行ける距離ではあるが、わざわざ歩いて行こうと思うような距離でもない。だが、僕の記憶と母の言葉を信頼するのならば、この辺りに目当ての店は在る筈だ。
視線を無秩序に巡らせて周囲を見た。中華料理屋とインド料理屋が向かい合うようにして建っている。いかにもといった調子の雑貨屋と、何を売っているのかも解らない雑貨屋ですらない何かが、三件ほど連なって店を開いていた。
枕屋はその更に奥に在った。
本当に枕屋なのだ。店先に掲げられた看板に枕屋と、そう記されているのである。入口に掛けられた紫の暖簾にも黒文字で枕屋と書かれている。どことなく入り難い雰囲気ではあったが、僕は無関心故に躊躇せず、暖簾を割って入った。
入った途端、カウンター越しに見るからに歯の無い老人に迎えられた。まっさらなワイシャツの上に深緑のニットベストを羽織り、首元には朱の蝶ネクタイが覗いている。
成程、母に教えられた当時からこの店はそれなりに歴を積んでいたのだろう。店構えを見る限りそう朽ちた印象は与えられなかったが、中を覗いてみればなんてことはない、年を取った店主が切り盛りする老舗なのだ。
木造のぬくぬくとした壁面に沿って設えられた棚の中に、種々雑多な枕が並べられている。狭い店内の真ん中には僕の想像とはかけ離れたまるで尻置きのような枕が——あるいは本当に尻置きなのかもしれないが——一般的かつ下世話な枕と共に置かれていた。暖色の蛍光灯に照らされて浮かび上がるそれらを眺めながら、僕は安心と不安の二つの成分を敏感に享受していた。
ええと——と喉を慣らしながら用件を伝える。
「その、枕を買いに来たのですが」
当然である。ここは枕屋なのだから。
しかし目の前の好々爺は揚げ足を取ることもなく承知した。
「ええ、ええ、枕ですね。何かご希望なのはございますか?」
「いえ、こだわりはなくてですね、新品の枕に交換できればそれで」
「はい、はい、そうですか」
ならこちらなどはどうでしょうと言いながら奥へと進んだ店主は、先程の尻置きを鷲掴みにして、カウンターの上に差し出した。
「こちらは見ての通り従来の枕とは違うのですね。何でもこの編んだような構造が心地良い低反発を実現して——」
「いや、すみません。いつも通りの枕で良いんです。これは、ええと——一万円もするんですか。残念ながら僕は物事の差異が解らない質でして。ええ、本当に一般的な、例えばそこにあるような枕で良いんです」
僕が壁際の棚へ指を差すと、店主はせかせかと脚を動かしてその枕を引っ張り出してきた。尻置きを横にどけて枕を置く。絵に描いたような、いつもの枕である。
「そう。こういうので良いんです。値段も悪くない。これを買いたいです」
「より安い物もご用意できますが?」
「いえ、これで十分ですので」
「カバーなどはどうしましょう。素材や柄など、最近流行っている、あの、何だったでしょうか。子供達に人気の」
「無地で、色は何だって良いです。とにかくサイズが合えばそれで良いですので」
「そうですか。かしこまりました。ではお会計は——」
前時代的なレジの大仰な動作音を聞きながら路上に目を遣ると、先程通り過ぎた雑貨屋が暖簾越しにちらと窺えた。一方の店先には使い所の無さそうな置物だったり敷物だったりが乱雑に並べられている。もう一方の店には、矢張りそういった物も置かれていない。代わりに——。
「どうもありがとうございました」
突然の声に半ば跳ね上がるようにして振り返った僕は、頭を下げる店主の白々とした頭頂部を一瞥し、それから丁重に差し出された紙袋を受け取った。
ありがとうございましたという二度目の感謝を背に受けながら店を出ると、僕は真っ先に向かい側の雑貨屋へと足を運んだ。
正確には、雑貨屋ですらない方の雑貨屋だ。
