水曜日の珈琲
まだ秘密
水曜日の珈琲
駅前の喫茶店「アマレット」は水曜の午後、いつも空いている。
窓際の席に座って外を眺める。雨が降りそうな空だ。注文したブレンドが運ばれてくる。
「お待たせしました」
店員の声が若い。顔を上げると見慣れない青年が立っていた。二十代半ばくらいか。細身で、少し猫背気味だ。
「新しい方ですか」
「はい。先週から」
青年は少し緊張した様子でカップを置く。こぼさないように慎重に。その手つきがどこか危なっかしい。
「頑張ってください」
「ありがとうございます」
青年は小さく頭を下げてカウンターに戻っていった。
珈琲を一口飲む。いつもと同じ味だ。この店に通い始めて三年になる。水曜の午後は必ずここで仕事の合間の休憩を取る。理由は特にない。ただ、落ち着くからだ。
カウンターの向こうで青年がグラスを磨いている。時々こちらを見ては、慌てて視線を逸らす。
翌週の水曜日。
同じ時間に店に入ると例の青年がカウンターにいた。今日は少し慣れた様子で接客している。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを」
「かしこまりました」
青年が珈琲を淹れる姿を見る。丁寧な手つきだ。先週よりは落ち着いている。
珈琲が運ばれてくる。
「あの、毎週水曜日にいらっしゃいますよね」
青年が少し躊躇いがちに言った。
「ええ。三年ほど」
「そうなんですか。マスターが、水曜の常連さんだって」
青年は少し笑う。人懐っこい笑顔だ。
「何か仕事されてるんですか」
「編集の仕事です」
「へえ。大変そうですね」
「まあ、それなりに」
会話はそこで途切れた。青年はカウンターに戻り、また時々こちらを見る。
珈琲を飲み終えて席を立つ。レジで会計を済ませる。
「ありがとうございました。また来週」
青年の言葉に少し違和感を覚える。「また来週」。まるで約束のように聞こえた。
その後も水曜日は続いた。
店に入ると青年がいて、ブレンドを淹れてくれる。時々短い会話を交わす。青年の名前は冬木といった。美大を出て、絵を描きながらこの店で働いているらしい。
「絵、描くんですか」
「はい。でも全然売れなくて」
冬木は苦笑する。
「どんな絵を」
「風景が多いです。この街の」
冬木はカウンターの奥を指差す。そこに小さなスケッチブックが置いてあった。
「見せてもらえますか」
「え、いいんですか」
冬木は少し照れたように笑ってスケッチブックを持ってくる。
ページを開く。鉛筆で描かれた街の風景。駅前の雑踏、商店街の路地、公園のベンチ。どれも日常の一コマを切り取ったものだ。
「線は綺麗だ」
冬木の顔が明るくなる。が、続きを待っているうちにその表情が固まっていく。
「でも、綺麗すぎる。整いすぎていて、嘘くさいです」
冬木の手がスケッチブックの端を強く握る。指先が白くなった。
「君の視線がどこにあるのか分からない。もっと泥臭い部分を見せてください」
「……ですよね」
冬木は唇を噛む。悔しそうに、でもどこか納得したような顔だ。
「来週、描き直してきます」
スケッチブックを返す。冬木は大事そうに抱える。
その日の珈琲は、いつもより少しだけ苦かった。
それから、水曜日の時間が変わった。
珈琲を飲みながら冬木の絵を見る。新しいスケッチを見せてもらう。指摘する。冬木は真剣に聞いて、次の週には変えてくる。
「今週はどうですか」
冬木が期待するような目で見る。
「前よりいい。陰影の付け方が自然になった」
「やった」
冬木は子供のように喜ぶ。
その様子を見ているとこちらまで少し嬉しくなる。理由は分からない。
ある水曜日、店に入ると冬木の姿がなかった。
代わりに年配のマスターがカウンターにいる。
「いらっしゃい。ブレンドだね」
「ええ。冬木さんは?」
