第2話 死のあと、目覚めた“声”
東京湾からの冷たい風が、まるで昔の友だちの平手打ちのように顔を打った。
アルスはコンビニを出て、薄いジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
通りは пустっぽだった――深夜、ネオンの看板でさえ疲れて見える時間帯。
街灯は長い影を伸ばし、歩くたびに疲労がにじんだ。
脚はシフトの疲れでうなり、壁際に座り続けたせいで背中が痛んでいた。
「バカな一日だ……でも、なぜか……」
彼はその考えを振り払うように頭を振った。
頬はまだ熱を帯びている――寒さのせいではなく、あの軽いキスのせいだ。
ミラ。唇の上の小さなほくろ。少しかすれた声。
バニラとクリームの匂い。
彼女はバックヤードへ消え、彼だけが出口に立ち尽くしていた――まるで間抜けみたいに。
「面白い人」
口の端でアルスは笑った。
面白い、か。
無価値でいるよりは、まだマシだ。
足は自然と地下鉄の駅へ向かっていた。
入口は、最後の乗客たちを飲み込む獣の口のように口を開けている。
エスカレーターで降り、券売機で切符を買う――いつもの動作、機械的に。
車内はほとんど空いていた。
イヤホンをつけた学生が二人、スマホに顔を伏せて眠る会社員、
そして買い物袋を抱えた老女。
電車は低い唸り声を上げて走り出した。
アルスは窓際に座り、トンネルの闇を見つめる。
ガラスに映るのは自分の顔。
目の下の影、乱れた髪。
郊外の小さなアパートまでの長い道のり。
三十分か、一時間か。遅延次第だ。
考える時間。
あるいは、何も考えない時間。
彼はスマホを取り出した。
タイムラインが再び動き出す――他人の顔、他人の人生。
スクロール。
スクロール。
マンガの広告――
『レベル0の勇者として異世界転生』。
アルスは鼻で笑い、タップした。
最初のページを貪るように読む。
彼と同じような退屈な人生。突然の死。
そして、バン――ファンタジー、魔法、冒険。
「……だったらな」
思いはエコーのように戻ってくる。
ただ目を覚ましたら、そこにいる――そんな世界。
壁際の“ただの一人”じゃなく、
“誰か”になれる場所。
電車がカーブで揺れた。
アルスは一瞬、目を閉じる。
思い出したのは、望んでもいない過去。
七歳の頃、両親は別れた。
怒鳴り声、ドアの音、そして沈黙。
母は別の街へ、父は酒の中へ。
誰も「重荷」は背負いたくなかった。
東京郊外の児童養護施設。
灰色の壁、同じ形のベッド、疲れた目の大人たち。
「大丈夫よ、アルス。あなたは強い子」
強い、ね。
彼は泣かないことを覚え、愚痴を言わないことを覚えた。
ただ日々を「やり過ごす」だけ。
学校、バイト、そしてコンビニ。
友だちも、未来の予定もない。
痛くもならない“空虚”が、ただそこにあるだけ。
電車が駅に停まり、ドアがシューッと音を立てて開いた。
人が流れ込む。ざわめき、匂い。
アルスは目を開け、再びマンガに戻った。
主人公は静かに、苦しまず、眠るように死に、
そして森の中で目を覚ます。
手には剣、目の前には女神。
「さぁ、あなたの番が始まります」
「……なんか、いいな」
彼は想像した。
あの世界にミラがいる。
レジの向こうじゃなく、旅人のマントを纏い、
どんな魔法よりも温かい笑顔で。
二人で、魔物やドラゴンと戦う。
バカみたいだ。
でも、悪くない。
家は静寂で迎えた。
小さな部屋。床の布団、低い机、電子レンジ。
夕食はカップ麺。お湯で戻しただけのもの。
アルスは床に座って、機械的に啜る。
窓の向こうには、遠くて冷たい街の灯り。
夕食の間も、ミラのことが頭を離れない。
「……あの子も、一人で食べてるのかな」
彼は小さく笑った。
明日もシフトだ。きっと会える。
何か言えるかもしれない。
「面白い」じゃなく、普通の言葉で。
食べ終えると、またマンガを開く。
ページは止まらない。戦い、魔法、仲間。
「もし、俺が眠ったまま死んだら……」