首を突き出し様子を窺う。邪険にしているようで幾分罪悪感があったが、入店のし辛い店構えをする方もする方である。どういった店かも解らずにその店に入る事など本来はないのだ。そもそも店内を確認し難いようになっているのだから、これも仕方がないだろう。
そう。この店にも暖簾が掛けられているのである。それも黒布に紫の文字で、最前の枕屋とは逆の構成である。しかしこちらには枕屋とは記されていない。
ここには夢屋と——それだけ記されている。
顔を上げて全体像を捉える。この店には看板が無い。暖簾が無ければ只の一軒家と間違えても仕様がない。濃い茶色の壁面は矢張り木造で、その素朴さ故に他の建築物とはまた異様な雰囲気を醸し出している。しかしその異様さも、この街のどことなく粘り気のある様相に溶けてしまえば平坦である。
一度は通り過ぎた店だ。僕に、この店に入る義理は無い。縁もゆかりも無ければ、一体全体ここが何であるのかも解らない。
解らないからこそ大いに気になる。
母の言葉に——あの日溜りにもよく似た過去の香りに、どこか調和するものがこの店にはある。枕屋という言葉に何か続きがあったような、枕屋などという単調な言葉を今日に至るまで失念せずにいられた理由のようなものが、あるように思う。
僕が紙袋を脇に抱えその中の新品の枕へと意識を注いだ、
その時である。
黒と紫の暖簾を搔き分けて、ぬるりと一人の女性が顔を出した。
ああっ——と声を上げて女性は半歩後退る。暖簾が顔に掛かり右目が隠れている。
「す、すみません。あの、泥棒ではないですので。て、店主さんですよね」
「店主? 僕が? いや、僕はただ通りすがりで」
「じゃ、じゃあ、店主さんじゃないんですか」
「違います。僕は——その、一般人です」
そこまで聞くと女性は漸く顔から暖簾を避けて、店の前へのそりと踏み出した。
黒い長髪が肩の先でさながら針のように尖っている。緩々とした雰囲気とは裏腹に、その外見は幾分つんとしたものであった。
「すみません。私てっきり、泥棒だと間違えられて張り込まれてたのかと」
そんな事は無いと僕は必要以上にかぶりを振る。通りすがりと言いはしたが、店の前でうろついていたのも事実である。僕にだって責任はあった。
「僕も失礼しました。こうもタイミング悪く、こんな場所でうろうろと」
「い、いや、謝られなくても良いんです。私が勝手に勘違いして巻き込んでしまっただけですから。でも良かったです。これがもしお店の方だったら、本当に泥棒だと思われてたかも」
「それなんですけど、店の人は——」
「ああ」
居ないんですよねと言って女性は暖簾を捲った。
明け透けになった店内には確かに、
「居ないですね」
誰一人として姿は見えなかった。それどころか。
「商品が——置かれていないですね」
何も無い。伽藍洞なのだ。木造りの趣がその空っぽの寂しさを増長させ、何ともやるせない印象である。
女性は何故か再び入店すると、暖簾を手で押さえたまま僕を見返した。入れという事だろう。怪訝に思いながらも恐る恐る一歩踏み出し、僕も女性の後に続いた。
店の中は矢張り空だった。窓も無ければ明かりも乏しい。奥の壁に取り付けられた扉と、その横にまるで順番待ちでもするかのように並べられた二つの椅子を除けば、この部屋には雑貨どころか生活感すらも無かった。
狭い室内で広々と腕を伸ばしながら女性が言う。
「暖簾に夢屋って書いてあったでしょう? だから私、面白い店だなって思って入ってみたんですけど、これじゃあ店かどうかも解りませんよね。もしかしたらただの家なのかも。夢屋っていう人の」
「だったら僕達はそれこそ不審者じゃないですか。それに暖簾を表札代わりにする人は居ないですよ。例え居たとしても——」
「紫と黒にはしない! やっぱりそうですよね」
