Laustella — 黒鴎学園制覇計画
桃神かぐら
第1話 沈黙の支配
朝のホームルーム開始五分前、
人がいないわけじゃない。
むしろ逆だ。教室に入りきらなかった生徒たちが、壁にもたれてスマホをいじり、教室前に群れて笑い声を上げている。
なのに――静かだ。
笑い声は、耳の奥まで届かない。
名前の呼び合いも、靴音も、全部、透明なガラス越しに聞いているみたいに遠い。
俺は、三年二組の扉の横。
掲示板に貼られた最新の「評価一覧」を、ぼんやりと見上げていた。
四ノ宮 諒 成績:B 人格:C 協調性:C 指導履歴:なし
総合評定:B
そこに並ぶ文字列は、先週と一文字も変わっていない。
名前の右隣に印字された「B」の文字は、まるで俺を固定する
(……今週も、変わらず“中の下”か)
ため息をつくほどの感情は、もう残っていなかった。
上を見れば、SSやAがずらりと並んでいる。下を見れば、CやD、ところどころにE。
そして、紙の一番下。空白の行に、小さく印字された一文。
――Fランク該当者は、教室外別室にて指導中。
指導中。
誰も、その意味を口にしない。教師も、生徒も。
「お、また更新されてるじゃん」
すぐ横で、軽い声がした。
振り向くまでもなく、誰の声かはわかる。
城戸
この教室の“王様”。
彼は俺の肩越しに掲示板を覗き込むと、自分の欄を見つけて、満足そうに口角を上げた。
「ほら見ろよ。SS、維持。やっぱ俺、天才じゃね?」
成績:A
人格:A
協調性:A
指導履歴:模範生徒表彰
総合評定:SS
すべてが、整いすぎている。
それを疑う権利は、この紙を見上げているどの生徒にもない。
「城戸くん、昨日の課題出してなかったよね?」
後ろから、少し低めの女子の声が飛んだ。
「そこはほら、人格点で相殺ってことで。な、先生?」
城戸が振り返り、廊下を歩いてきた担任と目を合わせる。
担任は、軽く笑って肩をすくめた。
「そうだな。城戸は普段からよくクラスをまとめてくれているし、多少の提出遅れくらいなら、総合的に見てプラス評価だ」
その言葉に、何人かが笑い、何人かは黙り込む。
誰も、異議を唱えない。
掲示板の右下、小さな文字が目に入る。
※評定は、学業・人格・協調性・校内貢献を踏まえ、教員の裁量により総合判定されます。
――教員の裁量。
つまり、それがすべてだ。
「……四ノ宮は、Bか」
ふいに担任の視線が、俺の欄に落ちた。
俺はとっさに背筋を伸ばす。
「可もなく不可もなく。目立たないってのも、この学園では一種の才能だな」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていなかった。
俺は曖昧に笑って、ごまかす。
「……はは、どうも」
才能ってほどのものじゃない。
ただ、殴られないラインと、無視されないラインのちょうど真ん中あたりを、ずるずると歩き続けているだけだ。
Aにもなれず、Cにも落ちきれない。
そういう半端な位置。
「じゃ、ホームルーム始めるぞ。中に入れ」
担任が教室に入り、周囲の生徒たちもぞろぞろと続く。
俺もその流れに紛れ込もうとして――その前に、小さな影が視界に差し込んだ。
「諒くん」
透明感のある、澄んだ声。
御影
黒鴎学園の“頂点”。
彼女は掲示板を見上げるでもなく、まっすぐ俺を見ていた。
「今週も、B維持だね。よかった」
心底ほっとしたような表情だった。
その顔を見て、少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
「……どこが“よかった”だよ。ずっとBのままなんて、全然成長してないってことだろ」
「ううん」
彩瀬は首を横に振る。
「Bって、“安全圏”なんだよ。上からも下からも、無理に引きずられない。諒くんが、諒くんのままでいられる場所」
そんな言葉を、本気で言えるのは、たぶんこの学園で彼女だけだ。
彼女自身は、掲示板の一番上に名前があるのに。
御影 彩瀬 成績:A 人格:A 協調性:A 校内貢献:特A
総合評定:SS
紙の端には、金色のスタンプが押されている。
