第5話 黒の衝動①


レイが流されて来たのは遺跡内部のような場所だった。彼を飲み込んだ雪が山になっているのを見ると、流されている途中運良くここに落ちたみたいだ。幸い、雪が衝撃を緩和するクッションの働きをしてくれて大事には至らなかった。


「痛って……なんとか助かったけど、あいつらしこたま殴りやがって……」


骨などに異常はなさそうだが、身体中がジンジンと痛む。傷ついた身体で雪崩に身を任せ、軽傷なら運がいい。本来ならば死んでいたって不思議ではない。


(ここはどこだ? 山の中にこんな所があるなんて……)


ここは明らかに人為的に作られた場所。馬鹿みたいに広い空間、床一面には謎の紋様が彫られている。

本来ここへ立ち入るにはそれなりのルートを辿る必要があったのかもしれない。左右に扉があるのを見るとどちらかが入口に繋がり、もう片方は奥、もしくは出口に繋がるのだろう。


何にせよ命賭けのギャンブルに勝った報酬として、寒気から身を守れる場所を見つけたのは悪くない。見渡した限りでは、特に魔物や猛獣なども居らず、とりあえず安全である事はわかった。


であるならば、一先ずこの遺跡のような場所が何なのか調べる事にした。特にその必要はなかったが、何となくこの場所にいるとゾワゾワするからだ。

壁には象形文字のようなものが彫られているが、その意味をレイがわかるはずもない。


「ん? 何かあるな」


壁伝いに歩いていると奥の方に台座のようなものを見つけた。

近付いてみると訳の分からない彫り物が施された台座の上に、黄金の杯がポツンと置いてある。何か意味があるのだろうか。


「これって本物の金──えっ」


興味本位でもなければ好奇心でもなく、無意識で杯に指を伸ばした。ただ、それがいけなかった。

どういう理屈かは不明だが杯に触れた瞬間、視界は黒一色に変わる。まるで別の空間に転移したような、そんな感覚だ。


上下左右、全てが黒。突然過ぎる出来事にレイは戸惑いを隠せないでいた。


「な、なんだ!?」


つい、いつものように辺りを見回すも、最早それが意味をなす事はない。


(あの杯に触ったからか!? なんなんだよ一体!)


急に襲い来る孤独感。世界でたった一人、全てに置き去りにされてしまったような気がした。心臓が破裂してしまうんじゃないかと思う程うるさい。


そして瞬きをした次の視界は見覚えのある景色に変化していた。


『スラム街……?』


直後、脳に直接語りかけるように声が響いた。


──咎人よ、過去を見よ。


ノイズがかった中性的な声だ。彼が見ているこの光景は声の主が原因らしい。


『あれは……昔の、俺?』


親に捨てられたばかりのレイが、スラム街で残飯を漁っているところだ。それをスラムの大人に見られ、加減のない暴力を小さな身に受け止めている。


彼は今、過去の自分を俯瞰している。幽体となって抜け出し、そのまま時間を遡行したような歪な感覚に陥る。


『やめろ……』


呟きは脳内に留まり決して過去に届く事はない。それは当然、彼は今、意識のみの存在なのだから。


場面は変わり、路地裏で寝ている時にギャンブルで負けた男が腹いせに暴行を加え始めた。泣いても叫んでも、誰一人助けてはくれなかった。


『俺は弱い。そう、あまりにも無力だったんだ。ここでは弱者は食いものにされる……でも今は? 俺はヴィンディクタスに来て何か変わったろうか』


残飯を漁る必要こそないが、それでも環境の本質は変わっていない。強さもなく味方もおらず、周囲からは忌み嫌われている。違いがあるとすれば、周りの人間はそうではないということ。スラムでは全員が同じ環境だが、今はレイのみ。


負の泥はまだ落ちていない。


今度は見覚えのある幼い少女が倒れている場面だ。暴行を受けた後なのか、衣服が乱れている。頬は痩せこけ、身体は骨と皮そのもの。

その少女の元へ、顔を腫らしたレイがパンとミルクを差し出した。


これはレイがたった一度盗みをした時の事だ。


『ああ……こんな事もあったな』


昔の自分が誇らしくなり、ほんの少しだけ嬉しかった。

少女は泣きながらパンを齧り、レイに感謝した。やがてレイがその場を去って、すぐの事だ。


そこへ数人の男がやって来た。


『お、おい、待て……』


少女は一切抗うこと無く、絶望に身を委ねた。激しい暴力はやせ細ったからだに容赦なく襲いかかる。男達が激昂した原因は、彼女が食糧を隠し持っていたからだ。


つまりレイのせいだ。


目の前の光景を受け入れられず、レイは声にならない声を上げる。

 しかし、実態のないレイでは喉を揺らせず、瞼のない顔は視界を閉じることすら叶わない。腕のない身体は耳を塞げず、強制的に過去を深く刻み付ける。


気付けばまた先程の黒い世界へと戻っていた。

先程と違うのは例の少女が、朽ち果てた姿で目の前にいる事か。


「どうして、殺したの?」


あらぬ角度に首を曲げ、怨恨の宿る眼で、呪詛の如く憎悪を吐き出す。


「……違う。殺したのは俺じゃない」


事実だ。しかし、きっかけを作ってしまったのもまた、事実。レイはそれを理解しているからこそ、苦虫を噛み潰したような表情で絞り出した。


「どうして? あなたがあんな事さえしなければ、私はまだ生きてたのに。どうしてどうしてどうしてどうして?どうして私を殺したの?」


突然、壊れた人形のようになった彼女の首が落ちる。彼女はそのまま闇に溶けて消えてしまった。


「──認めろよレイ。俺が殺したんだろ?」


直後、背後から自分の声が響く。振り返るとまるで鏡を見ているような錯覚に陥る。なぜなら、自分が目の前にいるのだから。


「お、俺……?」


「そう、お前だ。俺はもううんざりなんだよ。スラムの肥溜めにいる蝿の癖して、剣聖なんて夢を見るのは。飯も女も激情も抑えて剣だけ振るうなんて、そんなクソみたいな人生にはうんざりなんだ」


それは自分とは思えない醜悪な顔付きで心の裏側を吐き出し、憎悪の剣を抜いた。


「な、なんなんだよさっきからちくしょう!」


レイは思わず後退る。脳がまだこの現象に追いついていない。それでも本能的に剣を抜き、もう一人の自分へと震える切っ先を向けた。


それを見た分身は歪んだ笑みを見せ悦んだ。


「くくく、存分に殺り合おうぜ? スラムと同じだ。気に入らなきゃ殺せばいい。だからお前は俺に殺されてさっさと身体を明け渡せぇッ!」

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