蒼き狼は、名を捨てた。
1Chiba1_26
北へ。名も無き男。
日本史に、源義経は死んだ。
だが世界史は、その男の名をまだ知らなかった。
海は、すべてを呑みこむ色をしていた。
鉛を溶かしたような重たい波が、北の荒海をゆっくりとうねり、
黒々とした船腹を打っては崩れ、また盛り上がる。
義経は船縁に立ち、
遠ざかる故郷の島影を、ただ黙って見つめていた。
もう、どこにも帰る場所はない。
最後の頼みの綱にたどり着いた奥州平泉。しかし、そこで経験したのは、冷たい裏切りだった。
背後では、数人の郎党が、言葉少なに身を寄せ合っている。
凍てつく風が吹き抜けるたび、
彼らは蓑を掻き合わせ、歯を鳴らした。
「殿――」
郎党の筆頭、そう、武蔵坊弁慶が低く呼びかけた。
義経は振り返らない。
「追っ手は、もう来ぬでしょう。
奥州への道は、すべて封じられております。
……日本に、戻る術はございませぬ」
弁慶の声には、
諦めと、かすかな安堵とが、奇妙に入り混じっていた。
義経は、静かに笑った。
「戻る、か」
かつて彼が守ろうとした国は、
もう彼を必要としなかった。
勝者は源頼朝、
敗者は源義経。
その一行が記されるだけで、すべては終わる。
義経は、胸元から小さな守り刀を取り出した。
幼いころ、母から与えられた護符代わりの短刀。
鞘には、かすれた桜の紋が彫られている。
指でなぞると、冷たい感触が残った。
「英雄はな、弁慶――」
義経は、海へ視線を戻したまま言った。
「国にとって、都合のいい死に方を選ばされるものだ」
弁慶が、息を呑む音がした。
「殿……それでは――」
「だから、俺は死ぬ」
義経の声は、凪いでいた。
「というより、もう死んでいるのだ。」
そう言って、
彼は短刀を、波へ投げた。
銀の弧を描いた刃は、
海面に触れた瞬間、音もなく沈んでゆく。
――源義経は、そこで死んだことになる。
残るのは、
名前を捨てた逃亡者が、ひとり。
船は北へ進み、
やがて陸影が霞の向こうに浮かび上がった。
人は蝦夷と呼ぶ、北の大地の果て。
さらにその向こう、大陸へ渡るための中継地。
日本のすべてが、
この海の向こう側へ置き去りになる。「源義経」という名前と共に。
夜。
焚き火を囲んで、郎党たちは、ほとんど口を開かなかった。
風の音だけが鳴る。
義経は、火を見つめていた。
揺れる炎の奥に、
京の街並みがかすかに重なる。
五条橋、清水、
そして――戦場に倒れ伏した者たちの顔。
頼朝の名も、
都の罵声も、
帝の威光も、
すべてが、遠い夢のようだった。
弁慶が、ぽつりと言った。
「殿は……この先、どうなさるおつもりで?」
「どこにでも行ける。何でもできる。」
夜空を仰ぐ。
明るく北斗七星が輝いている。
すると、夜空に獣が現れた。朧げに、でも確かに。
長く、しなやかな影。
月光に浮かび上がる、鋭い眼。
――狼だった。
義経は、じっとその目を見返した。
獣と人が、無言で睨み合う。
しばしの沈黙ののち、
狼はふいに、星空に消えた。
義経は、ゆっくりと息を吐いた。
「俺は――」
そう呟きかけて、言葉を飲み込んだ。
名を呼ぶ必要は、もうどこにもない。
日本で死んだ男に、
名乗る名など、残ってはいなかった。
焚き火の中で、
炎が一瞬、蒼く揺れた。
義経は、その色を見つめながら、
静かに目を閉じた。
――蒼き狼は、
まだ、自分が何者になるのかを、知らなかった。
雲が流れ、北斗七星を隠した。
鶴が飛んでいる。義経____もとい、名を捨てた男は、去っていく鶴の行方を、ずっと見つめていた。
蒼き狼は、名を捨てた。 1Chiba1_26 @Chiba_26
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