――特別優遇対象。
「……彩瀬は?」
「え?」
「お前は、怖くないのかよ。上にいるの。落ちるかもしれねえのに」
一段上がるほど、足元は狭くなる。
ほんの少しの“機嫌”で、誰かの指先ひとつで、簡単に蹴り落とされる高さ。
そこに立ち続けるのが、どれだけの負担か。
俺には、想像することしかできない。
彩瀬は、少しだけ目を丸くしてから、ふっと微笑んだ。
「怖いよ?」
あっさりと言った。
「怖くないわけないよ。いつだって、足場はぐらぐらしてる感じ。
……でもね、上にいると、見えるものもあるんだよ」
「見えるもの?」
「たとえば――」
彼女は言いながら、そっと左手を伸ばした。
俺の胸ポケットの端を、親指と人差し指で軽く摘まむ。
そこには、小さく折りたたんだ紙切れが入っていた。
昨日、放課後の図書室で、俺がもらったもの。
――いつか、ここから一緒に逃げようね。
たった一行だけ書かれた、走り書き。
彩瀬は、その紙の存在を確かめるみたいに指先で軽く押し、そのまま視線だけで微笑んだ。
「……たとえば、“出口”とか」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
この学園に“出口”なんてない。
そう教えられてきたし、そう信じていた。
転校は実質不可能。退学は自殺と同義。残るのは、卒業という名の“延命”。
それでも。
図書室の片隅で、彼女が小さな声で囁いた。
――“卒業したら、一緒に逃げようね”
その約束だけが、ここでまだ息をしている俺の、“唯一の証拠”だった。
「諒くん」
「……なんだよ」
「ホームルーム、始まっちゃうよ」
気づけば、廊下はもうほとんど空になっていた。
教室の中からは、椅子を引く音や、談笑が漏れてくる。
「ねえ」
彩瀬は、扉に手をかけてから、もう一度だけ振り返った。
「今日も、何も起こりませんように」
小さく、祈るみたいな声だった。
それは、ただの挨拶みたいにも聞こえるし、冗談のようにも聞こえた。
でも、その目だけは、笑っていなかった。
「……お前がそう言うと、逆にフラグに聞こえるんだけど」
軽口で返してみせると、彩瀬はふっと目を細めた。
「じゃあ――“何か起こっても、諒くんが無事でありますように”」
「範囲狭めんなよ」
「大事な人の安全は、最優先だから」
何でもないように言って、彼女は扉を開ける。
教室のざわめきが一気に溢れ出し、その中に彼女の姿が飲み込まれていった。
扉が閉まる直前、城戸の声が聞こえた。
「おー、御影。今週もSS様、ご登場っと」
教室の内側で、笑いが起きる。
その笑いに、どんな感情が混じっているのか。
羨望か、嫉妬か、期待か、諦めか。
俺には、それを判別するほどの繊細さは持ち合わせていない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがある。
――この教室は、壊れている。
誰もそれを口にしない。
誰もそれを認めない。
「制度だから」「決まりだから」「そういうところだから」
そうやって言葉を重ねているうちに、気づいたら、何が普通で、何が異常なのかも、全部、曖昧になっていく。
扉を見つめたまま、ポケットの中の紙切れを指先でなぞる。
いつか、ここから一緒に逃げようね。
――“いつか”って、いつだろう。
卒業まで、あと一年と少し。
その間に、この教室は何人の“F”を生むんだろうか。
「四ノ宮。何してんだ。さっさと入れよ」
教室の中から、誰かがぶっきらぼうに叫んだ。
「ああ……今行く」
俺は、最後にもう一度だけ掲示板を見上げる。
四ノ宮 諒 総合評定:B
そこに印字された一文字を、心の中でそっとなぞる。
(――今日も、何も起こりませんように)
内心で、彼女と同じ言葉を反芻しながら。
それが、この日、この教室で最初に崩れる“フラグ”になるとも知らずに。
俺は、教室の扉を開けた。
教室に入った瞬間、空気が変わる。
廊下に漂っていた“透明な静けさ”はそこにはなく、
代わりに張りつめた蜘蛛の巣みたいな緊張が、天井から垂れ下がっている。
席に向かう途中、誰かと肩が軽くぶつかった。
振り向いて謝ろうとした瞬間、相手の評定タグが目に映る。
――D。
(……あ、やば)
反射的に背筋が固くなる。
「……すまん」
頭を下げると、相手は無表情のまま小さく頷いた。
「いいよ。四ノ宮先輩はBだから」
短い言葉に、そこはかとない意味が含まれていた。
“Bだから許される”
“DがBに文句は言えない”
この学園では、そういう暗黙は“常識”に分類される。
俺は席につき、深く息を吐いた。
ほんの少し、廊下より空気が重い。
「センセー、昨日のプリント回収でーす!」
明るい声とともに、
城戸の参謀役。
その評価タグは――A。
その背中に自然と視線が集まる。
「ほら、城戸もさっさと出しな。あんた昨日『忙しい』って言って出してなかったでしょ?」
「任せろ任せろ。提出は“今日”なんだから問題なし」
その返しに、周囲がクスクスと笑う。
ディスでもない。皮肉でもない。
“笑うのが義務”みたいな雰囲気。
「でも、城戸くん。昨日のチューター打ち合わせ無断欠席してたじゃん?」
どこからか声が上がる。
普通なら、指導対象。
だけどこの教室の“普通”は、外界とは違う。
担任が笑いながら答えた。
「いや、あれは私の指示だ。城戸には別件を頼んでいたからな。評価的にはプラスでいいだろう」
「だよねー!」
白月が笑顔で担任とハイタッチする。
そのやり取りを見て、俺は悟る。
(……今日も、いつも通り)
この学園には、“納得”という概念がない。
あるのは“諦め”だけ。
人は不合理を受け入れる瞬間、精神を麻痺させる。
その麻痺が空気の中に溶け込み、支配の構造になる。
「御影は?」
城戸がキョロキョロと教室を見渡す。
彩瀬はすでに席に座っていて、ノートを開いて静かに読んでいた。
誰とも話さない。
誰も彼女に無茶な命令はしない。
SSランクは、絶対的存在。
触れることすら“不敬”。
「いやー、御影は優等生だからなぁ。俺とは違って」
「いや、お前も優等生だろ。SSだし」
「いやいや。俺より上がいるだろ?ほら――御影さん」
城戸の視線が彩瀬に向く。
それは挑発でも威圧でもない。
ただ、座標確認。
序列世界の**“秩序の挨拶”**。
彩瀬は城戸の視線を受け、柔らかく微笑んだ。
「城戸くんは城戸くんで、ちゃんと努力してるもの」
「はっ。御影に言われんのが一番効くわ」
その言葉に、笑いが起きる。
だけど俺には気づいていた。
――彩瀬の眼の奥に、笑っていない影がある。
彼女の微笑みは、ほとんど“祈り”に近い。
この教室が崩れなければいい
この制度が暴走しなければいい
誰かが壊れなければいい
まるでその願いを、毎日手のひらに包んでいるみたいだった。
「四ノ宮は?」
城戸の声が飛ぶ。
俺は思考の中から無理やり現実に戻される。
「……俺は、まあ。普通にやってるだけ」
「まあ“普通”が最強だからな」
その言い方は、褒め言葉ではなく“位置づけ宣言”だった。
白月が笑いながら補足する。
「Bは“本当に何も持ってない層”だからね。犯されも踏まれもしないけど、守られることもない」
それは事実だった。
「……Bは、便利だよね」
「うん。便利」
彩瀬が小さな声でつぶやく。
その“便利”の意味は多重構造だった。
城戸側から見れば、“道具”として便利。
教師から見れば、“管理しやすい”から便利。
そして彩瀬から見れば……
(……傷つかないでいてくれる存在、か)
あの図書室で聞いた言葉が胸の奥で響く。
――“諒くんは、諒くんのままでいてほしい”
それがどれほど切実な願いだったのか、今の俺には理解できない。
理解できるのは、もっとずっと後になる。
「はい、席に着けー。今日も“いつも通り”な」
担任の声が響く。
“いつも通り”
その言葉が、この学園では一種の呪いだ。
“いつも通り”が続く限り、誰かは死ぬ。
“いつも通り”が壊れたとき、世界は崩れる。
そしてその“崩壊”は――
まだ、誰も気づいていない場所から始まる。
その引き金は俺じゃない。
でも、俺がそれを“止められない理由”が、すでに教室じゅうにばら撒かれていた。
