さよならの練習を今から始めよう
愛崎 朱憂
前編
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。
土日の昼から夕方にかけて、工業街口(こうぎょうがいこう)駅のスターバックスは音が少しだけ前に出る。
氷がカップの中で鳴ってレシートが切れる乾いた音が、ちゃんと『店の音』になる。
平日は声が先に走る。注文が短くて、動きが速い。言葉が流れて行く。
週末は言葉が少しだけ残る。相談が増える。迷いが増える。甘い匂いが長く漂う。
私はその時間が得意でも苦手でもない。
ただ、よく見えてしまう。よく見えるから余計なものまで拾ってしまう。
拾ってしまうから捨てる練習をしないといけない。
捨てる練習をしないから、私は直ぐ覚える。
覚えると──痛くなる。
バーの目の前の席。
カウンタに沿った、作業が全部見える席。
そこは長居する人が選ぶ席だ。
動かないことで店のリズムに自分を溶かす人。目の前で氷が砕ける音を聞いて、泡の立ち方を見て、機械の光の点滅を眺めて、時間をやり過ごす人。
私は時々思う。
この席を選ぶ人は、多分『見えること』が嫌いじゃない。
見えることが安心になる種類の人だ。
私も同じだ。私は見えると安心する。安心した分だけ、失った時に壊れる。
パートナーとしては、お客さんを見ていない振りをするのが一番上手い方法だ。
でも本当は見ている。どの席に座るか。どのタイミングでスマホを取るか。カップをどこに置くか。そういう小さな癖を拾ってしまう。
拾った癖にはラベルを貼りたくなる。
──常連さん。
──受験生。
──打ち合わせの人。
──子供連れのお母さん。
──帰省前の人。
──待ち合わせの人。
──ひとりの人。
ラベルは便利だ。便利なものは早い。早いから仕事が回る。
でも、便利なものは怖い。
ラベルが付いた瞬間、その人は『このお店の人』になる。
このお店の人になると居なくなった時が怖い。
今日だけの人なら、明日居なくなっても平気なのに……。
何度も見た人が居なくなると空席が目に刺さる。
私は覚えたくない。覚えるタイプだと思われたくない。
でも、そう思ってる時点でもう覚えてる。
覚えていることを自覚した瞬間から、私は確認を始める。
それは、自分の中で許可無く始まる。
視界の端でドアが揺れるたびに数える。
風が入る度に温度の差を測る。
足音の種類を聞き分ける。
そんなことしたくないのに。したくないのにしてしまう。
してしまうから嫌いになる──自分が。
だから、なるべくラベルは貼らない。
貼らない代わりに、言葉を『パートナーの言葉』に戻す。言葉がパートナーのものなら距離を守れることがあるから。
距離が守れたら、私は傷付かないはずだ。
傷付かないはずなのに、私はいつも同じところで傷付く。
距離を守る練習は、私を守るためじゃなくて、私が壊れる速度を遅くするためにあるみたいだ。
そんな風に、週末の音の中で私は働いている。
ドアが開いて、乾いた風が一瞬混ざる。
雨じゃない。どこかで吸ったタバコの名残りみたいな苦さが、薄く付いてくる。
その人はスマホを見ない。歩幅が一定で、迷いが無い。
レジに並ぶ前に店内を奥まで歩く。誰かと待ち合わせじゃない。混雑の量じゃなくて、お店の体温を測る。体温計みたいに。
目線が一秒だけ流れる。席の空き方。音の高さ。人の間隔。
『見た』というより、測った──に近い。
それが何度目か私には分からない。
分からないけれど分かってしまう。
いつも同じ時間帯に来る。いつも同じ所作で入る。いつも同じ風を連れて来る。分かってしまうのが一番怖い。分かってしまうと次は待ってしまうから。