私もそう思うんですよと女性は上目遣いに笑う。睫毛で翳った瞳の奥が、けれど水でも湛えたようにきらきらと瞬いている。
僕は繋がっていた視線を下に降ろし、恭しく聞いた。
「店でも家でもなければ、ここは一体何なのでしょうか。その奥の部屋には——」
「奥の部屋には枕があるのですよ」
——声が。
「この部屋は謂わば待合室のようなものなのです」
目の前に居る女性とは全く別の老人の声が聞こえ、僕は咄嗟に振り向いた。
するとそこには。
「あ、貴方は」
先刻の、枕屋の店主が居た。
老人は真っ白な頭髪を染みだらけの手でなぞると、頬を弛緩させて言った。
「その奥の部屋こそ、夢屋で御座いますよ。お客様」
「貴方は、もしやここの主人で?」
「ええ、ええ、そうでございますよ。私はあちらの枕屋と、こちらの夢屋、両店舗の主人で御座います」
「そ、そうだったんですか」
僕は全身の緊張を解きだらりと腕を伸ばした。脇の間で紙袋が蠢く。いつの間にかくしゃくしゃになっていたそれを手に持ち直して、未だ状況を呑み込めずにいる女性の方を見た。
彼女は僕が言うよりも先にこちらに尋ねてくる。
「し、知り合いなんですか? その枕屋とかいうのは——」
「それはこの向かいにある、文字通り枕を売っている店の事ですよ。この人はその店の主人なんです。僕は、ほら、さっきそこで枕を買ったから」
「成程。お一人で両方のお店を担っているから、今まではこちらに人が居なかったんですね」
老人は緩めた頬を震わせて笑う。
「ええ、そうなんです。申し訳ございませんねえ。なるべく気を遣うようにしてはいるんですがね、なんせ夢屋には人が来ないものですから」
売る夢も中々無いんですねえと、老人は再度朗笑した。
売る夢というのはどういう事なんですと女性が問う。
「夢屋というのはその、一般的な屋号のようなものではなく——」
「枕屋と同じ、文字通りの意味ですよ。つまり」
夢を売る仕事なのですと言って老人は店の奥に進んだ。僅か曲がった腰を椅子の上に据える。座ると背筋が伸び、不思議と若く見えた。
「一見素敵な商売に思えるでしょう。しかしこれが、意外と人が来ない。いやまあ、昔はそれなりに繁盛してはいたのですよ。ですがねえ——矢張り夢を見せられないことには始まりませんからねえ」
「夢を見せられない」
女性が聞き取り難い声で反復した。
「あの、その、夢というのは、つまるところ自分で見るものではないんですか? 夢を売るという商売は目標を売るという商売と似たようなものですよね? それならそれは自ずと見つかるものなのではないかと思うんですが。何かこう、占いのようなものなのでしょうか」
「占い? というのは——ああ、成程。そういう事ですか。ええ、解ります。本来夢や目標といったものは己が裁量によって手繰り寄せるべきなのでしょうね。しかし申し訳ない。少々言葉足らずでしたね。私の言う夢というのはですね」
そこまで言うと老人はのそりと立ち上がり、僕の手元の——紙袋を指差した。僕は訳も解らず紙袋を顔の位置まで持ち上げ老人に倣うようにしてそれに指を向ける。
「こ、これが何か」
「夢とはそれの事なのです。答えはそのちんけな紙袋の中に在る」
「えっ、もしかして」
僕は掲げていた紙袋の中にぞんざいに手を突っ込むと、
「夢とは、これの事なんですか」
と言って、新品の真っ白な枕を取り出した。
老人は首ごと頷いて、そうですそうですと肯定した。
「私の言う夢とは、睡眠時に見る夢のことを言うのですよ」
「ね、眠る時の夢ってことは——」
明晰夢というやつですかと女性が聞いた。
「私、聞いた事あります。夢の中には、夢であると自覚して見る夢があると」
「明晰夢ですか。確かに、近いものを選ぶとすればそうなるのかもしれませんがね、まあそうも学術的と言いますか、高尚な商売ではないのですよ」
