第7話 その日常、波乱につき(教育的指導あり)
人生には三つの坂があるという。
上り坂、下り坂。そして――「まさか」だ。
新学期初日。
俺、相馬湊が教室のドアを開けた瞬間、その「まさか」は起きた。
「あ!来たぞ、日本のロミオ!」
「よっ、天王寺グループの次期総帥!」
「相馬様、私の消しゴムを拾っていただけませんか!」
拍手喝采。スタンディングオベーション。
俺は回れ右をして帰りたくなった。
あの「新春賀詞交歓会」での大立ち回りは、ワイドショーこそ避けられたものの、SNSを通じて学園内に拡散されていたらしい。
『時給二千円の男』というあだ名は、いつの間にか『一千万を破り捨てた伝説の男』へと進化を遂げていた。
「……おはよう、みんな。静かにしてくれないか。俺はただの一般市民だ」
俺が疲れた顔で席に着くと、隣の席から甘い匂いが漂ってきた。
「おはよう、湊♡」
そこには、朝日に輝くような満面の笑みを浮かべた天王寺麗華がいた。
以前の「氷の令嬢」の面影はゼロだ。今の彼女は、愛に生きる乙女そのものである。
彼女は俺の机に身を乗り出し、小声で――しかしクラス中に聞こえるような音量で囁いた。
「今日のネクタイ、少し曲がってるわよ?……もう、私がいないと駄目なんだから」
彼女の白い指が、俺の首元に触れる。
クラス中の男子から「ぐわぁぁぁ!」という嫉妬の悲鳴が上がり、女子からは「尊い……」という溜息が漏れた。
「……麗華。頼むから学校では自重してくれ。俺のライフはもうゼロだ」
「あら、どうして?父様にも公認された仲じゃない」
「公認っていうか、執行猶予中なだけだろ」
そう。あの夜、天王寺厳十郎は言った。『大学を出るまでに成果を見せろ』と。
それが具体的に何を指すのか、俺はまだ知らされていなかった。
だが、その答えは放課後、俺の下駄箱の中に鎮座していた。
***
黒い封筒。
差出人は『天王寺厳十郎』。
ラブレターである可能性は万に一つもない。俺は震える手で封を開けた。
中に入っていたのは、分厚い冊子だった。
表紙には毛筆で力強くこう書かれていた。
『婿養子育成カリキュラム(初級)』
「……は?」
ページをめくる。
月曜日:経済学概論・帝王学基礎。
火曜日:英会話・中国語会話・アラビア語会話。
水曜日:護身術(クラヴマガ)・社交ダンス。
木曜日:茶道・華道・ワインのテイスティング。
金曜日:天王寺グループ各社の視察同行。
土日:麗華とのデート(※レポート提出必須)。
「死ぬわ!!」
俺は下駄箱の前で叫んだ。
なんだこれ。スーパーマン育成計画か? 「アラビア語会話」って何だ、石油王と商談でもさせる気か?