「ほら、黒板に貼っとくぞ。今週のランキングも」
担任が新しい紙を貼り出す。
その紙には、大きくこう書かれていた。
《トップランク者は下位者に対する命令権を持つ》
それは校則ではなく、
“制度”という名の武器。
それが教室の空気に溶け、
ひとつの“支配”として成立する。
俺は、その紙を見る。
そして、自分のポケットの中にある紙切れも思い出す。
――“いつか逃げようね”
その言葉が、
この地獄から逃げるための唯一の“出口”だった。
この時の俺はまだ知らない。
その“出口”が、誰かを崩壊させる引き金になるなんて。
そして――
壊れるのは、俺じゃなくて世界だということを。
ホームルームが始まると同時に、担任は黒板前に立った。
「今週の連絡は三つだ。どれも重要だから聞け」
空気がわずかに固くなる。
“重要”という言葉は、この教室では“命令”とほぼ同義だ。
「まず一つ目――“評定の再評価”だ」
ざわつく生徒。
再評価は一見平等だが、実際は教師の裁量の象徴だ。
「授業態度、課題提出、協調性。すべてを総合的に判断し、適切なランクへ調整する。これは……“公平性”のためだ」
“公平性”という言葉に、
教室内には薄い嘲笑が混じる。
公平ではないことを、全員が知っている。
でも、それを“口にしないこと”が制度の根幹だ。
「二つ目。来週から、SSランクは“特別指導班”として教室管理業務を手伝う。任務の範囲は――」
そこまで言った瞬間。
城戸が手を挙げた。
「俺、任されていいの?」
担任は嬉々として頷く。
「お前はクラスの模範だ。適任だ」
(……模範?)
諒は内心で吐き捨てる。
模範ではない。
ただ“教師が利益を得るための手先”だ。
そして、ここがAのポイント。
「ただし、管理対象は“下位ランク”に限る。
従わない場合は、評定の再評価を行う」
教室内の空気がピシッと凍る。
意味は――
“反抗=降格=人権剥奪”。
制度は暴力ではなく“命令系統”として存在する。
誰かが息を呑んだ。
誰かが目を伏せた。
教師は続ける。
「それから三つ目。“今週のFランク”は――」
黒板に貼られた紙をめくる。
Fランクの枠は――“空白”。
「今週の該当者は、なしだ」
その言葉を聞いた瞬間、
ざわつく空気とは別に、
諒の胸に小さな違和感が生まれる。
(……“なし”?)
先週までは、一人いたはずだ。
名前は――
神谷怜央。
授業態度悪くない。
提出物も通常。
ただ“城戸に気に入られていなかった”。
その彼の名前が、今週は“どこにも”ない。
(……どこへ行った?)
教室内の誰も、その疑問を口にしない。
口にしてはいけない。
ここで教師が言う。
「Fランクは“別室指導”が原則だ。存在の扱いは……まあ、“そういうもの”だ」
その言い方が、人を“物”にしていた。
物と同じように、扱っていいと暗に示していた。
これがA:教師の異常な一言。
⸻
授業が始まって二十分。
黒板の文字が揺れるように見えた。
原因は、外ではない。
この教室の空気そのものが狂っている。
(……“何か”が、確かに動き始めてる)
まだ言語化できない予感。
授業終了のチャイムが鳴る。
担任が退出する。
誰も立たない。
誰も動かない。
その静けさの中で、彩瀬は席を立ち、諒の方へ歩いた。
そのまま、何の前触れもなく、声を落とす。
「ねえ、諒くん。……今日の“別室指導”、知らないよね?」
「……え?」
「誰も見てないよね?」
その問いは意味が掴めない。
諒は眉を寄せる。
「何言ってんだよ。Fはいないんだろ?今週は」
彩瀬は小さく首を振った。
「“いない”んじゃない。
“いなくなった”んだよ」
息が止まりかける。
「……神谷?」
彩瀬は、わずかに目を伏せる。
「この教室から“除籍”された。
書類上は“退学”。
でも、どの私立も受け入れてくれない。
だから――」
言葉が途切れる。
その先は、言ってはいけない領域。
諒はかすれた声で言う。
「どこに行った?」
彩瀬は、嘘をつく。
「……どこにも」
小さな嘘。
けれど、それはこの学園の何よりも重い。
(……なんで嘘を?)
