【短編集】名もなきサンタクロースたち
浅緒 ひより
ブックサンタ
第1話 灰色の街と、名もなきサンタ
十二月の東京は、暴力的なまでに眩しかった。
大手町駅の地上出口から吐き出された須藤健太(すどうけんた・34歳)は、思わず眉間にしわを寄せた。
街路樹に巻き付けられた無数のLEDライトが、シャンパンゴールドの光を撒き散らしている。
行き交う人々は皆、その光に浮き足立ち、白い息さえも演出の一部かのように楽しげに笑い合っていた。
健太はコートの襟を立て、首を亀のようにすくめた。
三日続いたトラブル対応の末の、ようやくの退勤だった。
睡眠不足の頭に、クリスマスソングの鐘の音は耳鳴りのように響く。
ショーウィンドウに飾られたリースも、着飾ったカップルも、今の彼には別世界の出来事だった。
世界はこんなにも輝いているのに、自分の周りだけ彩度が落ちて、灰色にくすんでいる。そんな錯覚に襲われる。
「……腹減ったな」
独り言は、冷たい北風にかき消された。
コンビニで弁当を買って帰る気力すらない。
かといって、賑やかなレストランに一人で入る勇気もない。
逃げ場所を探すように視線を彷徨わせると、雑居ビルの二階に、見慣れた書店の看板が光っているのが見えた。
吸い込まれるように、健太は階段を上がった。
自動ドアが開くと、紙とインクの混じり合った独特の匂いが鼻腔をくすぐる。
暖房の効いた店内は静謐で、外の喧騒が嘘のように遠のいた。
ここには、過剰なイルミネーションも、焦燥感を煽るジングルベルもない。
ただ、無数の言葉たちが静かに棚に収まっているだけだ。
健太は大きく息を吐き、凝り固まった肩の力を抜いた。
目的の本があるわけではない。
ただ、活字の海を漂いたかった。
ビジネス書の新刊コーナーを素通りする。
「最強のリーダーシップ」だの「年収を上げる話し方」だの、今の彼には毒にしかならない言葉が並んでいる。
奥へ奥へと進むうち、ふと、店内の空気が変わった気がした。
児童書コーナーだった。
天井から吊るされた手作りのモビールが揺れている。
棚の高さは低くなり、表紙の色彩が一気に鮮やかになる。
平積みにされた絵本の横に、小さなポスターが立てかけられていた。
『あなたも誰かのサンタクロース。ブックサンタ、実施中』
素朴なサンタクロースのイラストの下に、説明書きがある。
――書店で選んだ本を、そのままレジで寄付してください。
困難な状況にある子どもたちへ、私たちが届けます。――
「……本を、寄付?」
健太は足を止めた。
募金箱にお釣りを入れたことならある。
けれど、本を買って、自分では持ち帰らずに誰かに贈るというのは、聞いたことがなかった。
(誰に届くんだ?経済的に苦しい家庭?施設の子?入院中の子……)
ポスターの文字を目で追いながら、健太の脳裏に、不意に二十五年前の記憶がフラッシュバックした。
父の工場が倒産し、借取りが家に来ていた冬のことだ。夕食のおかずは減り、母の笑顔が消えた。
クリスマスなんて言葉を口にするのも憚られるような、張り詰めた空気の団地の一室。
けれど、あの日の枕元には、一冊の本があった。包装紙もリボンもない、裸のままのハードカバー。
『指輪物語』の追補編だったか、あるいはもっと別の冒険譚だったか。
父がなけなしの小遣いで買ったのか、あるいは誰かからの貰い物だったのかは未だに知らない。
ただ、その本を開いた瞬間だけは、寒くて狭い六畳間が消え失せた。
ページをめくれば、そこには広大な森があり、見たこともない料理があり、勇気ある仲間たちがいた。
現実がどんなに灰色でも、本の中には極彩色の世界があった。
あの本が、少年の健太にとっての「避難所」であり、同時に「希望」だったのだ。
(今の俺よりもっと、逃げ場所を必要としている子がいるのかもな)
