富士山なき世界での源平合戦〜伊豆半島が衝突しなかった世界線〜

雨宮 徹

第1話 黄瀬川の波濤

「一富士、二鷹、三茄子」



 のちの世に、初夢の縁起物として語られるはずだったその言葉は、この世界には存在しない。ただあるのは、この列島を東西に断ち切らんとする、蒼く深い「駿河大内海」の広がりのみである。潮風が、切り立った断崖を駆け上がる。その崖の縁に立ち、寄せては返す白い波頭を凝視する男がいた。源頼朝である。



「山がない」



 頼朝の傍らに控える北条義時が、呆然と呟いた。彼らの背後には、坂東から率いてきた数千の騎馬武者がひしめいている。本来なら、この黄瀬川の陣からは、天を突くような美しい山容が望めるはずだった。しかし、彼らの目の前にあるのは、どこまでも続く水平線と、海鳥の鳴き声だけだ。



「山がないゆえ、平家の水軍はどこからでもこの坂東を突けよう」



 頼朝の言葉は、冷たく、そして鋭い。



 彼は、富士山という「盾」を失ったこの国の形を、誰よりも早く理解していた。



「義時よ。我らは鎌倉へは行かぬ。この海を背にし、敵を迎え撃つのは愚策よ」



 頼朝が馬の首を転じ、北を指差す。そこには、雲に隠れた峻険な山並みが続いている。



「信濃だ。我らは山へ入る。信濃の嶺々を城壁とし、この海を統べるのだ」



 その時であった。一艘の舟が駿河大内海を突っ切って頼朝らの方に向かってきた。その舳先には若干二十二歳の若者の姿があった。源義経である。舟が着岸すると、身軽さを活かし陸へ飛び降り、若者は頼朝のもとへ向かう。しかし、その前に北条義時が立ちふさがる。



「貴様、何者だ。我が殿に気安く近づけるとでも思っているのか」



 北条義時の対応は至極当然である。若者の正体を知らない以上、安易に頼朝への面会を取り付けるわけにはいかない。



「何事だ」



 富士川での戦いのように、海鳥が飛び立ち自軍が混乱しているわけではない。それは、平氏が陥った失態である。平氏は、海鳥の羽ばたきを源氏の大軍と勘違いし、舟の舵取りを誤り、浅瀬に乗り上げ自滅した。



「殿、奥州より来た若者が面会したいと騒ぎ立てております」



「奥州? 歳はいかほどか」



「二十歳かと思われます」



「その若者を通せ。おそらく、九郎だろう」



 義経は源義朝の九男である。ゆえに、九郎と呼ばれている。遠く奥州より馳せ参じた九男を追い返す道理はない。それも、潮目を読むのが難しい駿河大内海を乗り越えてやってきたのだ。頼朝の判断は当然であった。



「お前は九郎で間違いないか」



「はい、兄上。挙兵したと聞き、力になれるのではないかと思い、奥州より参りました」



 二人の周辺を海風が通り抜ける。それは、冷たく、常人では耐えられないものであった。しかし、この兄弟は、それをものともせず話を進める。彼らは、兄弟との再会という心震わせる出来事に熱くならずにはいられなかった。



「義経よ。平家討伐に力を貸してくれぬか」



「もちろんです」



 のちに「黄瀬川の対面」と呼ばれる出来事である。これが、どのような影響を与えるのか。富士なき世界での行く末を知る者はいない。

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