『彼女の声は収益化されました』
シェパード・ミケ
プロローグ
むせるような咳の音が、スピーカーからこぼれ落ちた。
「──っ、ごほ、ごほっ……!」
瞬間、画面の左側でコメントが爆発する。
『大丈夫!?』
『今の咳やばくない?』
『心配なんだけど、声が好きなのつら……』
白い文字と小さなアイコンが雪崩みたいに上へ押し流されていく。
右側には、赤やピンクやオレンジの四角い箱が、縦に積もっていく。
金額と短いメッセージが、その中でちらちらと光っていた。
「……びっくりさせちゃったね」
モニタースピーカーから、掠れた女の子の声が続けて流れる。
その声に合わせて、画面の中央でキャラクターが胸に手を当てて、苦しそうに笑った。
紫と青を溶かしたみたいな背景。
肩のあたりで跳ねる茶色の髪。
少し猫っぽい目をした女の子が、咳き込んだあとの息苦しさをこらえるみたいに、ほほえむ。
左上に、配信者の名前が表示されている。
夕凪ゆうぐれ。
今この瞬間、その名前と顔を、十数万人が同時に見ている。
『無理しないでね?』
『ちゃんと病院行ってる?』
『生きててくれてありがとうって毎回思う』
コメント欄のどこかで、彼女の名前の横にハートマークのスタンプが連打される。
心配と欲望がごちゃ混ぜになった文字列が、止まらないまま画面を埋め尽くしていく。
私は、モニターの下に置いてある小さなパッドに視線を落とした。
四列に並んだボタン。
ひとつひとつに、油性ペンで小さな文字が書いてある。
笑い1
ため息2
息 継ぎ3
咳3(強)
さっき流れた咳は、配信ソフト側の自動トリガーだ。
タイトルに「ちょっと体調わるめ」と入った枠を立てたときだけ、一定時間ごとに、ランダムな咳や息切れを差し込むスクリプトを走らせている。
今、ここで。
指をほんの少し動かせば、「咳3(強)」をもう一度再生できる。
画面右上の同時視聴者数は、見慣れない桁まで膨らんでいた。
その下の簡易グラフには、さっきの咳き込みのタイミングだけ、細い棒が一本飛び出している。
感情の山の位置を、システムが親切に教えてくれていた。
そのとき、短い通知音が鳴る。
新しい赤い四角が、コメント欄の上に貼り付いた。
中には、少し震えた文字。
「これで検査代の足しにしてね」
額面を見た瞬間、腹の奥が重くなる。
今日一日どころか、一週間分の生活費くらいは軽く出せる「心配」が、画面の中にぽんと置かれていた。
私の指先は、咳3(強)のボタンの上で止まったままだ。
これを押せば、もう一度咳が出る。
もう一度コメント欄がざわつく。
もう一度、色のついた四角が増える。
この一年半で、何度も見てきた流れ。
咳の音が出る。
チャットが騒ぐ。
スパチャが飛ぶ。
配信後に開くアナリティクスには、その瞬間にだけ、感情の山がひとつ増える。
その山が、今月の家賃や、カードの請求を埋めてくれる。
同時に、その山は。
画面の向こうにいるはずの女の子の喉を、もう一度潰す。
──本当は、もうどこにもない喉を。
私は、咳のボタンから指を離した。
すぐ隣の、別のボタンを押す。
「へへっ」と、息が混じった軽い笑い声。
それに合わせて、ゆうぐれの頬が少し緩むモーションが再生される。
「心配かけちゃって、ごめん。でも、ほんとありがとね」
掠れた声で、そう言う。
画面の中の彼女が頭を下げる。
コメント欄の流れが、少しだけ柔らかくなる。
『謝らなくていいよ』
『こっちが勝手に心配してるだけだから』
『息苦しそうなのに、配信してくれてありがとう』
私はキーボードに手を移した。
配信ソフトの「セリフ」欄に、文字を打ち込む。
「みんながこうやって心配してくれてるおかげで、ちゃんと病院行けてるからね」
エンターキーを押す。
ごく短い間をおいて、同じ内容が、夕凪ゆうぐれの声で読み上げられる。
モニターの端で、小さな緑のアイコンが一瞬だけ光る。
マイク入力:オフ。
そこに、久我蓮という人間の喉は一切関わっていない。
動いているのは、GPUと、CPUと、音声合成モデルだけ。
私は、口を閉じたまま、自分の作った声を聞いていた。
その声は、日向茜の声と、ほとんど同じだ。
生前、何度も耳元で聞いた声。
カウンター越しに笑いながら、どうでもいい話をしていた声。
病室で、酸素マスク越しに「ピザ、食べさせてね」と言ったときの声。
全部を混ぜて擦り合わせて、数字にして、モデルに焼き付けている。
コメント欄の上のほうに、短い一文が流れた。
『中の人とかいないから!ってタイプの女』
それに続くように、「草」のスタンプや、「魂の入ったAIなら実質本人」みたいな冗談がいくつもつく。
私は、知らないうちに自分の手首を掴んでいた。
指に力をこめると、皮膚の下の脈が少しだけ弱くなる。
バレたら終わる、と思う。
この配信が、死んだ子の声を使った人形劇だと知られた瞬間。
タイムラインは一瞬で炎上して、「夕凪ゆうぐれ」という名前ごと焼かれるだろう。
その炎の中には、「久我蓮」という、本来画面に出ない名前も含まれる。
想像しただけで、胃の奥が冷たくなる。
同時に、胸のどこかで。
そこまで燃え尽きてくれたら、やっと終われるのかもしれない、と考えている自分もいる。
咳のボタンも。
笑い声のショートカットも。
raw_akane_voiceというフォルダ名も。
全部まとめて、無かったことになってほしいと願っているくせに、私は今日も配信を立てている。
「なにそれ、こわいこと言わないでよ」
私は、笑い混じりの文を打ち込んで送る。
画面の中の彼女が、少しだけ目を細めて笑った。
それに合わせて、「笑い1」のボタンを軽く叩く。
吐息混じりの笑いと、合成された声が重なって、ちょうどよく「人間らしい」ノイズになる。
『こわい話してるのになんか安心するの何』
『中の人などいない(いてほしくない)』
『たとえAIでも、ゆうぐれちゃんが生きてるならそれでいい』
「生きてる」という単語を見た瞬間、喉の奥が詰まる。
日向茜は、とっくに死んでいる。
彼女の心臓も、声帯も、もうどこにもない。
それでも、配信サイトのステータス画面には、こう表示されている。
夕凪ゆうぐれ。
配信中。
配信の終了タイミングは、数字で決める。
視聴者の滞在時間が、それなりに伸びてきた頃。
コメント欄の勢いが少し落ち着いた頃。
視聴者数のグラフの傾きが、緩やかになってきた頃。
私はサブモニターの小さなウィンドウに目をやった。
ざっくりした統計が、棒グラフと一緒に並んでいる。
チャットの総数。
どのタイミングで離脱が増えたか。
そして、今日のスパチャの合計。
「心配」というタグがついた感情のバーだけが、ずっと高い位置で揺れていた。
そろそろ終わらせるべきだ。
「じゃあ、今日はこのへんで終わろっか」
私は、テキスト欄にそう打ち込む。
エンディング用のBGMとエフェクトに紐づけてあるフラグが、自動でオンになる。
BGMが、少しだけ音量を上げた。
「長い時間、付き合ってくれてありがとう。……ほんとに、無理してお金投げたりしないでね。コメントだけでも、めちゃくちゃ力になってます」
半分は本音で、半分は建前だ。
コメントがなければ、たぶん私はとっくに折れている。
金がなければ、たぶん私はとっくに生活を手放している。
どちらも本当で、どちらもどこか嘘みたいだった。
「じゃあ、最後に」
私は、小さなMIDIキーボードの端に触れる。
白鍵にちいさく貼ったシールには、ボールペンで文字が書いてある。
おやすみ3(弱)
鍵を押すと、囁くような一言が流れる。
「おやすみ」
画面の中の夕凪ゆうぐれが、眠そうに目を細めて、手を振る。
配信画面の片隅に、「配信終了まで十秒」とカウントダウンが現れる。
私は、マウスを動かさない。
十、九、八。
赤い「LIVE」のランプが、秒ごとに色を失っていくように見える。
三、二、一。
ゼロになった瞬間、赤い表示が消えた。
チャット欄の入力ボックスが灰色に変わり、「配信は終了しました」という文字だけが残る。
世界が、いきなり静かになった。
さっきまで画面いっぱいに流れていた声と文字は、「アーカイブ」という別の場所に閉じ込められる。
この部屋には、PCのファンと、冷蔵庫の低い唸りだけが残った。
配信後用のダッシュボードには、リアルタイムだった数字がきれいに整列している。
総視聴時間。
平均視聴時間。
ピーク同時視聴者数。
チャットメッセージ数。
その下に、小さな緑色のチェックマークと、一行のテキスト。
『収益化ステータス:有効』
この表示を初めて見た日のスクリーンショットは、まだスマホのどこかに残っている。
あのときの私は、素直に喜んだはずだ。
今、それを見ても、何も感じない。
私はブラウザのタブを切り替えた。
ローカルディスクのウィンドウを前に出す。
プロジェクトフォルダが並ぶ中に、ひとつだけ浮いて見える名前がある。
YUGURE_MODEL_V5_final。
その中には、さらにふたつのフォルダが並んでいた。
raw_akane_voice
train_ready
raw_akane_voiceには、非圧縮の音声ファイルが詰め込まれている。
バーのカウンター。
病室。
三畳の自分の部屋。
茜の部屋。
スマホで録ったものもあれば、マイクとオーディオインターフェースを通したものもある。
音質はバラバラだが、そこにいる声は、全部同じ人間のものだ。
私は、その中からひとつのファイルを選んだ。
2020-11-08_bar_take12.wav。
プレイヤーの再生ボタンを押す。
『ねえ、そんなに録ってどうするの?』
少し遠い位置から拾った女の子の声が、スピーカーから流れてきた。
グラスと氷のぶつかる音、店内のざわめきが、うっすらと混ざっている。
『なんでもかんでもデータにしたがるよね、レンは』
笑う。
その笑い方は、さっきまで画面の中で笑っていた夕凪ゆうぐれのものと、ほとんど同じだ。
同じにしたのは、私だ。
『……まあ、死んだあとも喋らせるつもりなら、いっぱい録っといてね』
冗談みたいな軽さで、茜はそう言った。
録音していた当時の私は、笑いながら「縁起でもない」と返した。
そのやりとりごと、波形の中に残っている。
数ヶ月後、本当に死んだ。
心臓の手術は、一度は「成功」と告げられた。
医者の口から出た言葉は、どれも淡々としていて、「大丈夫そうですよ」と言外に言っていた。
退院したら何をするか。
ベッドの上で、茜はスマホを握ったまま、楽しそうに話していた。
『次のデート、どうする?』
『レンち行ってもいい?』
『宅配ピザ頼も。あたしんち、頼めない地域だからさ』
その会話を、私は何度も再生して覚えている。
次の約束。
それは、私の部屋で一緒にピザを食べる、ただそれだけの夜だった。
茜がうちに来るのは、そのときが初めてになるはずだった。
ピザを頼んで、映画を流して、途中でタイミングを見計らって、「好きだ」と言うつもりだった。
頭の中では何度もリハーサルした。
口から出したことは、一度もない。
結局、その日は来なかった。
合併症、予想外の反応、そういう言葉が飛び交っているあいだに、数値の桁がみるみる変わっていって、「もう話すのは難しい」という段階になっていた。
意識があった最後の日。
酸素マスク越しに、茜はかすれた声で言った。
『ねえ、レン。……宅配ピザ、食べさせてね』
それが、最後の約束になった。
私は、その約束を、一度も守っていない。
再生中のファイルを途中で止める。
波形の真ん中に、細い縦線だけが残った。
机の端に、小さな卓上カレンダーが一冊置いてある。
引っ越しの荷物から出したまま、ほとんど触っていないものだ。
何となく手に取って、ページをめくる。
少し前の月で止める。
真ん中あたりの小さな四角に、赤い丸が描いてあった。
横には、ボールペンの細い字。
ピザ。
私は、その文字から目を離せなくなる。
その日が、茜とピザを食べて、告白するつもりだった日だ。
ピザの箱を開けて、「まだ熱いね」と笑いながら、一緒に食べるはずだった日。
