忖度のカルテ

平河 紀州

第1話



2026年3月2日(月)

『なんだか、隣、騒がしいなあ』

佐伯慶彦は、そう思いながら、心拍再開後の右心房の縫合をおこなっていた。1-2 mm間隔で針を進める。ルーチンの手技だ。

「高田先生、大島君、もうすぐ終わりますよ」と麻酔科医と人工心肺技師に声をかけた時だった。

「高田先生、1番の部屋まで至急お願いします!!」と叫びながら隣の外回り看護師が飛び込んできた。

高田冴子は「どうしたの?野村先生はいないの?」と答えながら手術室の出入り口へと向かった。そしてしばらく隣の手術室から帰ってくることはなかった。

東都医科大学心臓血管外科講師。これが佐伯慶彦の肩書である。先天性心疾患治療を専門とする40歳の心臓外科医、既婚、子供なし。そんな佐伯が現在手術をおこなっているのは第2手術室。東都医科大学附属病院にある15の手術室のひとつである。この日の手術患者は4歳女児。心室中隔欠損症に左側上部部分肺静脈還流異常症を合併した比較的稀な疾患であった。通常心臓手術は人工心肺と呼ばれる体外循環装置を用いて行われる。心停止下に左側上部部分肺静脈還流異常を左心耳に直接吻合した後に、径7 mmの心室中隔欠損孔をゴアテックスパッチ(スキーウエアなどに用いられる人工布)を用いて閉鎖し、心拍再開を得たのちに右心房を縫合閉鎖しているところであった。佐伯の手術は順調に経過していてもうすぐ人工心肺を止めるところまで来ていた。一方、隣の第1手術室では教授の古澤 博が14歳男児にロス手術を行っていた。また第3手術室では講師の前田 淳が72歳男性に腹部大動脈瘤に対する人工血管置換術をおこなっていた。問題が生じていたのは第1手術室であった。

第1手術室では執刀医の古澤が心臓マッサージと電気的除細動を繰り返し行っていた。「どうしたの?」高田冴子が麻酔医の新井に問いかけた。「遮断解除しても心拍が再開しないんです。マッサージしても、うんとすんともいわないんですよ」野村が説明した。「カリウムは?」高田の問いかけに新井は「3.60で正常です」と答えたが、古澤は「心拍再開も細動も起こらないんですよ」と追加した。「人工心肺はフルフローなの?」高田が人工心肺技師の加藤武史に確認したところ,「ちょっと脱血が悪いけど、なんとか出てます」と返ってきた。

その後1時間程手を尽くしたが心拍再開の気配がなかったので、やむなく人工心肺からエクモに移行することになった。体外式のペースメーカーで心拍を確保し全身への血流はエクモで維持し心臓の回復を待つというものである。心臓ペーシングによって見かけの心拍は出たが自己血圧は出なかった。



―3時間後、集中治療室(ICU)にてー

佐伯の手術患者は覚醒し人工呼吸器から離脱し、血行動態も安定していた。両親も面会し笑顔で手術の成功を喜んでいる。しかし、問題は古澤が手術した14歳男児であった。エクモと呼ばれる体外循環維持装置につながれ、完全に鎮静下に置かれていた。胸部の皮膚は閉じることができず、胸骨も解放になったままである。心臓が動いていないのである。尿量の確保が難しいので持続的に行う透析装置も併用されていた。患者の名前は斎藤涼太。東北地方から紹介でこの病院での手術を受けに来た野球が大好きな14歳男児である。両親には古澤から手術の結果について説明がなされていた。

「手術は問題なく進んで予定通りのロス手術を行ったのですが心臓がうまく動かないんです。詳しい原因は不明ですが、おそらく我々が術前に考えていたよりも心筋の障害が進んでいたことが考えられます。やることはやったのでこの器械で全身への血流を維持して心臓の機能回復を待ちたいと思います」

母親が古澤に質問した。「目は覚めないんですか。回復までにどれくらいかかりますか」「今の時点でどれくらいかはわかりませんが、全力を尽くします」古澤の答えは両親を納得させるものではなかったが、横についていた看護師長が「涼太君は頑張っています。一緒に頑張りましょう」と語りかけ、面会は終了した。次回の面会、説明は翌朝ということになった。カルテ記入は原則、第一助手で主治医の橘 和宏がおこなった。

一方、講師の前田が手術した腹部大動脈瘤の72歳の患者も人工呼吸器から離脱し『腹の傷が痛いよー』と担当看護師に文句を言っていた。しかし出血量も少なく順調な経過である。

