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小野塚 雄刃(ユウタ)
第1話 違和感 ― 数字の中のノイズ
午後三時を少し回ったころ。
乃木坂駅からほど近い、PERSOL本社ビル八階のシステム室は、空調の低い唸りとコピー機のリズムだけが残っていた。
他の社員は客先対応や打ち合わせで席を外しており、デスクの島の中で人の気配があるのは、桂太郎の席だけだった。
モニターには、社内システムの請求管理表。
何百行ものデータが詰まったスプレッドシートの裏側で、バックエンドのログが静かに流れている。
午前中に入った軽微な改修の確認作業──ただの定例チェックのはずだった。
PERSOLに転職して三年。
前職の宝印刷では、古い体質の中で“慣習”と呼ばれる曖昧な処理を嫌というほど見てきた。
転職のきっかけも、そうした空気に耐えきれなくなったからだ。
最近は穏やかな日々が続いていた。
派手な成果もないが、失敗もない。
息子のソウスケも小学六年になり、家では自分より先にリビングの明かりを消すようになった。
静かな夜が増えるほど、時間の感覚だけが研ぎ澄まされていく気がした。
ふと、画面の隅でログが一瞬だけ跳ねた。
通常なら同時刻に処理されるバックアップが、わずかに遅れて同期されている。
「……タイムラグ?」
カーソルを合わせてクリックする。小さな音が静けさに吸い込まれた。
この感触には覚えがある。
宝印刷にいたころ、理由のはっきりしない“遅れ”だけを見たことがある。
あの会社では、そうした細かな違和感に踏み込む空気がなかった。
そのまま、現象として流してしまった。
あのときの上司──村越さん。今は部長になったと聞く。
いまも元気にやっているのだろうか、と、どうでもいい思いが一瞬よぎった。
呼吸を整え、ログの奥へと進む。
クリック、間。クリック。
パス名が右下で伸びるたび、文字列は細く長く、温度の下がる方角を指し示す。
三層、四層──業務端末の記憶が薄くなるあたりで、見慣れない保存先が現れた。
A_Support。
「……なんだ、これ。」
業務用にしては曖昧な名前だ。
開く。
同じレイアウトの請求ファイルが並んでいる。ひとつクリック、もうひとつ。
現れた表は、本番環境の構成と全く同じだった。
ただ、金額だけが違う。
行番号も注記も日付の並びも一致しているのに、合計欄の数字だけが微妙にずれている。
背筋に冷たいものが走った。
ここには、“遅れ”では説明のつかない手触りがある。
ログを閉じる指先が、わずかにためらった。
----------------------------
照明の光が白いテーブルに落ちて、輪のように広がっていた。
食卓の上には、アヤの作った肉じゃがと、半分ほど残ったご飯茶碗。
味噌汁の湯気はもうほとんど立っていない。
ソウスケが学校の話をしていた。
「ねえママ、今日ね、理科で豆電球つけたんだ」
「へえ、ちゃんと光った?」
「うん。でも、ケンちゃんが線を逆につけて、バチッていってた」
アヤが笑う。その声に、少しだけ疲れがにじんでいた。
桂太郎は箸を持ちながらも、うわの空だった。
味噌汁の表面を見つめたまま、仕事場の数字が脳裏でちらついている。
規則正しすぎる金額、曖昧な備考欄、A_Support――。
アヤは夫の様子に気づいていた。
彼の目が食卓の上ではなく、どこか遠くを見ていることを。
「ねえ、今日なにかあった?」
「ん? いや、別に」
「“別に”って顔じゃないよ」
桂太郎は苦笑した。
「数字を見すぎて、頭がバグってるだけ」
軽い冗談のつもりだったが、アヤの目は笑っていなかった。
アヤはゆっくりと湯呑を手に取った。
その指先の細さと、動きの丁寧さに、かつての彼女らしさが戻って見えた。
それでも、アヤの内側では別の思いが浮かんでいた。
——この人は、また何かを抱え込もうとしている。
そう思うと、胸の奥がざらついた。
ソウスケが席を立ち、テレビの音が少し大きくなる。
二人きりになった空間に、食器が触れ合う音が乾いて響いた。
「ねえ、無理しないでね」
「うん」
「……こういうの、前にもあったから」
桂太郎の手が止まる。
アヤの言葉に、かすかに過去の景色が重なった。
宝印刷での頃。あのころも、桂太郎は家で無言のままモニターを睨んでいた。
「心配しすぎだよ」
「そうだといいけど」
アヤは笑おうとしたが、声がうまく出なかった。
安心させたいのに、うまくできない。
それでも、桂太郎の手元に目をやると、湯呑の影がわずかに震えていた。
リビングのエアコンが風を送る。静かな夜の音が、二人のあいだを埋めていた。
その静けさの中に、目に見えない“何か”が沈んでいる気がした。
アヤは食器を片づけながら、ふと自分でも気づかないほど小さく呟いた。
「……また、あの頃みたいにならなきゃいいけど」
桂太郎は聞こえなかったふりをした。
----------------------------
翌朝、電車の揺れがいつもより強く感じた。
スマートフォンの画面を眺めながらも、視線はどこにも焦点を結んでいない。
昨夜の光景が、まぶたの裏に残っていた。
食卓の湯気も、アヤの静かな横顔も、なぜか遠い記憶のように霞んでいる。
(気のせい……で片づけられればいい)
そう自分に言い聞かせるように、車窓の向こうへ目を向ける。
だが、通勤電車のざわめきが妙に遠く、誰かが押し殺した声で話しているように聞こえた。
「A_Support」――あのフォルダ名が頭から離れない。
あんな数の中に埋もれていたのに、なぜ自分はあれだけを拾い上げたのか。