「コーヒーフラペチーノのヴェンティサイズで、チョコレートシロップを追加して」
こちらが聞き返さなくて済む順番で言ってくる。それだけで私は一瞬だけ楽になる。
この店では言葉の方が距離を守れることがある。
首元の鈴みたいなネックレスが、呼吸に合わせて小さく鳴った。
鈴の音は控えめで目立たない。目立たないのに、残る。残るから、困る。
「かしこまりました。それではあちらのバーでお受け取り下さい」
「うん。ありがとー」
声が軽い。軽いけれど、投げていない。
私はその『ありがとー』を、パートナーとして受け取っているはずなのに、胸の内側だけが少し解ける。
その人はドリンクを受け取ると迷い無くバーの目の前の席に座る。壁際のソファ席。肘が置ける角。
まるで我が家の様に寛いでいるその人のシルエットも、バッグの置き場所も決まっている。カップの置き方も、いつもと同じ。
私は、ラベルを貼りたくなる。貼りたくなるから貼らない。
貼らない代わりに呼び方を『その人』にしておく。
名前じゃない。肩書きでもない。
ただ、距離のある言葉。
夕方、少し手が空いたタイミングでその人がこちらを見た。
『見た』というほど強い視線じゃない。視界に入れているだけの視線。
なのに胸の内側にだけ残る。
私は『パートナーの言葉』を探して、見付けた振りをする。
自分から触れるな、と思う。でも触れないと私は勝手に増やす。増やすくらいなら言葉にしたほうがまだ安全だ。そういう言い訳を作って私は口を開く。
「いつも土日、いらっしゃいますよね」
言ってから心臓が一拍遅れて鳴った。
自分から言葉を投げたのに、投げた瞬間に怖くなる。パートナーの言葉の範囲を越えていないか、頭の中で確認する。確認している時点でもう越えている。
「うん。ここ、落ち着くから」
それ以上の説明は無い。説明が無いから、こちらが勝手に穴を埋めようとしてしまう。
どうしよう……。
声を掛けたのは私なのに。
穴を埋めたらそこに何かが住む。住んだら追い出せない。私は追い出すのが下手だ。
するとその人は私に問う。
「君も友達と遊んだりしないの?」
踏み込み方が雑だと思った。
だから私は笑う。笑えば角が丸くなる。丸くすれば刺さらない。刺さらないなら安全だ。
「そんな、友達居ないみたいな言い方しないでくださいよ」
自然に言葉を返せた。返せたことが少し嬉しい。
でも嬉しいのが少し嫌だ。
「僕だって友達居ないよ」
その人は事も無げに答える。盛らない。落とさない。救わない。ただ置く。
──事実を、そのまま置く人なんだ。私はその一言で、勝手に安心してしまう。
安心すると、次の言葉が出てしまう。出てしまった言葉は戻せない。
「じゃあ……友達になりましょうよ」
冗談の形にしたかったのに形が少しだけ崩れる。
崩れたところから本音が見える。
「いいよ。今度、時間合うとき」
『今度』が入る。未来が入る。未来って言葉は燃料みたいだ。入った瞬間に勝手に燃える。
私は短く返す。
「……はい」
短い返事は保険になる。本気が漏れない長さ。
そのはずなのに胸の内側が熱くなる。熱いのに、冷える。熱いのに、凍る。
それから、その人は何度か同じ時間に現れた。夏祭りの花火みたいに。
現れて、同じ注文をして、同じ『ありがとー』を置いて、バーの目の前の席に座った。夏祭りの花火みたいに。
ほんの少しだけ違うのは、その日の風の乾き方と、鈴の鳴り方と、カップの結露の落ち方くらいだ。夏祭りの花火みたいに。
ほんの少しずつ変わって、ある日──消える。夏祭りの花火みたいに。
私は消える瞬間だけが怖い。怖いから、先に練習する。練習しても痛みは減らないのに。夏祭りの花火みたいに。
