神罰律導の王女メアリー ―十九柱の黙示録―
空識(くうしき)
第1話 「静かなる継承の朝」
夜明けの鐘が鳴るよりも早く、王城の空気は不思議な静けさに包まれていた。冬を告げる薄い霧が中庭に漂い、草葉には冷気が染み込んでいる。だが、その静寂は平和ではなかった。むしろ、何かが“始まる前の空白”のように沈んでいた。
王女メアリー・アークライトは、その朝、胸元に微かな痛みを覚えて目を開けた。夢を見ていたような気がする。だが内容ははっきりしない。ただ、胸の奥に冷たい刃が残っているような感覚だけが残っていた。
侍女のクラリスが控えめに声をかける。
「姉上、起床のお時間です。……お顔の色が優れませんが?」
「少し夢を見ただけよ。気にしないで」
そう答えた瞬間、胸奥の痛みがまたひとつ脈動した。
あれは夢ではなかったのかもしれない――そう思わせるほど、痛みは生々しい。
(これは……何? 記憶の欠片?)
頭のどこかで、聞いたことのない響きが流れる。
冷たい街灯。白い息。銀の刃。
そして――“朱に濡れた夜道”。
メアリーは思わず胸元に触れた。だが、そこには傷も痛みも見つからない。体は完璧なまま。けれど、魂の深層だけが震えていた。
心のざわつきを抑えようとしたそのとき、侍女クラリスがそっと手を伸ばした。
「姉上、本当に大丈夫ですか?」
その声音は優しく、真っ直ぐで、かつてのメアリーをよく知る者だけが持つ温度だった。
だが――メアリーはなぜか、一瞬だけ妹の手に触れることをためらった。
自分でも理由が分からない。
ただ、直感が告げていた。
**近づけない。触れてはいけない。
触れれば、何かが壊れる。**
クラリスの手が空中で止まり、悲しげな影が浮かぶ。
「……ごめんなさい、クラリス。少し考えごとをしていただけよ」
「姉上が謝る必要なんてありません。わたしは……姉上が元気なら、それだけで」
その言葉に、胸の痛みが僅かに和らぐ。
妹が大切で、愛しい――そう確信できた。
だがその直後、視界の隅で何かが微かに揺れた。
金色の粒子――いや、光の欠片か。
それは霧の中を漂いながら、メアリーの足元へと吸い込まれていった。
(また……この光。ここ数日、ずっと感じる。
まるで誰かの“残滓”が私の中へ流れ込んでくるような……)
胸の痛みは確信へ変わり始める。
**これは私だけの記憶ではない。
もう一つの魂が目覚めようとしている。**
食堂へ向かう廊下は、古い石造りで温度が低い。
しかし、今日に限っては空気そのものが重かった。
道すがら、二人の侍従がひそひそと話している。
「……まただ。昨夜も王都外縁で小領主が倒れたと……」
「病死だと言うが、急すぎるな。あの体勢転覆派だった男だ」
「王女の――いや、“何か”の怒りか?」
メアリーが通ると、侍従たちは慌てて口を閉ざした。
クラリスが気まずそうに微笑む。
「最近、皆……姉上にどこか距離を置いています。
でも、気にしないでください。きっと――」
「私が変わったから、でしょうね」
「え……?」
メアリーは自分の声が驚くほど冷静であることに気づいた。
「分かっているの。私の中で……何かが動いている。
何かが私を“選んだ”。そんな感覚があるの」
クラリスは息を飲んだ。
「姉上……それは何のことですか?」
「分からない。でも、これだけは確か。
誰かの記憶が……痛みが……私の中で泣いているの」
言葉が漏れた瞬間、胸の奥で“別の声”が震えた。
(あなたは……死んだのよ……冷たい夜に……
でも、私は……まだ伝えていない……家族に……)
あまりにも生々しい。
まるで、自分が二度死んだ記憶を持つかのようだ。
クラリスは姉の手を握ろうとする。
しかし、メアリーはまた無意識に後退った。
「……どうして、避けるのですか」
「違うの、クラリス。私は――あなたを傷つけたくないの」
「私は姉上に傷つけられることなどありません!」
その声は震えていた。
妹は姉の変化に怯えている。しかし、それ以上に――
**姉と離れることを恐れていた。**
「お願いです、姉上。わたしを……避けないで……」
メアリーは言葉を失った。
胸の奥の“もう一つの魂”がざわめき、痛みを走らせる。
(傷つけたくない……誰も……
でも、あの日……私は守れなかった……)
記憶の断片が脳裏を叩く。
夜道。
包丁。
朱色の液体。
冷たいアスファルト。
そして――死。
メアリーは胸を押さえ、立ち尽くした。
「メアリー姉上!?」
「……大丈夫。問題ないわ。
ただ、この国で何か大きな“変化”が始まっているだけ」
その時、城全体を揺らす警鐘が鳴り響いた。
低い、重い、破滅を告げる音。
「な、何が――」
衛兵が駆け込んできた。
「報告! 王都外の聖樹教会大聖堂が……突然、崩落を――!」
「崩落……? 理由は?」
「分かりません! ただ、空から光が落ちたという目撃が多数……!」
クラリスが青ざめる。
「姉上……光……?」
メアリーの胸が熱を帯び、光の粒子がまた足元に降りる。
(違う……私じゃない。
でも、私の中の“誰か”が……この世界の悪意を拒絶している)
そして気づく。
これは序章に過ぎない。
十九柱が与えた“調律”は、まだ目覚め始めただけなのだ。
「クラリス。急いで教会の被害状況を確認に行くわ。
この国の運命が……今日から動き始める」
「わたしも……ご一緒します!」
メアリーは妹の手をそっと握った。
今度は拒絶しなかった。
しかし――
胸の奥の別の声は呟いていた。
(また……守れなかったらどうしよう……
大切な人を……)
十九の光が彼女の背後に寄り添うように揺れた。
まだ誰にも見えない神罰の気配が、静かに世界を満たし始めていた。
こうして黙示録の第一章は、静かに幕を開けた。
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