何も起こらなかった日付だけが、カレンダーの上で時間を止めている。
私は、ゆっくりとカレンダーを閉じた。
マウスを動かして、ブラウザを開く。
お気に入りの中から、宅配ピザチェーンのサイトを選ぶ。
トップページが、すぐに表示される。
写真の中のピザは、明るすぎる照明のせいで、どこか偽物めいていた。
ログインすると、住所と電話番号が自動で埋められる。
ここ──都内のタワーマンションの高層階の住所だけが、システムに登録されている。
茜の家の住所は、どこにもない。
画面をスクロールして、適当にひとつのピザを選ぶ。
Mサイズ。
二人で食べるつもりだったサイズ。
一人で食べるには、多すぎる。
でも、その「多すぎる」感じも含めて、当時は全部未来の一部だった。
私はカートの画面まで進んで、注文確認ボタンの手前で止まった。
三十分もすれば、玄関のチャイムが鳴る。
箱の中には、チーズとソースと肉と油だけでできた、ただの食べ物が入っている。
それを一人で食べたら。
私は、本当に茜を置いて先に進んでしまう気がした。
約束を、「一人で勝手に消費しました」という形に変えてしまう。
「……違うな」
私は、声にならない声でつぶやく。
マウスを動かし、カートを空にした。
ピザの写真が、音もなく消える。
代わりに、別の画面が頭の中に立ち上がる。
配信サイトのサムネイル。
【初めての宅配ピザ】というタイトル。
不安と興奮と同情が入り混じったコメント。
スパチャの四角い色。
配信画面なら。
そこに「あの日のピザ」を持ち込んだら。
約束を果たしながら、同時に金にもできる。
最悪の考えだとわかっているのに、その発想は、あまりにも自然に私の中に収まった。
私は、ピザサイトのタブを閉じて、配信管理用のページを開く。
次回配信のタイトルを下書きしておける欄が、空っぽのまま点滅していた。
カーソルが、小さく光っている。
キーボードに手を伸ばす。
指先が、ためらいながらキーを押す。
【初めての宅配ピザ】
とりあえず、そこまで打つ。
消す前提だったのに、文字列はあまりにも素直に並んだ。
このタイトルなら、きっと数字が伸びる。
「体調悪いのにピザなんて大丈夫?」「塩分平気?」
心配と興奮に満ちたコメントが並ぶ様子が、簡単に想像できてしまう。
その真ん中に、いくつもの色のついた四角が浮かぶ。
私は、タイトル欄のカーソルを見つめたまま、動けなくなった。
指先が、キーキャップの上で乾いていく。
本当は、どちらかを押せばいい。
エンターキーを押して、この配信を現実のものにしてしまうか。
バックスペースキーを押して、何もなかったことにするか。
なのに、私は、どちらのキーにも触れられない。
茜との約束を、「ネタ」に落とす勇気も。
そんな自分を完全に否定する強さも。
どちらも持っていなかった。
代わりに、マウスを動かす。
画面の端にある、小さなボタンをクリックする。
『下書きを保存しました』
右上に短い通知が現れ、すぐに消える。
ピザの約束は、まだスクリーンの外にある。
一度も頼まれていない箱と、一度も開けられていない箱のあいだで、宙ぶらりんのままだ。
だけど、それをスクリーンの中に持ち込む準備だけは、もう整ってしまった。
いつか、本当にこのタイトルで枠を立てる日が来ることを、私はもう知っている。
私は、配信管理画面を閉じた。
モニターの電源ボタンに指を伸ばす。
画面がじわりと暗くなりかけた瞬間、一瞬だけ、黒くなりきらないパネルに自分の顔が映り込む。
そこにいるのは、夕凪ゆうぐれではない。
日向茜とピザを食べる約束をしたまま、一度も「好きだ」と言えずに彼女を死なせた男だ。
そのくせ、死んだ子の声と、その約束までも食べ物に変えて生き延びようとしている、人間ひとり。
モニターが完全に暗くなっても、その輪郭だけは、頭の中に焼き付いたままだった。
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