そもそも商売と銘打ってはいますがそれすらも怪しいのですと老人は委縮する。
「夢屋の取引に金銭は交わらないのですよ」
「ええっ、お金は取られないんですか」
「そうなのです。というのもそれは、夢を見るまでの過程というのをですね——矢張りお客様方に委ねているからなのです」
夢を掴むは己が手なのですと背中越しに言って、枯れた店主は椅子に座り直した。
「夢屋の特徴的な点につきましてはね、お客様に枕を要求するのです」
枕——と独り言ちて僕は手元の枕に目を落とす。
そうです枕ですと老人は復唱した。
「それもその人に最適な枕。極上の睡眠を齎す、人生に於いて最も相応しいとされる枕を要求するのですよ」
「極上の枕ですか」
成程。
それならばこの主人が枕屋を掛け持ちしている理由にも頷ける——が。
しかし。
老人は声になる前の僕の思考を目敏く感受して、そうではないのですと否定した。
「枕とは、何もお客様が手に持っているような物品だけを意味しないのです」
「これのような一般的な枕でなくても、枕の代用になるのですか」
「なりますよお」
「それは例えば、使い古して草臥れた、僕が前まで使っていたような襤褸切れでも?」
「はいはい、なります」
「わ、私が子供の時に使っていた、アニメキャラの枕でも?」
「なるでしょうねえ」
「では例えば」
僕は、わざとらしく一拍間を空けて、
「膝枕だとか腕枕だとか、そういった本来枕でない人体を枕として扱う行為でも?」
と、淡い照明の奥に聞いた。
老人は。
「無論、なりますでしょうなあ」
歯の無い口元に何やら含蓄のある笑みを湛えた。
「要するに最上の睡眠を齎す事が可能であるならば、それは枕の体を有していなくても結構なのです。酒が好きならば一升瓶でも抱えて寝れば良いでしょう。書痴ならば本でも敷いて横になれば良い。抱き枕に氷枕——世に在る雑多な枕の中でも更にその分別を問わず、只管にお客様の睡眠の為だけを考えてもらえれば良いのです。そうしてもらえれば後はこの夢屋が——」
お好きな夢を見させて差し上げましょう。
老人の掠れた声は静謐な室内に大げさなほどに響いた。
数秒の沈黙の後、女性がわざわざ挙手をして問う。
「では先程言っていた夢を見せられないというのは、皆、最適な枕を見つけられなかったという事なんですか」
「その通りでございます。生涯で一番というのは中々そう簡単には見つからないものなのですねえ。それに何しろ、売るものが売るものでありますからね。実際に売買が行われない限り、悪辣な風聞というのは付き物でしょう。次第に人は減っていくのです」
「そう、ですか」
女性は本来他人事である夢屋の実情を、まるで肉親を襲った不幸に嘆くかのような表情で受け止めた。僕はその様子に何故かいたたまれない気持ちになって、そろそろと手を差し伸べた——筈だったのだが。
女性は唐突に顔を上げると、無理に笑顔を貼り付けて言った。
「試すだけなら、誰にもできますよね?」
「試すというのは——」
老人は鳩が豆鉄砲を食ったような面相になって暫し固まっていたが、やがてその意図を察すると、膝に手をつきながら立ち上がり女性に近付いた。
「気を遣われなくても良いのですよ。こんな店に関わったとなると貴女とて余計な噂がつきます」
「いえ、本当にただ気になるだけなんです。それにもう、入店しちゃいましたし」
そうですよね、と彼女はこちらに振り向いた。
僕は最前に老人が見せたような顔つきになってからすぐに取り繕う。
「はい——僕もこうなってくると気になりますね。好きな夢を見れるというのは、凄く。それなりに」
嘘ではない。現在のこの悪夢を払拭できるならば、それに越した事は無い。その為に今日ここまで来たのだ。
