世神悦樂流舟記
ぴーや/住江愛
出立 その1
こういった、全てがあると思われてしまうような特徴を持つ、とりわけ特殊な場所なので、この地は万物街と呼ばれるようになった。
さて、東家は、
ただ、東家の分家の中でも代々一族に関する事柄で発言権のあった家があった。そこの、何代目かはもう記録を残すようなことを東家はしなくなってしまったが、いつかの長男には多大なる期待が寄せられていた。分家の長男に過ぎぬというのに、神樂という名が与えられるほどだった。
いや、もしかしたらあの名はただの願いだったのかもしれない。そう推測するのは、神樂の生涯の親友だった。その考えには多数の根拠が基底にあり、体系化し文書でわかりやすく説明するのはなかなか難しいものであった。ただ、もしもこの問題を矮小化し単なる記号として捉え、それでは次へ、と冷たくあしらうのであれば、ひとえに、神樂の母が人間であったことが原因だと推測される。
神樂の生涯の親友はのちにこう語る。
「私の持論で異類婚姻譚の成功の果てにあるのは、生まれた子の不幸であるというものがあるが、彼の子の不幸の果てには、私の推測とはぜんぜん違う結果が横たわっていたようだった」
◆
神樂は辟易としていた。別に、生まれの万物街の百人住まいの石畳通りの苔がひどくなっているとか、万食通りにいつも以上に、それも彗星祭りの時期でもないのに、大量の人がさまざまの飲食店に並んでいることとかを嫌に思っているわけではなかった。誰かがどうにかしてくれたらいいのに、みたいに我関せずを装いつつ、家に苔を取り除ける物があったかどうかを考えてしまうくらい、この街のこと自体は好きだった。
神樂は見た目だけでいえば、鹿者だとすぐに判断できるような特徴は持っていなかった。彼は紺色の着物を着ていて、よく懐に小さな数学書を入れて暇になればすぐに開いていた。彼の頭髪は妖の世では地味とされる栗色で、頭は丸く、鹿者の特徴である角は生えていなかった。柔和で垂れ気味の目は金色でそれは母似の、神樂が気に入っている部分だった。ただ、最近はその目も伏しがちになり彼の側頭部にある鹿の耳も気だるげそうにしていた。
何も、ただ日々の繰り返しにすり減って疲れたわけではない。彼は学問が好きで毎回見方が変わるさまざまの問題にほとんど毎日向き合っていた。学者というわけではなく、単なる趣味であった。
問題といえば、彼が過去から現在までずっと抱え続けているものがあった。彼が原因だったり、彼が好きこのんで抱え始めた問題ではなかった。それは彼の身の上に関係するものだった。
彼の一族の跡取りが、どうしてもなかなか決まらないのだ。神樂は東家の分家の長男で、本来はそんな面倒ごとに巻き込まれるよしはなかったはずだったが、なぜだか彼の同年代の本家の子どもは、みんな女性だった。妖の世で、女性だからと跡取りの候補から除外されるのは正直いって時代遅れではあったし、神樂も彼の両親も他の分家の者たちもみんなそう思っていたが、本家がそういうのだからわざわざ分家の息子たちがみんな万物街に召集され、一週間ほど会議を行なっていた。
会議はおどる、されど進まず、という有名な言葉の方がまだましな会議だった。ひたすらに次期当主を押し付け合い、進歩があるどころか疲労の重なりで、みんなどうしようもないような感じを醸し出していた。
神樂の生まれた家は神樂しか子どもがいない上に、彼自身この一族がとりわけ大切にしている伝統の舞が上手であった。だから、とある誰かによって彼には他の誰よりも後継の期待が寄せられていたが、彼は他の候補たちと同様にそんなことに興味がなかったし、自身とは別の分家の年齢が原因で候補に入っていない甥が、他の誰よりも跡を継ぎたいと野心に燃えていることを知っていた。自分を見る他の分家の者たちが自分をあまりよく思っていないことも、神樂はよく知っていた。
何より彼は学問がしたかった。舞もまあまあ好きではあるが、それは幼少から続けてきたからの刷り込みのような部分があった。彼は両親の期待に応えたいという気持ちもあった。