しかも一番下の備考欄には、『※成績不振の場合、東京湾クルーズ(片道)』と赤字で記されている。
「あら、届いたのね」
背後から麗華が覗き込んできた。彼女の手には、同じようなファイルがある。
「私もね、父様から『花嫁修業カリキュラム』を渡されたの。料理に裁縫、家計管理……。ふふ、二人で頑張りましょうね、あなた」
「お前のパパはスパルタが過ぎるぞ!」
「愛の鞭よ。……それでね、今日は『庶民のデート体験』の日なの」
麗華は目を輝かせた。
「私、行ってみたいところがあるの。……『サイゼリヤ』って言う、イタリアンの名店よ」
名店違いだが、今の俺に訂正する気力はなかった。
***
駅前のファミレス。
夕方の店内は、放課後の高校生たちで賑わっていた。
俺たちはボックス席に座った。麗華はメニュー表を、まるで古文書でも解読するかのような真剣な眼差しで見つめている。
「……信じられないわ。ドリアが300円? 0が二つ足りないんじゃないかしら」
「それがミラノ風ドリアの魔法だ。とりあえず、好きなもん頼め」
「じゃあ、この『エスカルゴ』と『辛味チキン』。それと、ハウスワインのデカンタを……」
「待て。ワインは駄目だ。ドリンクバーにしとけ」
俺は麗華をドリンクバーのコーナーへ連れて行った。
彼女は並んだジュースのサーバーを見て、ほう、と感嘆の声を漏らす。
「これが噂の、無限に飲み物が出てくる泉……」
「ただの機械だ。ほら、コップ置いてボタン押すんだよ」
「分かったわ。……えっと、メロンソーダと、カルピスと、ウーロン茶を混ぜれば、究極の味になるのかしら?」
「やめろ、それは小学生が通る道だ。別々に飲め」
席に戻り、運ばれてきた料理を食べる。
麗華は熱々のエスカルゴを、恐る恐る口に運んだ。
「……!美味しい!」
「だろ?高い金出しゃ美味いのは当たり前だけど、安くて美味いのが本当の企業努力ってやつだ」
「ええ、勉強になるわ。……父様の会社も、こういう視点が必要ね」
彼女は真面目にメモを取り出した。
やがて、彼女はふと手を止め、俺をじっと見つめた。
「……ねえ、湊」
「ん?」
「私、幸せよ」
「……急にどうした」
「だって、こうして普通の高校生みたいに、放課後に寄り道して、安いご飯を食べて笑い合える。……こんな当たり前のことが、私にはずっと夢だったから」
彼女の瞳が潤んでいる。
周りの喧騒が遠のくようだった。
俺は照れ隠しに、ドリンクバーのメロンソーダをストローで啜った。
「……まあ、俺も悪くはないと思ってるよ。あのスパルタ教育さえなければな」
「ふふ。……でもね、湊。私、ただ守られるだけじゃ嫌なの」
麗華は真剣な表情で、俺の手の上に自分の手を重ねた。
「貴方が父様に認められるために頑張るなら、私は貴方を支えられる最高のパートナーになりたい。……だから、どんな試練でも一緒に乗り越えましょう?」
その言葉は、どんな高級な宝石よりも輝いて見えた。
まったく。このお嬢様には敵わない。
俺は覚悟を決めて、頷いた。
「ああ。乗りかかった船だ。とことん付き合うよ」
「約束よ。……あ、それとね」
麗華は頬を染めて、もじもじとし始めた。
「カリキュラムの土日の欄……『デート(レポート提出)』って書いてあったでしょう?」
「ああ、最悪だなあれ」
「その……レポートのネタ作りも兼ねて、今週末……私の部屋で、勉強会しない?」
ブーッ!!
俺はメロンソーダを吹き出しそうになった。
部屋? 勉強会? 密室? 厳十郎の屋敷で?
それは虎の穴に飛び込むようなものではないか。
「い、いや、それはお父様が許さないんじゃ……」
「父様なら、週末は海外出張で不在よ」
麗華は悪戯っぽくウィンクした。
確信犯だ。このお嬢様、俺を試していやがる。
「……分かったよ。行くよ。行けばいいんだろ」
「やった!じゃあ、新しいパジャマ買っておくわね♡」
「パジャマ!?泊まり前提かよ!?」
俺たちの前途は多難だ。
ラスボスの課題、世間の目、そして何より――ブレーキの壊れた恋人の暴走。
俺が「定時(平穏な日常)」を取り戻せる日は、永遠に来ない気がした。
お会計の時、麗華がブラックカードを出そうとしたのを全力で止め、俺が小銭で650円を払った。
「私の彼氏は男らしいわ」と彼女は喜んでいたが、俺の財布と心労は限界に近い。
でもまあ、彼女が笑顔なら、それが一番の報酬か。
店を出ると、冷たい冬風の中に、微かに春の匂いがした。
俺と彼女の「本物」の恋は、まだ始まったばかりだ。
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