女性はつんとした黒髪を柔らかに翻らせて、老人の方へ一歩踏み込んだ。
「私、やってみたいです。こんな素敵な機会に恵まれたのにやらずに帰るなんて勿体ないですよ。ここで出会えたのも何かの縁。一生で一度の出会いが、一生で一番の出会いになる事も、あるんじゃないでしょうか」
「僕もそう思います。やって後悔するという事は——ないでしょう」
老人は二人の顔を見比べ、幾度か肩で息をした。声には出さず、けれどどこか嬉々とした雰囲気を全身から醸し出していたが、暫くするとすっと面相を変え、僕達に向き直った。
彼女の脚がぴくりと震えたのが解った。
「今日ここでお客様方に出会えたのは私としましても大きな幸運だったのでしょう。承知いたしました。夢を売りましょう」
「やった!」
女性が腰の辺りで軽く拳を握る。
それを見つめながら老人は、但し——と一つ付け加えた。
「売るという事は買うという事——直接的な金銭のやり取りは無いとは言いましたがお客様が夢を買う以上、その対価として差し出された枕は当店の物となりますが」
それでもよろしいですか、と夢屋主人は僕達の瞳に視軸を向けた。
構いませんと女性が答える。僕も似たような返事をした。
「かしこまりました」
その選択、努努忘るること勿れ——而して老人は、蝶ネクタイの位置を正した。
「それで——」
前を見つめているのか、はたまたその横の景色を眺めているのか、自分でも解らぬまま歩く昼下がりの街道。冬の矢鱈と正直な陽光に照らされて今朝の水溜りは流石に姿を消していた。その代わりと言っては何だが、今は隣に慣れない人物が居る。
僕は曖昧な目線を横の女性に移し、それから空になった紙袋を見下ろした。
「夢は、見れたんですか」
まだ名も知らぬ女性はううんと要領を得ない返事をしてから口を開く。
「見れ——なかったんだと思います」
「はっきりしませんね」
「だってよく覚えてないんですもん。でも、それは貴方だって同じでしょう?」
「まあ」
それは、そうなのだが。
「確かに望んだ夢は見れませんでしたけど、別の夢なら見ましたよ」
「どんな夢です?」
「あまり良くない夢です」
そうして僕は正面を見据え、再度朦朧となった脳内で回想した。あれは——。
夢屋の主人から売買の承認を得た後の事である。僕と彼女は結局二人共夢屋の世話になる事になった。僕は今朝買った枕を、彼女はこの為に向かいの枕屋で買った最安値の枕を用いての睡眠であった。
——そう。
実際に僕達は寝かされたのだ。比喩ではない。扉の奥の部屋というのがこれまた閉鎖的で手前の部屋よりも窮屈な空間であったのだが、はっきりとした違いとして、その部屋には一台のベッドが置かれていたのである。
最初に入った女性がそのベッドに寝かされ、入眠するまでの数十分、僕は椅子に座って彼女の帰りを待ち続けていた。やがて戻ってきた彼女は何とも言えぬ顔つきになって、僕の隣に座った。感想を聞く暇も無く、次に僕が呼ばれた。
靴を脱ぎ、上着をハンガーに掛け、僕はそのベッドに入った。勿論頭の下には前に買っておいた枕が敷いてある。ベッドの寝心地は大層良く、それこそ夢の中に居るような心地だった。どこかで香が焚かれているのか、吸う息も平素より甘く蕩けるような質感であった。
そして。
僕は寝た。寝て、夢を見た。例の悪夢である。夢の中で質問攻めに遭う僕は、しかしそう時間の経たない内に解放された。老人が、僕を起こしたのである。
あれは新手の詐欺ですかねと僕は言う。
「夢を見せると嘘を吐いて、夢なんか見る前にとっとと起こしてしまう。そもそも夢を見たって人は覚えていないんですから。望む夢については、あの店主にだって言ってないんですよ。只寝かされて、願うだけだ」