いろいろ話して、とりあえず昼食の休憩にしようと今日の会議は一度止まることになった。そして彼は今、会議会場のあった昼の百人住まいを出て、前述の通りなぜか人でごった返している夜の万食通りを歩いていた。比較的上背のある彼でも、こんなに大小さまざまの者、例えば獅子舞がそのまま生き物になったような者や、尾が三つに分かれている三又猫や、一対の角の生えた鬼などがいるようでは、なかなかうまく周りを見渡せなかった。ため息をついて、彼は諦めて路地の方へと身を引っ込めた。
本当は別の飲食店に行く予定だったのがすっかり潰れてしまって、表通りとはまるで違って静まっている路地の中でどうしようかと神樂は迷っていた。ここいらの定食屋も表の通りとは違った方法で、つまりは現地民に愛されるようなお品書きにすることで長い間愛されてきた。だから表とは違って静かでも、この時間は大概席が埋まっているのだ。とりあえず小さな頃から通っているところへ行こうと思ったら、それがたまたま結構近くにあった。すなわち、彼は少しだけ歩くことで満足を得るはずだった。
なんとか一席空いていたようで、神樂が相席でも構わないことを知っている店主は彼の顔を見ただけで彼を中に通した。やいやいと昼間から酒盛りをしていたりあるいは仕事に疲れて出された温かな茶に一息ついていたりする大小さまざまの者たちの間をどうにか切り抜け、席に座るまでの間に店主にありあわせ丼の内訳を聞くと、今日は野菜が多くあるということだったので、神樂はそれを嬉しそうに注文した。
さて、彼がなんだか違和感を覚えたのは、彼が席に座ってからのことだった。懐には数学書がちゃんと入っているし座っている椅子はいつも通りガタガタする。違和感の原因はそういったものではなく、彼の相席相手にあった。
彼が座っているのは対面に一人ずつ座るような、二人組なら都合の良いような席だった。茶色で年季の入った、小さな切り傷などの残っている机は、神樂の記憶に長くあり続ける物だった。その机を挟み、向かい合った先にいたのは、書き物をしている不知火だった。神樂がこの不知火に驚いた点は二つあった。まず、その不知火は
その火海の者の肩辺りまで伸ばされた炎髪[火海の者特有の髪。炎のように不定形にうねる]は青く、それが違和感なくその者に溶け込んでいる。その者は筆で描いたかのような一重の切れ長の目を持ち、ゆるくむずばれた口元の薄い唇と、主張の激しくないがすっと通った鼻筋と共に、その眼窩に埋め込まれたその者の炎髪よりも深い青で満ちた瞳を際立たせていた。手の爪は空のような青に塗られており、光の当たり具合で見たこともないような色合いへと変化していた。
その者の華美ではない美しさと浮世離れしたような雰囲気とで、神樂はその者の性別がよくわからなかったが、その者がやってきた丼を見ようと横顔を晒した時にあらわになった喉仏が、その者が男性であることをはっきりと示した。それに、よくよく見れば、肩幅もしっかりあった。ただ一方で、彼の手々が女性のようにすらっとしているのが少し紛らわしかった。
そうやって神樂がぼうっとしていると、ありあわせ丼がやってきてやっと彼は現実に引き戻された。それを持ってきた馴染みの娘に感謝を述べて、彼は待ちに待った昼食に向き合った。娘の方にむけていた顔を丼の方、つまり、不知火の方にむけた時、視界の端で彼がものを書く手を止め、こちらを見ていることに気がついた。
慌てて顔を上げると二つの海底の青にじっと見られ、なんだか断罪されることを待つ罪人のような気持ちになって、神樂は目を逸らそうとした。その時になってやっと、その火海の者はわからない程度につり上げていた口を開いた。
「さっきからたくさん見てくるけれど、どうかしましたか」
左手には丼のための箸を持ち、右手で頬杖をつき、やや下の方からこちらを見上げるその気障っぽい振る舞いがいやに様になっていた。相手の目を見て会話するよう教育された神樂は、どうにか彼の方を見ようとするも、慣れていないそれを頭の中の指南書だけで遂行するのは非常にむずかしく、挙動不審になりながらも、どうにか返答しようとした。その間も彼はただ愉快そうに笑うだけである。彼が頬杖をついている方の、曲げられた右腕の肘のあたりで幾重にもしわを作っている紺色の着物の折り重なり具合が、やけに神樂の興味を引いた。
「私みたいなのを見るのは初めてかしら」