諒の胸の中に、“理解できない違和感”が刺さる。
これがC:彩瀬の初めての嘘。
⸻
昼休み。
廊下の掲示板の端。
神谷怜央の名前のある行は――
黒マーカーで塗りつぶされていた。
そこに誰も触れようとしない。
諒は数秒、その塗り跡を見つめる。
胸の奥で“何かが壊れる音”がした。
(いない……じゃなくて、消された)
これがB:Fの失踪(消去)。
⸻
この瞬間が、
黒鴎学園崩壊の最初の1ピース。
だが、諒はまだ気づかない。
この“静かな揺らぎ”が、
後に教室全体を破壊する津波になることを。
そして、その津波を止められる唯一の存在が
彩瀬で、
その彩瀬が、
最も深く傷つくことを。
この時の俺はまだ
何も知らない。
ただ
ひとつだけ
感じていた。
(……何かが、決定的に狂ってる)
その“狂い”は、
静かに、しかし確実に、
俺たちを飲み込んでいく。
昼休みが終わったあとも、教室の空気は重かった。
誰も神谷の話題を出さない。
誰も“消えた”現実に触れない。
それは、
黒鴎学園では当然のルールだった。
“語ってはいけないものは、存在しなかったことになる”
それが、この制度の最大の武器。
――沈黙の支配。
放課後、俺は教室を抜けて、屋上へ続く階段の踊り場に立っていた。
人の気配はない。
ここは“制度の影”が薄い、数少ない空間。
大きく息を吐く。
(……神谷は、どこへ行った?)
――“どこにも”
彩瀬はそう言った。
嘘だ、と直感した。
あいつは嘘をつく人間じゃない。
真っ直ぐすぎて、馬鹿みたいに優しくて、
誰よりも正義感が強い。
その彼女が、初めて嘘をついた。
その嘘は俺の中に、
言葉にできない違和感だけを残した。
「……なんで嘘なんてついた?」
言葉にしてみるが、答えは出ない。
考えれば考えるほど、
胸の奥が圧迫される。
吐き気にも似た感覚。
世界が、
どこかで壊れ始めている気がした。
でも、誰も気づかない。
誰も見ていない。
俺だけが、微かにそれを感じている。
それが恐怖なのか
怒りなのか
無力感なのか
自分でもわからない。
ただ、ひとつ言えるのは、
(――このままじゃ、ダメだ)
何が“ダメ”なのか、言語化できない。
けれど、
この沈黙の制度、この偽りの平穏、
消されていく名前、嘘をついた彩瀬……
全部、壊れてる。
そしてなにより――
(……俺も壊れる)
まともな神経の人間ほど、先に壊れる。
それがこの学園の“暗黙の真理”。
その時、背後から気配がした。
「……諒くん?」
振り返ると、彩瀬だった。
階段の途中で立ち止まり、
不安そうな目で俺を見ている。
「ここにいると思った」
「……なんで?」
「諒くんは、考え込むと“ここ”に来るから」
彩瀬の声は曇っていた。
いつもの透明感がない。
「……神谷のこと、気にしてる?」
「……気にするなって方が無理だろ」
「そう、だよね」
彩瀬は悲しそうに笑う。
「諒くんは、優しいから」
「俺は優しくなんか――」
「優しいよ」
遮るように言って、
それ以上の説明はしなかった。
「……ねえ、諒くん」
「なんだ」
「この学園のこと、どう思ってる?」
「……壊れてるよ。明らかに、な」
言ってから、気づく。
自分の声が、どこか冷たい。
彩瀬は目を伏せた。
「諒くん……怖い」
「何が」
「今の諒くん。……すごく怖い」
その言葉が、胸に刺さった。
(……俺が、怖い?)
俺は優しいわけじゃない。
正義感が強いわけでもない。
ただ、壊れていく世界を見て、
それを“許せない”と感じているだけ。
その“許せない”が、
何に繋がるのか、まだわからない。
でも、確実なのは――
(俺は、この制度が“嫌い”だ)
その拒絶感は、
復讐でも怒りでもない。
ただひとつ。
“拒否”という名の芽。
それが、
諒の内部で静かに生まれた。
この瞬間、
誰も気づいていない。
教師も、
城戸も、
白月も、
そして――
彩瀬ですら、
この芽が、“殺意”に育つ未来を知らない。
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