夕方になってICUに医師達が集まってきた。佐伯が古澤の手術の第一助手を務めた橘に聞いた。「手術経過に問題はなかったのか。冠動脈の再建はちゃんとできているんだよな」橘は「いつも通りでしたよ。術直後のエコーでも冠血流は確認できています」と答えた。ICU専属医の秋山俊二が「術後の写真では心臓がちょっと大きいくらいで肺野もきれいです。血液検査はCK7000,MB140で尿量も少ないですがなんとか1ml/kgは確保できています。エクモに問題はなく潅流圧は90/mmHg前後、CVPは4-5mmHgです」と補足したが、心拍回復の兆候はなく時間だけが経過していた。

翌日の午前中になって、ICU専属医の秋山の呼びかけで臨時カンファレンスが開催された。古澤は外来診察があり参加していなかった。手術の録画ビデオを見ながら人工心肺記録のチェック、術中の血液ガス検査の結果を再考察した。「血ガスでBase Excessがずっとマイナスだな。メイロン補正もされてないけど。潅流圧も低めなのに結構ミリスロールが投与されてるな。回しに問題はなかったのか」佐伯が人工心肺技師の加藤武史に聞いた。加藤は「Lactateも低いですし特に問題はなかったです」と答えた。「Lactateなんか上がったら論外だよ」准講師の岩本 明が加藤を批判した。「心筋保護に問題はなかったのか?」岩本は素直な疑問を述べたが、橘と加藤は心停止が得られているのだから問題ないと主張した。結局結論は出ず、古澤の意向もあってこのまま経過観察の方針となった。このカンファレンスの内容は橘によってカルテに記載された。



術後緊急カンファレンス施行

出席者:秋山、佐伯、岩本、橘、加藤

手術中に問題はなかったか検討した。

手術手技はいつも通り。術後冠血流はエコーで確認。人工心肺中、Lactate上昇なし。心筋保護も通常通りで大きな問題なし。術後CK7000,MB140。術後心機能低下の原因は不明だがエクモを用いて循環動態は安定している。このまま経過観察の方針とする

橘 和宏(記)



―2週間後―

問題の患者は腎機能も回復し透析装置は外された。2週間を経過した頃に自己心拍が出始め体外ペーシング下に鎮静剤の投与を止めて覚醒を待つことになった。鎮静剤を止めてからも全身状態に大きな変わりはなく意識もうっすらと出てきた。気管内挿管中なので声は出ないが目でコンタクトがとれるようになった。エクモの送脱血路は右鼠径部に変更され、胸骨閉鎖が行われた。ただし全身の筋力低下が著しいので呼吸補助は必要で気管切開に変更して管理が行われた。心臓からの自己血圧はほとんど出ないのでエクモは継続された。


―1ヶ月後―

突然39度の発熱があり血液検査で白血球20000, CRP20.30が認められた。主治医の橘は古澤教授に至急報告を行うとともに今後の治療戦略に関して教授室にて指示を仰いだ。古澤は「血液培養を行ってバンコマイシンを投与しろ」と命じた。橘は『縦隔洞炎ならば創を解放すべきではないか』と進言したが、『そんなことはない』と受け入れられなかった。

橘が心配した通り、翌日になって創部離解がおこり、大量の膿が出現したため緊急に創部再開放、郭清ドレナージ術がおこなわれ、胸骨は解放のまま連日の創部洗浄で対処することになった。


―3ヶ月後―

その後、橘らの懸命の治療が行われたがその甲斐もなく患者は縦隔洞炎、敗血症にて死亡した。橘は古澤から『両親にうまく説明しておいてくれ』と言われ、「目も覚めて回復傾向にあったのですが感染症で不幸な結果に終わってしまいました。力及ばず残念です」と説明したが、両親は納得いかず、「古澤先生からのお話はないんですか」と詰め寄った。橘は「古澤教授は学会出席中で現在不在です。主治医のわたしがすべて対応することになっていますので」と嘘をつき、その場を取り繕ったのである。

佐伯慶彦は手術ビデオを丹念に見直して手術手技自体に問題はないと思った。『しかし心機能が回復しないということは何か、先天的に冠動脈に異常があったか、あるいは心筋保護がうまくなされていなかったかのどちらかであることが考えられる』そう考えた佐伯はこの考えを同級生で准講師の間垣真弘に話してみた。間垣の専門は冠動脈バイパス術で年間200例近くを執刀している。「そうかもしれんな。だって、最終的に腎機能も改善して意識も出たんだろ。心臓だけが動かなかったんだよな。つまり人工心肺は充分ではなかったけれどもそれなりの回っていたんだな。心筋保護に問題があったから心臓だけが回復しなかったと考えるのが妥当だと思うよ。最終的な死因は診断書的には感染症かもしれないけど、心臓外科医的には心筋保護不良だな」そう答えた間垣は佐伯に「お前、この件をどうするつもりなんだ」と問いかけた。佐伯は「自分に責任はないし様子を見るよ。下手に突っついてとばっちりをくらってもな」と答えたが、20年前の人工心肺に起因する医療事故が頭をかすめた。



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