それが偶然なのか、何かに導かれたのか、説明がつかなかった。
職場に着く頃には、いつもの顔ぶれが淡々と朝礼を終えていた。
桂太郎は軽く会釈をし、無言で自席に着く。
モニターの電源を入れると、昨夜のファイル構成が浮かび上がった。
背中を冷たい指でなぞられるような感覚。
昨日は見間違いかもしれない――そう思いたかったが、思考のどこかで“確かめること”がもう決まっていた。
請求管理のバックアップ領域。
あのフォルダをもう一度開く。
無機質な英数字の列。無数の更新履歴。
昨日と同じ光景なのに、今日はその奥に“生き物のような規則”が見えた。
ひとつのファイルのタイムスタンプが、本番より数時間早い。
通常の手順では起こり得ない逆転。
しかも、それが一件だけでなく、他の月にも点々と存在していた。
(誰かが、意図的に……)
隣のフォルダに同名ファイルを見つける。
拡張子が違う。
開くと、金額欄の数値が微妙に調整されていた。
わずか数万円――だが、集計単位を部署全体にすれば、その誤差は数百万円単位に跳ね上がる。
単なる入力ミスでは説明がつかない。
しかも驚くほど手が込んでいた。
ファイル名、更新者、検証日、すべて辻褄が合うように偽装されている。
通常の監査では、まず見抜けない。
(……これ、見つけられたのはに偶然に近い)
自分でもそう思った。
何千、何万というファイルの中で、偶然このパスを辿ったこと自体が異常だった。
マウスを動かすたびに、画面が遠ざかるような感覚がした。
汗ばむ指先がトラックボールの上を滑る。
アクセスログを開く。
誰がこのファイルを触ったのかを確認する。
目を凝らしても、最初は何も異常が見えない。
リストを下へスクロールしていくうちに、灰色の行がひとつだけ現れた。
削除済みフォルダから復元された痕跡。
他とは違う淡いグレーの文字。
不自然な間隔を残して、ぽつんと浮かんでいる。
桂太郎は息を止めた。
その数秒が永遠のように伸びた。
音のない世界で、自分の鼓動だけがやけに鮮明に響いている。
頭の奥に、昨夜のアヤの声が蘇った。
――「この前みたいにならないでね」。
(前? 何のことを言っていたのだろう)
視界の端で、モニターが淡く揺れた気がした。
その瞬間、文字列が目に飛び込んでくる。
Access User : Akiko_Sasajima
時間が止まった。
蛍光灯の光がゆっくりと遠のいていく。
その名前だけが、冷たく画面に浮かんでいた。
----------------------------
定時を過ぎても、モニターを閉じる気にはなれなかった。
A_Supportのログが、頭の奥で何度も再生されている。
Access User : Akiko_Sasajima。
あの文字列が、網膜の裏に焼きついて離れない。
退社の打刻を済ませてビルを出ると、秋の風が肌に冷たかった。
思考は重く、靴の底に鉛を仕込まれたように歩みが鈍る。
まっすぐ家に帰る気にはなれず、気づけば新宿方向の電車に乗っていた。
高田馬場。
いまの勤務地とは関係のない街。
三年前まで、宝印刷に勤めていたころ、毎日のように降りていた駅だ。
懐かしさでもなく、未練でもない。
ただ、あの名前を聞くだけで胸の奥に微かなざらつきが残る。
それは、当時の自分が見て見ぬふりをした“何か”の感触だった。
電車を降りるつもりはなかった。
だが、気づいたときにはホームの風を受けていた。
構内に漂う油の匂い、立ち食いそば屋の湯気、学生たちの笑い声。
どれも記憶のどこかに残っているのに、いまはまるで別の街のように見えた。
ポケットの中でスマートフォンが震える。
画面には「アヤ」の文字。
“夕飯いらない? 温めておくね”
その一文を見つめる時間が、妙に長く感じた。
「温めておく」という言葉の奥に、かすかな距離があった。
返事を打とうとした指が止まる。
――何と返せばいいのか、自分でも分からない。
ベンチに腰を下ろす。
冷たい金属の感触が背中に伝わる。
街の明かりがゆらぎ、ビルの窓に映る自分の顔がぼんやり揺れた。
(福ちゃんに話すべきか……)
宝印刷時代の先輩で友人のひとりである、福原康範――“福ちゃん”。
仕事では論理的で、温度のない声で話す人だった。
部下を責めることも、褒めることもない。
だが、システムの構造や数値の癖には異様なほど敏感だった。
桂太郎が転職を決めたのも、康範の言葉がきっかけだった。
「環境を変えるのも、保守の一部だぞ」
意味があるようで、ないような言葉。
だがその一言が、背中を押した。
最後に連絡を取ったのはいつだったか。
一年くらい前か、いや――松っつぁんの葬式のあとだったか。
あれからもうすぐ一周忌になる。
葬式の帰り、居酒屋で交わしたあの短い会話を思い出す。
「また飲もう」
その約束は、結局果たされないままだ。
(もし、福ちゃんだったら、何て言うだろう)
そう考えた瞬間、胸の奥がざわついた。
――あのファイルに残っていた名前。
アキコさん。
秀ちゃんの奥さんで、何より自分をこの会社に紹介してくれた人。
彼女の声や笑い方まで、記憶の底から立ち上がってくる。
優しくて、少し抜けていて、それでも現場をまとめるのが上手かった。
アキコさんが、あんな場所に名前を残すだろうか。
いや、そんなはずはない。
だが、もし“そう”だったら――。
スマートフォンを開き、宛先欄に“福原康範”と打ちかける。
指先が途中で止まる。
文字がひとつ増えるたび、喉の奥が詰まるようだった。
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