恋愛嫌いの私立探偵は、独占欲強めの溺愛紳士に変装する

佐海美佳

名探偵、登場する(1)

 サウスポートの大きな駅舎から、旅行鞄を持った1人の若い女性が人並みに押されながら出てきた。外は寒風が吹きすさび、乾いた石畳の道に落ちた枯れ葉を舞い上げている。

 彼女の名前はグラディス・ウォルフォード。

 艶やかな栗毛をアップスタイルでまとめた頭を、きょろきょろと動かしながら歩いている。大きな目が好奇心で輝いていた。田舎で生まれ育った彼女にとって、見るもの全てが新鮮だった。

 レンガ造りの大きな駅舎から、まっすぐ伸びるメインストリートを歩いていた。通行人の多くが港で働く労働者である。田舎っぽい素朴なドレスではあるが、貴族であることがわかるグラディスに、からかうようにぶつかってくる男もいる。

「おっと、ごめんよお嬢さん」

 薄汚れた顔をゆがめて、笑いながらぶつかってきた男の腕には、髑髏の入れ墨が見えた。潮の香りがする寒風に負けじと、たくましく太い腕を見せびらかすように袖をまくっているから、自然と目につく。

「大丈夫よ」

 グラディスは、おくびれることもなく言葉を返した。

 しかし、このままでは目的地へたどりつく前に日が暮れてしまう……。ふぅ、と彼女は大きく息を吐き出した後、空を見上げた。よし、と心の中で自分を鼓舞する。

「失礼します!」

 ハキハキとした大きな声に驚いた通行人が、道を空けた。

 荷物が詰まった旅行鞄と、長いスカートを引きずらないように持ち上げていた手に力を込めて、グラディスは歩き始めた。上半身を少し傾けて進行方向を明らかにし、ショートブーツのかかとをコツコツ鳴らして進む。

 都会では、度胸と思い切りが大事なのだとわかりかけてきた頃、目的の場所が見えた。大通りから少し離れ、小さな教会のある脇道に入り、並んだ白い壁の建物に、目立つ赤い看板。

 『バーンスタイン探偵事務所』

 古風な書体で看板に書かれていた。

 見上げながら玄関の前に立っていたグラディスは、迷いを振り切り、呼び鈴を鳴らす指に力を入れた。が、呼び鈴を押す前に、背後から声を掛けてくるものがいた。

「あんたがシャーロットさんのお知り合いかね」

 グラディスは慌てて振り返った。

 老婆が立っていた。背骨は曲がり、杖をついている。背は低いけれど、真っ白な髪を後ろに奇麗にまとめて、上品さが醸し出されていた。

 どうしてシャーロットの知り合いだとわかったのだろう。

「はい。そうですが、どうかされましたか?」

 シャーロットは、一時期グラディスの生家で女中をしていた女性の名前である。シャーロットの家庭の都合で職場が変わることになり、離ればなれになっていたが、懐いていたグラディスは何度か手紙やハガキを送って親交を繋いでいたのだ。

 今日、ここにやって来たのも、そのシャーロットのためである。

「伝言があるんだよ」

 老婆は細い眉を気弱に曲げて、しわがれた声を絞り出している。

 見知らぬ人物に話しかけている割に、妙に人懐っこい老婆の笑顔のおかげでグラディスは気を許してしまった。

「まぁ、そうでしたの。どういったご用件でしょうか。私、グラディスと申します」

 困っている人を見捨ててはおけない。そんな思いもあった。

 グラディスは少し膝を折った。背の低い老婆の顔に近づく。

「おぉ、おぉ、おぉ、確かそんな名前だと言っておった」

 老婆は、何本か抜けた歯を隠しながら笑った。

 この街で暮らすシャーロットの知り合いかなにかだろう。グラディスはそう結論づけた。

「家の呼び鈴を押す前に、通りを挟んで向かいの仕立屋に行って、直してもらっていた洋服を受け取ってきてほしいんだと」

「お安い御用ですわ。シャーロットさんのお名前を出せばわかるかしら……」

「あぁ、大丈夫さ。いつも使っている店だからね」

「あちらのお店ですのね?」

 グラディスが老婆から視線を仕立屋に移し、確認の返事をもらうために、また老婆を見ようとすると……

「あら?」

 老婆は煙のように消え去っていた。

「え? あの、おばあさま?」

 杖をついていたことから察するに、それほど機敏に動けるとは思えない。通りには人も多く歩いているので、紛れてしまったのかもしれないけれど、あの白髪は人混みの中でも目立つはずだ。

 グラディスは、目を凝らして探したのだが全く見つからなかった。

「まるで都会の狐につままれたようだわ……。あの老婆は一体、誰だったのかしら。いえ、夢かどうかはお店に行ってみれば分かるでしょう」

 慣れない土地に到着して、少し気弱になっていたかもしれない。彼女はそう思い直し、しゃんと背筋を伸ばして仕立屋に向かった。

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