アルスはあくびをした。
疲労が鉛のようにのしかかる。
服も脱がずに布団へ倒れ込む。
スマホは隣に落ち、画面はまだ光っている。
眠りは静かに訪れた。
痛みもなく。
叫びもなく。
闇もなく。
ただ――落ちていく。
最後に浮かんだ思いは、ひとつ。
「……もしかして……」
最初に消えたのは、音だった。
まるで世界そのものが、
突然ミュートにされたみたいに。
アルスは横たわり、
身体が重くなっていくのを感じていた。
腕はもう自分のものじゃない。
脚は、どこか遠い。
呼吸が乱れる。
浅く、途切れ途切れの息。
間。
さらに、もう一度。
「……なんだ、これ……」
胸が、やさしく、痛みもなく締めつけられる。
内側から、そっと包まれているみたいに。
心臓が跳ねた。
一回。
間。
二回。
その“間”が、あまりにも長すぎた。
意識は、古いテレビの画面みたいににじみ、
砂嵐、ノイズ、色あせた光に変わる。
最後の感覚は――
どこかへ落ちていく感覚。
風もなく、
速さもなく、
身体さえもなく。
そして……
カチリ。
彼は、吸い込んだ。
急に。
痙攣するように。
貪るように。
冷たく、湿った、見知らぬ空気が肺に流れ込む。
アルスは咳き込み、息を荒げた。
手の下にあるのは、布団じゃない。
硬い。
ざらついている。
……砂?
目を開ける。
そこにあったのは、街の空じゃなかった。
頭上には、
濃い藍色の大空。
無数の星。
あまりにも近く、あまりにも生きている光。
「……は?」
身体を動かそうとすると、
身体は――動いた。
普通に。
完全に。
弱さもなく。
彼は勢いよく起き上がった。
周囲は野原。
黒い丘の影。
地面から肋骨のように突き出た岩。
家もない。
道もない。
街灯もない。
あるのは、風だけ。
顔の前で手を見る。
確かに、自分の手だ。
けれど――感覚が違う。
強い。
温かい。
心臓は、規則正しく打っている。
家にいた時とは違う。
生きている。
生々しく。
「……夢か?」
彼は自分の腕をつねる。
痛み。
本物の痛み。
「……俺、死んだのか?」
不思議と、思考は落ち着いていた。
パニックはない。
彼はゆっくりと立ち上がる。
重力が違う。
少しだけ、軽い。
まるでこの世界が、
彼を“持て余している”みたいに。
遠くで光が瞬いた。
最初は星のように。
次に灯りのように。
そして――松明のように。
闇の中から、人影が現れる。
人?
女?
長いマント。
フードで顔は隠れている。
彼女は数歩手前で止まった。
「早かったわね」
声は静かだった。
あまりにも、この状況に似合わないほどに。
「……ここは?」
アルスはかすれた声で訊いた。
フードの奥の影が、わずかに首を傾げる。
「“間”よ」
その一言で、
彼の内側が一気に冷えた。
「……何と、何の?」
「あなたが“だったもの”と、
これから“なるもの”の間」
アルスは拳を握り締めた。
「……夢だ」
「いいえ」
彼女は静かに言った。
「あなたは死んだわ。
眠っている間に。
心臓。
静かに。
ほとんど――美しく」
息が詰まる。
「……それで、次は?」
松明の火が、わずかに揺れる。
「次は――選択よ」
彼女は手を伸ばした。
空間に、一瞬だけ映像が浮かぶ。
二つの月を持つ都。
黒い山脈の尖峰。
嵐の空を裂く翼ある影。
魔法陣の円環。
そして――
空っぽの玉座。
「進むこともできる」
「完全に消えることもできる」
「……進んだら?」
フードの奥で、
彼女の気配が“笑った”気がした。
「その時、
本当の“ゲーム”が始まるわ」
アルスは俯いた。
脳裏に浮かぶミラ。
頬へのキス。
バニラの匂い。
星々が、まるで駒のように並ぶ。
空のチェス盤。
「……マジかよ」
彼は一歩、踏み出した。
「まぁ……どうせ、これ以上悪くならねぇか」
松明の火が消える。
世界が、崩れ落ちた。
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