短編集

宵薙

「風の吹かぬ庭」*微ホラー

 山あいの小さな集落――。そこに、誰も近寄らない庭があった。

 古い洋館の裏手に広がるその庭は、何度季節が巡ったとしても緑を増すことがなく、風すらも通り抜けないと噂されていた。


 高校二年の春、僕は母の故郷であるその村へ引っ越してきた。母は都会での生活に疲れ、祖母の残した家に戻りたいと言った。


 僕に、選択肢はなかった。静かな村の空気は悪くなかったが、やはり都会の喧騒が恋しくなる瞬間はあった。


 引っ越して三日目、学校帰りに道を間違えて、例の洋館の前に出た。夕方の光はすでに薄く、庭を囲む黒い柵の向こうは、どこか世界の端のように沈黙している。

 そのとき、柵の隙間から、誰かがこちらを見ている気配がした。


「――君、迷ったの?」

 振り向くと、庭の中に白いワンピースの少女が立っていた。年は僕と同じくらいだろう。長い黒髪が、風もないのにふわりと揺れている。


「ここ、入っちゃだめだって聞いたことあるんだけど……?」

「知ってるわ。でも、何となくあなたが来る気がして」


 不可解な言葉だった。だが少女の瞳は、夕闇に沈む庭の奥と同じ色で、僕はなぜだか彼女を怖いと思えなかった。


 それから数日、僕は帰り道に彼女の姿を探すようになった。

 彼女はいつも庭の中にいて、僕が柵の外から話す。名前を尋ねても「ここでは名前は意味がないの」と言い、代わりに僕を「旅人」と呼んだ。


「どうして風が吹かないの?」

「ここは、時間が溜まる場所だから。時間は重いの。重いものは風を拒むでしょう?」


 理解できない説明なのに、妙に説得力があった。

 学校でその庭のことを聞くと、誰もが口を濁した。


「昔、あの洋館で事故があったらしいけど……詳しくは知らない。ただ、行くなよ」


 そんな警告を受けても、僕は彼女に会うことをやめられなかった。彼女と話していると、村に来てから感じていた孤独が薄れていくようだった。


 ある夕暮れ、彼女は初めて柵に手を触れた。


「旅人。今日は、入ってきてもいいわ」

「でも、この庭は入ったらいけないんだろ? 皆、そう言ってたけど」

「大丈夫。あなたなら来られる。ここに必要な人だから」


 その瞬間、庭の奥で何かが動いた気がした。

 影のような、気配のようなものがうごめき、僕を呼ぶ。


 怖い。けれど、彼女の表情は寂しそうだった。


「どうして僕を?」

「……私はずっと、誰かを待っていたの。時間が止まってしまった私を、動かしてくれる人を」


 彼女が手を差し伸べた。柵の向こうから伸びる白い指先は、冷気を帯びているのに、どこか懐かしかった。


 僕はゆっくりと手を伸ばした――その時だった。

 突風が庭を吹き抜けた。


 止まっているはずの庭に、初めて風が吹いたのだ。


 風は彼女の髪を激しく揺らし、庭の草木をざわめかせた。彼女は驚いた表情を浮かべ、すぐに悟ったように微笑んだ。


「やっと、終わるのね」

「終わる? 終わるって、どういうこと?」

「私を縛っていた時間が、壊れたの。あなたが来たから」


 その声は次第に薄くなり、輪郭が透け始めている。


「ありがとう、旅人。あなたが風を連れてきてくれた。あなたがいれば、私は安心できる」


 彼女の手が僕の手に触れ――。


「……ッ!!」


 瞬間、僕は手を素早く引く。

 いけない。このまま連れて行かれてしまうと、きっと、


「……あなたも、そうなのね。でも、だめ。私はあなたがいないと。やっと見つけたの。私と合う、特別な魂が」


 彼女の手が白く煙り、今まで以上に引っ張る力が強くなる。


「く……おお……!!」


 渾身の力を振り絞って振り切ろうとするが、上手くいかない。

 まるで沼のように、ずるずると引きずり込まれる。


「私を助けてくれて、ありがとう。旅人」


 その日から、洋館の庭には普通に風が吹くようになった。

 村の人も「おどろおどろしかったあの庭が明るくなった」と噂していた。


 そんな中、一人残された青年の母親の顔は失意に沈む。

 村から消えた一人の青年の話は――秘密裏に隠された。

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