凛とした様子や口ぶりとは異なって、箸で丼の中身を掬う所作にはやや雑なところがあった。ただ、それも彼の世間離れした美しさを増幅させるだけだった。燃る毛先のうねる様子をぼうっと見つつ、神樂は気がつけば口を開いていた。
「地元から、なかなか出ないものでして。遠くからなら、何度か」
昼食を食べよう、時間がなくなるなんて考えていても、はっきりいって神樂はこの場から動きたくなくなった。いや、いくばくか語弊があるかもしれない。この火海の者をもう少しでいいから眺めていたかったのだ。よろず集う万物街といえど、そこを住居として活用する者は他と変わらずやや閉鎖的である。とりわけ神樂は時間を数学に費やすようなやつだった。こんなにも視覚的に美しい存在は、書籍ではなかなかお目にかかれない。丼と彼とを交互に見ながら夏季休暇の嫌いな宿題に取り掛かるように、神樂はやっと箸をまともに使おうとやっとの思いで米と野菜を掬うと、口に入れる頃合いに彼に何か言おうという気になった。食べ物を口に入れ、しっかり咀嚼したのち嚥下すると神樂はためしに言ってみた。のちに彼がこの日を振り返る時、この瞬間以上に頭のおかしくなってしまった時はなかったな、と毎回そう評する。
「あなたは旅ですか」
自身に尋ねられたことだと認識できていなかった彼は、何度か口の中のものを噛んで、飲み込んで、水を入れた杯に手を伸ばした頃に、やっと自覚した。
「——うぅん、まぁ、そのような感じ、ですかね。ほっつき歩いておりまして」
おそらく、この挙動不審で人と関わることに慣れていないであろう少々芋くさいような青年が自身との会話を続行するとは思っていなかったようで、さっきとは打って変わってしどろもどろに返答した。雲上の麗人だとばかり思っていた相席相手が、途端に一般的に思えてきて、神樂は思わず微笑んでしまった。そうしたら、なぜだか急に火海の者の何かが変わった気がした。それは、背筋を伸ばすべき空気の前触れのようなもので、細められてばかりいた彼の目々が、大きく見開かれたからでもあった。
ただ、この火海の者は体裁を保つのが非常に得意なようで細められた目々はすぐにでも帰ってきた。けれど、それは笑っているから細まっているわけではなかった。どうやらきっかけはわからないものの、彼は神楽に興味を持ったようで、先ほどの気障っぽさや作ったような感じは消え失せ、背を伸ばして神樂のことを正面から見据え始めた。彼は少し思い悩んでから、口を開いた。
「初対面の貴方に、こんなことを言うのは、とても変だけれど、貴方、私の顔に惚れていただろう」
神樂はもう満足していて、まさか彼が返答するとは夢にも思っていなかったから、目線は唐突なことを言い出した彼ではなく丼に向けられていた。思っていたこと、そう、いくらか前に長々と書かれていたこと、それを簡潔に見透かされ神樂は顔を赤くしてしまった。そんな神樂を視界におさめるも彼は淡々と話し続けた。
「貴方のような人にはよく出会う。仕方がない。私の顔が一般には美しいからでしょう。ただどうやら貴方が美しさを読み取ったのは、他の人とは違うところのようだ」
どう言うことか神樂は全く見当がつかなく、彼の話す続きが気になってしまって彼の方に面を向け、促す他なかった。
「大半の人は、私がああやってからかうと、黙りこくっていなくなってしまうのだけど、貴方は私に質問をし返した。これが、私には、新鮮というか」
彼は右手の人差し指と中指で唇の下辺りを抑えると、神樂の方ではなく、どこか別の宙を向いてちょっとだけ黙った。
「いや、おそらく、嬉しかったんだ」
そう言って、彼は霧雨が降るように笑った。
浮世離れの美形は、存外表情のころころ変わる普通の人で、笑ったかと思えば、今度は困ったように目線を逸らした。
「この後、時間はあるかな。できれば、少しでいいから雑談のようなものができればいいんだ」
どうやら彼は緊張していたようで、彼の炎髪は盛んにうねっていた。いっぽう、神樂もそんな誘いを受けるとは夢にも思わず、鹿の耳が嬉しそうにぴくぴくと何度も動いていた。変わらず店の中はがやがやとうるさかった。
次の更新予定
世神悦樂流舟記 ぴーや/住江愛 @pi_ya
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