「今日は休みだよ。体調崩しちゃって」
珈琲を飲みながら、妙な違和感を覚える。いつもと同じ味なのに、何かが足りない。
翌週、冬木は戻っていた。
「先週はすみませんでした」
「体調は大丈夫ですか」
「はい。もう平気です」
冬木はいつもの笑顔を見せる。でも少し疲れているようにも見える。
「無理しないでください」
「ありがとうございます」
冬木の目が少し潤む。
珈琲を飲みながら、冬木の様子を観察する。カウンターで珈琲を淹れる姿。客と話す時の表情。時々見せる疲れた顔。
この青年のことを、いつの間にか気にかけるようになっていた。
それから数週間後。
冬木が一枚の絵を持ってきた。
「これ、見てもらえますか」
いつもとは違う。スケッチブックではなく、きちんとしたキャンバスに描かれた油彩画だ。
絵の中には喫茶店の窓際の席。そこに座る男性の後ろ姿。窓の外には雨が降っている。
「これは」
「先週描いたんです。コンクールに出そうと思って」
絵をじっと見る。後ろ姿の男性は、どこか自分に似ている気がした。
「悪くない。でも、なぜ後ろ姿なんですか」
「それは……」
冬木は言葉に詰まる。
「顔を描くのが怖かったんじゃないですか」
冬木の表情が強張る。
「いつも窓の外を見てる姿が、なんというか、絵になるなって」
その言葉に、ふと気づく。自分は外を見ていたのではなく、現実から目を背けていただけではないか。冬木はそれを見抜いていたのかもしれない。
「でも、勝手に描いてすみませんでした」
「いえ。でも次は正面から描いてください」
「はい」
冬木の目に、静かな決意が灯る。
「結果が出たら、また報告します」
それから一ヶ月ほど経った水曜日。
店に入ると冬木がいつも通り珈琲を淹れようとしていた。カップを持つ手が震えている。ソーサーに当たって、小さく音が鳴った。
席に座る。珈琲が運ばれてくる。
「どうぞ」
冬木の声が小さい。
一口飲む。いつもより苦い。抽出に失敗している。
「……落ちちゃいました。コンクール」
冬木の目が赤い。
珈琲を飲み干す。苦いままだったが、全部飲んだ。
「次は何を描くんですか」
冬木が顔を上げる。
「次、ですか」
「ええ。次」
冬木の目から涙が一筋流れる。でもその表情は、少しだけ笑っていた。
「……また、考えます」
「楽しみにしています」
翌週の水曜日。
店に入ると冬木がいつもの調子で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを」
「はい」
冬木が珈琲を淹れる。その姿はいつも通りだ。
珈琲が運ばれてくる。一口飲む。いつもの味だが、どこか奥行きを感じる。
「あの、新しい絵描き始めました」
冬木が少し照れたように言う。
「今度は何を」
「秘密です。完成したら見せます」
冬木は子供のように笑う。
窓の外では雨が降り始めていた。冬木がカウンターから傘立てを出している。
「傘、お持ちですか」
「いえ」
「よかったら、これ使ってください」
冬木が一本の傘を差し出す。黒い、シンプルな傘だ。
「借りていいんですか」
「はい。来週返してもらえれば」
「分かりました」
傘を受け取る。冬木の手が少し触れる。温かい。
「来週、この傘の感想と、さっきの絵のダメ出しを言いに来ます」
冬木の目が少し見開かれる。それから、静かに笑った。
「待ってます」
店を出る。傘を開く。雨音が心地いい。
また来週。
冬木の言葉が頭の中で繰り返される。約束ではなく、対峙のように。
歩きながら、水曜日が待ち遠しいと思っている自分に気づく。
理由は分からない。でもきっと、それでいいのだと思う。
傘を持つ手に、少しだけ力を込める。
水曜日の珈琲 まだ秘密 @azadia
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