第1話
入学式の朝、僕はインターホンの音で目を覚ました。瞬きをすると、目の端にたまっていた涙が頬に落ちた。手のひらでそれを拭いながら、何か優しい夢を見ていたことを思い出した。
夢の内容はどんなだったか、と考え始めた途端、急かすように二度目のインターホンが鳴った。そうだった、と跳ね起きて、僕は小走りで玄関に向かった。
「はい」
扉を開けると、そこに立っていたのは、セーラー服を着た女の子だった。見覚えのない顔だったけれど、「見覚えのない顔」には慣れてしまっているから、特段驚きはなかった。彼女は拍子抜けするくらい明るい声で言った。
「おはよ! 入学式遅れるよ?」
その言葉で、僕は今日が入学式であることを思い出した。自分が今日から、高校生になるのだということも。
しかし、わざわざうちに迎えに来てくれるような友人が、僕にいたのだな――それも女の子の。僕の通っていた中学校から同じ高校に進学した生徒は、一人もいないと「聞いていた」のだけれど。
僕は多少の感動を覚えつつ、彼女を眺める。背が高く、まっすぐな腰まである黒髪が朝のそよ風に揺れる。猫のようなつり目の中に、黒曜石の瞳。春の庭にやってくる、名前の分からない綺麗な黒い鳥みたいな子だった。
「大丈夫?」
そこで僕は我に返って、彼女の言った「遅れるよ」という言葉を思い出す。
「まずい、遅刻ですか」
「うそ。本当は全然余裕ある」
彼女はちょっと笑って、スマホの時刻表示を僕に見せてきた。九時十分。入学式まではまだ二時間ほどの猶予があった。僕は胸をなでおろす。
「月岡律くん」
突然名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。彼女はうっすら笑っている。
「私のこと、覚えてる?」
「ごめん、誰のことも覚えてなくて」
「あ、そっか。失言」
彼女は申し訳なさそうに頬を掻いて、続けた。
「記憶喪失、なんだよね。先生から聞いてるよ」
そう、僕は、中学校までの記憶を喪失している。
*
立ち話も何だから、と僕は彼女を家に上げた。客人用の椅子なんて用意がなかったから、とりあえず彼女には勉強椅子に座ってもらう。彼女は黒いタイツを穿いた脚をぶらぶらさせながら、部屋を見渡した。
「本当に一人暮らしなんだ。すごいねえ」
「まだ住み始めたばっかで、殺風景だけど」
室内にはまだ寝具と家電、必要最低限の食器、それに勉強机くらいしか置いていない。まだ、家というよりは独房のようだ。
「朝ごはん食べていいよ。私のことは気にせず」
彼女がそう言うので、僕は買い置きしてある一袋八個入りのロールパンを口に運んだ。降ってきた沈黙に気が急いて、僕は口を開いた。
「えっと。名前、聞いてもいいですか」
「志野天音っていいます。なんで敬語なの」
彼女は困ったように笑った。確かに、と僕も思った。
「志野さん……は、朝ごはん食べた?」
「私、朝ごはん食べない派なの。ていうか呼び捨てでいいよ」
じゃあ志野、と名前を呼ぶと、彼女は笑いながら、うんうんと僕に頷いて見せた。志野、しの、と口になじませるように、その名前を数度つぶやく。
「じゃ、私はつっきーって呼ぼうかな」
「呼ばれたことないあだ名だ」
僕がそう言うと、志野は何か言いたげに口をきゅっとつぐんだ。言おうかどうか迷ったのだろう。「呼ばれたことがあったとしても、覚えていないでしょ」と。
「そう。記憶喪失のことなんだけど」
志野は瞬きをして、黙って僕に視線を投げかけ、次の言葉を待っている。
「記憶喪失って言っても、勉強とか生活に必要な情報は覚えてて。言葉なんかも問題なく扱えるんだ」
「そうなんだね。じゃあ、覚えてないのはいわゆる……「思い出」とか、そっち?」
「うん。たとえば、中学で連立方程式を習ったことは覚えてるんだけど、それを教えてくれた先生とか、一緒にそれを教わった友達とか、教室の風景なんかは覚えてない」
つまり、僕の脳には箇条書きされた情報だけが残っていて、「だれと」「どこで」「どんなふうに」の記憶がすっかり欠落しているのだ。ある日寝て起きたら、頭は明瞭なのに、自分がどこの誰なのかが分からなくなっていた。歩き慣れた道で迷子になったような感覚だった。
「けど、ちゃんと必要なことは覚えてるから、そんなに大したことじゃないよ」
「そうなのかなあ……?」
志野は納得いかなそうな顔で首を傾げていたが、やがてうつむき、ぽつりと言った。
「私じつは、君と幼稚園で一緒だったんだ」
僕は思わずロールパンを食べる手を止めて、うつむいた志野を見た。なんとなく小学生か中学生時代の知り合いかと思っていたけど、それより前だったとは。
「新入生説明会の時、名簿に名前があるのを見つけて。久しぶりに会いたいなって思ってて」
先ほどからずっと明るい調子を保っていた志野の声が、その時不意に揺らいだ。目を伏せたまま、口元はなにか大事なものを見ているかのように、ゆるい弧を描いている。
そのとき僕は初めて、彼女のことを覚えていないことが途轍もなく悲しくなって、胸がぎゅうっと締まった。
「……ごめん」
「いいよ。君のせいじゃないんだし」
志野はぱっと顔を上げ、再び僕の目を見た。その瞳には、もう先ほどの揺らぎはない。吸い込まれるようなその目を見ていたら、殴りつけられるように不意に、頭痛が起こった。
君は天使の半分 エスカルゴ伊東 @mori_mement
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。君は天使の半分の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます