ふわり江戸、あやし噺

底辺野孝幸

第1話 悋気の火

 江戸の街は暗い。


 月もまだ出ぬ夜ともなると、歩いている自分の爪先も見えぬほどだ。


 そんな夜に出歩いている者がいる。

 華やかな江戸の街の空白ともいえる暗い堀割。

 誰ぞ落ちた者でもいたのだろう、心得た者が目印に建てた辻行灯がぽつりぽつりとあるものの、江戸から切り離された夜に溶け込む堀の端に男は腰掛けていた。


 どこかで柳の葉が揺れる音がする。

 辻行灯の火が夜風に煽られすうっと伸びる。

 男の姿が浮き上がった。

 時代遅れの白い狩衣に草臥れた烏帽子を被っている。

 そんな男が釣り糸を垂らしていた。


 昨今、世間ではどこぞの堀に『おいてけぼり』という怪が出たというのにこの狩衣の男は悠然と釣り糸を垂らしているのだ。

 辻行灯の火が落ち着き、夜が再び色を塗りつぶす。

 男の姿も見えなくなり、堀をゆく水の音が聞こえるだけとなった。


 と、水面に立った波紋が行灯の火に反射する。

「おいてけ…………」

 ──出た。


「おいてけ……」

 例の怪異である。

「おいてけ!」

 どんどんと声を荒げる怪異にも狩衣の男は動じない、くつろいでいるようでもあった。


 ついに根負けしたのか、とぷり、と水面を割って青白い何かが顔を出す。

 人の頭蓋骨だった。

「なんだ、尺か……」

 どくろはそのまま水面に揺れると青白い燐光をまとわせ、ちろちろと言葉を発した。


 しゃく、と呼ばれた狩衣の男は軽くどくろの方を見て応える。

「噂のおいてけぼりの真似事か?」

「なかなか、ずっと水に沈んでいると近所の魚にも愛着の湧くもんだ」

 どくろが魚に同情する言葉を続けると尺は釣り糸を上げてみせた。

 糸の先には錘だけで、針も餌もついてなどいない。

「何の目的だよ」

 呆れてしまったどくろに尺は釣り竿を振って応じる。

「これを持っていると夜中に歩いても人を怖がらせることが無いでな」

 江戸の街を夜に出歩くのは余程の事情のあるものだけだ、だが尺は夜というものを好んでいる。

 だからこそ釣り竿だけを持ち歩き、誰かに咎められても「夜釣り」と言い逃れてしまおうというわけだ。

「そんなもの無くとも……」

 どくろは言葉を切る。

 ──お前には術があるだろう、と続けようとして止めたのだ。


 尺と呼ばれた男、もちろん本名では無い。

 陰陽師が本名を名乗ることなどほとんどない。

 尺は陰陽師だった。

 陰陽師といっても土御門に属する本流のものではない、民間で細々とまじないを施す非正規のものだ。

 評判になったこともある。

 やれ百年姿の変わらぬ男、やれ鳶になって飛び去ってゆく姿を見た、だの。

 西ではどんどんと声の大きくなっていく元興寺の僧を助けた、東では何十年と行方知れずだった即身仏を見つけ当てた、やがては

「あれは今清明」

「あれば江戸清明」

 とついに噂が平安の陰陽師、安倍清明まで膨れ上がった頃に、誰かが言った。


「あれはそういう売り方をする詐術師ぞ」


 この言葉は瞬く間に市井へと拡がった、途端に皆、尺の名を口にしなくなった。


 なんぞ尺が言葉にまじないを掛けたのだ、とどくろは考える。

「尺、お前は名声というものに頓着は無いのか?」

「さあ……」

 と尺は即答し、どくろを見つめる。


 ようやく、下弦の月が柳の上を越えて昇り、微かに月影に照らされた顔が見える。

 尺という陰陽師はまるで誰かがそこに理想の顔を掘ったような端正な、それでいてわずかに面白みにかける顔をしていた。

 尺はその顔に静かな笑みを浮かべていた。

「そういう欲ではお前には及ばんな、斑鳩いかるがよ」

 ──斑鳩、と尺が呼びかけるとその言霊に釣り上げられたようにどくろから青白い光が抜け出して人の形をなしていく。

「……、むう」

 青鷺火あおさぎび斑鳩、この頭蓋骨の持ち主が生前に名乗っていた雅号である。

 人の形はやがて朴訥な青年のなりとなった。

 この斑鳩という青年、嘘か誠かは判らないが能の大和観世流の系譜に連なるという。

 真実は判らないが、この青年は信じた。

 祖と同じ道で名をなさんと江戸で物書きをこころざし、多くの者がそうであるように、はたせず入水した。

 体はまだ、この暗い堀割の底にある。


 尺は青年の霊が水の上に立ち上がると、懐から一冊の本を取り出す。

「近ごろ流行の本だ」

 尺の言葉に斑鳩は目を輝かせる。

 どういう訳か、この尺という陰陽師は堀に沈んだ斑鳩を気に入っているようだった。

「すまん……水の中は何かと退屈で」

 斑鳩の霊が水面を歩き、手を伸ばすと尺はすいとその手をすかした。

「おい、尺、からかいに来たのか?」

「いや、何か礼に巷の面白い噂でも聞かせてくれ」

 尺は端麗な顔立ちを少し崩して表情を緩める。

 その振る舞いにも神霊のごとき威厳がある。

 どちらが死人か解ったものではないと斑鳩は思った。

「噂なんか知ってどうするんだい?閻魔の王さまにでも報告するってのかい?」

 そのような話を斑鳩は知っている。

 小野篁のように尺ならばあの世とこの世を往き来していてもおかしくない雰囲気があると思っていた。

「噂が知りたけりゃいくらでも知れるだろう?尺は生きてるんだから」

「斑鳩の口から聞いた方が面白い」

「う……ん……むう」

 斑鳩も物書きを目指た男である、尺にそう言われて悪い気はしない。


「……先日、何処からか聞こえてきた辻噺つじばなしがある」

 斑鳩はあごをかきながら思い出す。

 辻噺とは落語の元になったものだ。

「辻噺か……」

 尺は微かに髪を揺らして見せたが、斑鳩はまあ待てよ、と口を挟む。

「お噺と言っても少し前にあった実話を元にしている」

「それは」

 実話を元にした噺ということで尺も興味がのったようだった。


 んんっ!と喉を整えると斑鳩は聞いた噺を講じ始めた。

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