「でもそれなら好きなように寝かしておけば良いんじゃないですか? それこそ何かしらの夢を見たのだと錯覚するまでは。自分で暇と言っていましたしそれをやるくらいの時間はあるでしょう。あんな五分程度の睡眠じゃあ、夢なんてそう簡単には見れませんよ」
「確かに、合理的ではないのかもしれない」
それにしても——。
「良かったんですか? あんなその場限りに、わざわざ金を払って」
夢屋との直接的な金銭の取引はない。しかし枕屋との金銭的な売買は成立しているのである。それはつまり、あの主人に金が入るという事であるのだが。
「とにかく、騙されたんじゃないんですか? 僕達」
「確かに、騙されたのかもしれません。でも」
「でも?」
「別に良いんじゃないですか? それなりに楽しめたのは事実でしょう?」
「事実——かもしれないですね」
新しい枕は失ったが、それなりに気晴らしになったのも確かである。
それに。
「この出会いも何かの縁というのは、言い得て妙かもしれません」
僕は少し踏み込んだ物言いをしたつもりだったが、女性の返答は至って軽快そのものだった。
「もう、今更そんな事、掘り返さないで下さいよ。恥ずかしいでしょう」
「何故ですか? 今楽しめたと——」
「楽しめましたけどやっぱり夢を見るつもりだったんですよ、私。あの時までは本気にしてた訳だし——それに、巻き込んじゃって悪いなって気持ちもあるんですよ」
「僕の事ですか? 気にしないで良いのに」
「気にしないでと言われても気にしますよ。私は何というか軽率ですから、こういう展開はとにかく気になるんです。だから何か償いをしたいんですけど」
「償いって——そんな大げさですよ」
「ううん、でも——あっそうだ。この後、暇ですか」
「暇、ですよ」
今日は休日だ。
元々枕を買いに外に出る予定しかなかったのだから、大層暇だろう。
お酒は飲まれますかと女性はさながら医者のように聞いた。
「それなりに。まあ、結構飲みますよ」
「じゃあ、偶にはどうですか? 昼間っから酒飲みになるっていうのは?」
「この時間から?」
そう聞いた後、僕は答えも待たずに素直に笑った。馬鹿にしている訳ではなかった。只単に、ある意味豪胆な女性だとそう思っただけである。
こんな昼間から飲酒ですか、と僕は意味もなく紙袋を見つめながら言う。
「まあ、今日は休日ですからね。偶にはそんな事があっても仕方が無いか」
「じゃあ」
「解りました。飲みましょうか。これも何かの縁という事で。もしくは、貴女の飲酒欲に付き合うという事で」
「そ、それは良いんですよ。まるで私が酒豪みたいな言い方。でもとにかく決まりですね! 私、別にいつも飲んで歩いてるからって訳ではないですけど、昼からでも行ける良い場所知ってるんですよ。こんな街でも探せば美味い酒はありますよ」
私の奢りなんで早速行きましょうと意気込む女性を横目に、僕は普段よりも饒舌になっている自分と相対した。
舌の奥が熱を持っている。普段以上に声を出しているから喉が幾分乾燥していた。
早いところ潤わさなければ、愈々メッキが剥がれてしまう。
「金ぐらい僕も出しますよ。本当に、今日は気分が良いんで」
そうして少し特殊な出会いをした二人は、
普遍を身に纏い、世間の中へと溶けていった。
その晩——僕は夢を見た。
甘美な夢である。例えるならばそう——否、例えるまでもなく、異性のあの豊満な肉体に包まれた時の。肉欲に支配され自失に陥った際の底知れぬ背徳感と、絶頂の快楽とに身を委ねて闇を見るような——。
兎にも角にも。
僕は、同じ夜を分かち合った女性の脚を切り落とした後になって、彼女の名前と、彼女の見たかった夢というのを聞き忘れていた事に気が付いたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます