黄昏の禍津日村(たそがれのまがつひむら)

@tamacco

第1話 村へ帰る日

 帰りたくはなかった。

 けれど、行かなくてはならなかった。


 夜明け前の高速バスの座席に身体を沈めながら、凪沙は窓の向こうに流れる闇の山影を見つめていた。都会で暮らした十年のあいだ、一度も帰らなかった故郷——禍津日村。標高の高いその土地は、いまだに携帯の圏外区域が多く、舗装もされていない道が残っている。地図上ではとうに消えた名前の村。けれど、確かにあの山奥には、まだあの村は息づいていると誰かが告げた。


 「幼なじみの遥が行方不明になった」


 その知らせを受けたのは、一週間前のことだった。同級生から届いた一通のメール。短い文面に、添付された新聞記事の画像。そこには古びた鳥居の前で捜索を続ける消防団の姿が写っていた。見慣れた風景に、凪沙の胸の奥がざわめく。名前を見ただけで、嫌な記憶が蘇る。あの村では、昔から人が消える。


 「神隠しだ」

 そう呼ばれてきた行方不明事件は、記録以上に多い。幼い頃、夏の夜に祖母が語った昔話がいくつも蘇った。黄昏時に声をかけられてはならない。山道で知らない背中を追ってはならない。社の奥の扉を開けてはならない——。

 それらを「禁忌」と呼び、誰もがあたり前のように守っていた。


 バスが峠を越えるころ、外は淡い霧に覆われた。まるで何かの境界を越えたかのような感覚に、凪沙は無意識に息を呑んだ。窓をスライドさせ、冷たい空気を吸い込むと、どこか懐かしい湿った土と杉の匂いがした。幼いころ毎日のように遊んだ山の匂いだ。記憶よりもずっと寂しい香りに感じられた。


 最寄りの停留所でバスを降りると、辺りはすでに朝靄に包まれていた。バスの音が遠ざかると、現実の音がすっと消えたように静かになる。一本道を歩きながら凪沙は驚いた。村へ続く吊橋が、真新しい木材で補修されていたのだ。

 一瞬、胸がざわついた。十年前、あの橋の下で起きた“あの事件”を凪沙ははっきりと覚えていた。遥の兄、透が行方不明になったのもその年だった。


 木板を踏むたびにギシギシと軋む音が響く。下には白い霧が渦を巻き、川の流れがうっすらと見える。手すりの縄が手に湿り気を帯びて滑る。足元の雫が靴底を冷たく染みさせ、吐く息だけが現実のようだ。

 橋の中ほどで凪沙は立ち止まった。

 霧の向こうに、誰かが立っていた。


 白い服を着た女の姿だった。顔は見えない。風もないのに、長い髪がふわりと動いたように見えた。凪沙は言葉を失う。呼び止めようとした瞬間、その姿はふっと掻き消えた。霧が濃くなっただけなのかもしれない。それでも背筋を伝う冷気は収まらなかった。


 村の鳥居をくぐるころには、朝は完全に明けていた。人影もなく、どの家の窓も閉ざされている。まるで時間が止まっているかのようだった。

 角を曲がると、小柄な老人が畑の脇に立っていた。記憶の奥にある顔だ。

 「……凪沙ちゃんか?」

 「おじさん……」

 声に出すと呼吸が詰まるようだった。老人の名前は上島——村で唯一の郵便配達員だ。彼は驚いたように目を丸くしてから、すぐに神妙な顔つきになった。

 「戻ってきたか……。あの子のことで、か?」

 「はい。遥のこと、何か知ってますか?」

 老人は答えなかった。ただ短く、「社へは近づくな」とだけ言い残し、畑の奥へと背を向けた。


 凪沙は実家へ向かった。草で覆われ、白い壁は薄く苔に染まっている。鍵は錆びつき、それでも扉は簡単に開いた。長く放置された空気の中、祖母の置き敷いたままの座布団と黒電話がそのまま残っていた。

 電気は通っていない。冷えた部屋の中、凪沙は床の上に腰を下ろした。心が落ち着かない。どこかで蝉でもない虫の音が微かに鳴っている。古い時計の振り子の音が、かすかに残る時間のように響く。

 「……遥」

 その名を口にした瞬間、胸のなかに黒い靄のような痛みが走る。いつからか、遥の顔がうまく思い出せない。彼女と最後に話したのがいつだったかも、記憶が歪んでいる。

 まるで、思い出すことを禁じられているようだった。


 その夜、凪沙は夢を見た。

 村のはずれの社の前に立っている夢。赤く染まる夕暮れ、白装束の少女がこちらを見上げている。黒髪が風に揺れ、静かに口を開いた。

 「……なぎさ、戻ってきてはだめだよ」

 声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。目を覚ますと、外は静まり返っている。時計の針は午前三時を指し、波のような耳鳴りが続いていた。


 ふと気配を感じた。玄関のほうで何かが動く音がする。凪沙は息を潜め、懐中電灯を手探りで掴んだ。光を向けると、戸の隙間に白い布の端が揺れた。

 息を呑む間もなく、布はするりと消え、風もないのに古い家の襖が小さく鳴った。


 翌朝、戸口に白い紙垂が落ちているのを見つけた。紙には古い墨の跡でこう記されていた。


 「禍津日の黄昏、ひとりは還り、ひとりは消える」


 凪沙は震える指でその紙を拾い上げた。指先に、昨晩夢で見た巫女の声が、まだ残っているような気がした。

 まるで、あの言葉が現実の時間を切り取って残した“痕跡”のように。


 村に、また黄昏が訪れようとしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る