健太はゆっくりと棚の間を歩き始めた。
不思議な高揚感が、疲れた体に満ち始めていた。
さっきまでの、ただ時間を潰すだけの足取りとは違う。
彼は今、サンタクロースの代理人として、誰かに贈るための「翼」を探しているのだ。
小さな手でも持てる絵本がいいだろうか。
いや、図鑑のほうが長く楽しめるか。迷いながら視線を走らせていると、一冊の分厚い本と目が合った。
青い装丁に、金色の箔押しでタイトルが刻まれている。
最近映画化もされた、話題のファンタジー小説の原作だ。
手に取ると、ずっしりとした重みがあった。
裏表紙を見る。
本体価格、二千二百円。
健太は一瞬、眉をひそめた。
今の彼の昼食代の、四回分に相当する。
決して安い金額ではない。
(これ一冊で、美味いラーメンと餃子が食えるな)そんな卑近な計算が頭をよぎる。
しかし、彼はその本を棚に戻さなかった。
あの日、本の世界に救われた自分。
そして今、社会の歯車として摩耗しながらも、なんとか自分の足で立って稼いでいる自分。
この二千二百円は、ただの消費ではない。
かつての自分のような誰かへ、「世界は思ったより広いぞ」と伝えるための、ささやかな投資だ。
健太は本を小脇に抱え、レジへと向かった。
心臓が少しだけ早鐘を打っている。
偽善だと思われないだろうか、手順を間違えていないだろうか。
そんな自意識過剰な不安が胸をかすめる。
「いらっしゃいませ」レジの女性店員が、事務的ながらも丁寧な声で迎えた。
健太はカウンターに青い本を置いた。
そして、少し裏返りそうな声で、しかしはっきりと告げた。
「これ……ブックサンタで、お願いします」
一瞬の間があった。
店員が顔を上げ、健太の目を見た。
その表情が、ふわりと緩んだ。
「ありがとうございます!ブックサンタでのご参加ですね」
事務的だった彼女の声に、明らかな温度が宿った。
手際よくバーコードが読み取られる。
「こちら、お客様がお持ち帰りになるのではなく、当店でお預かりして、ボランティアさんにお渡しする形になりますが、よろしいですか?」
「はい、お願いします」
「確かに、お預かりいたしました」
支払いを済ませると、店員はカウンターの下から一枚のリーフレットと、小さなステッカーを取り出した。
「こちら、参加証のステッカーです。そしてこれはサンタさんへの活動報告の冊子です。
……この本、きっと喜びますよ。
高学年向けの本は、意外と数が少なくて貴重なんです」
店員は最後に、とびきりの笑顔で付け加えた。
「素敵なクリスマスプレゼントを、ありがとうございます」
店を出たとき、外の空気は相変わらず冷たかった。
けれど、健太のコートのポケットの中には、小さな暖かみがあった。
指先で、もらったばかりのステッカーの端を撫でる。
手元には本はない。
二千円も減った。
物理的には損をしている。
なのに、胸の奥に澱のように溜まっていた疲労感が、少しだけ溶けて軽くなっていた。
信号待ちでふと空を見上げると、ビルの谷間に冬の星座が瞬いているのが見えた。
さっきまでは、イルミネーションの人工的な光に目が眩んで、星が出ていることになんて気づきもしなかった。
(喜んでくれるといいな)
顔も名前も知らない、どこかの誰か。
クリスマスの夜、その子が包みを開けたとき、あの青い表紙がどんな魔法をかけるのだろう。
その瞬間を想像すると、自然と口元が綻んだ。
「……よし、帰るか」
健太はマフラーを巻き直し、雑踏の中へと歩き出した。
その背中は、来る時よりもほんの少しだけ、凛と伸びていた。
灰色の街に、確かな色が灯った夜だった。
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