私は、ラベルを貼らないつもりで居る。でも貼らないつもりで居る時ほど、ラベルの芽が増える。乾いた風の人ヴェンティの人チョコレートシロップの人鈴の人バーの目の前の人目に入った瞬間に勝手に名前が生まれてしまう呼び掛けたらその瞬間にこのお店の人になってしまうこのお店の人になったら空席が痛くなる痛いのは嫌だ痛いのに私はいつも痛い方を選ぶ痛い方を選ぶと決めた覚えは無いのに選んでしまうのが一番怖いだから私は貼らない貼らないために私は数える数えないために数えるという矛盾が起きる矛盾が起きると私は安心する安心すると私は次の矛盾を探す探すのは癖だ癖は仕事の顔をして入って来る癖はダスタみたいにいつも手の届く所にある癖は濡れている間は柔らかい乾くと硬くなる硬くなると解けない結び目みたいになる結び目みたいになると私は解けない解けないなら最初から結ばなければ良かったのに結ばないために私はまた数えるドアが開く回数を数える風の温度の差を数える足音の種類を数える鈴の鳴る角度を数える自分が笑った回数を数える笑ってないのに笑った振りをした回数を数えるパートナーの言葉を使った回数を数える自分の言葉が漏れた回数を数える数えると減る気がする減る訳が無いのに減る気がするからやめられないやめられないことを知っているから私は先に後悔する後悔することで予防になる気がする予防にならないのに予防になった振りをする振りをすると少しだけ呼吸が楽になるエラ呼吸みたいに楽になる分かっているのに楽になる分だけ怖くなる怖くなるとまた練習が要るエラ呼吸みたいに練習は上達のためじゃない生き延びるための呼吸みたいなものだエラ呼吸みたいに呼吸は勝手に出来るはずなのに私は勝手に出来ない勝手に出来ないと決めた覚えも無いのに出来ないだから私は作る作ってしまう台本を作る来る時の台本来ない時の台本目が合った時の台本目が合わなかった振りをする台本またねと言われた時の台本言われなかった時の台本レシートが切れる音がいつも通りだった時の台本いつも通りじゃなかった時の台本泡の立ち方が速い日の台本遅い日の台本氷が一度で砕けた日の台本二度鳴った日の台本鈴が鳴った日の台本鳴らなかった日の台本鳴らなかった日は私が勝手に鳴らす耳の奥で鳴らす家に帰っても鳴る帰り道の改札の音に混ざって鳴る横断歩道の青が点滅する音に混ぜて鳴る赤の点滅黄色の点滅もでも鳴る時と鳴らない時もある冷蔵庫の低い唸りに混ぜて鳴る湯沸かしの小さな沸騰に混ぜて鳴る鳴るはずが無いのに鳴る鳴らしたのは私だと分かるのに止められない止められないから私はルールを作る作ると楽になるから作るでも作った瞬間にそのルールが私を縛る縛るのに私は喜ぶ縛られている方が安全だと知っているみたいに縛られないと私は勝手に増やす増やすくらいなら縛られた方がマシだと思ってしまうだからルールその一目を合わせない合わせたら増えるからルールその二名前を知らない振りをする知ったら貼ってしまうからルールその三先に期待しない期待したら壊れるからルールその四来ない方を先に考える考えたら衝撃が減る気がするから衝撃は減らないのに気が滅入るそれでも考える考えることで私は痛みを小さく切り分けて食べられる気が滅入る大きい痛みは飲み込めないから小さくする小さくすると飲み込める気がする飲み込んだ瞬間にお腹の中で膨らむのに膨らむのに見ない振りをするスープを飲み込む喉の奥の方に見ない振りが上手いほど私は仕事が出来る仕事が出来るほど私は見てしまう見てしまうほど私は覚えてしまう覚えてしまうほど私はこのお店の人を増やしてしまう増やしてしまうほど空席が痛くなるコウノトリが呼んでいる空席が痛くなると私は空席の未来を先に見てしまう未来の空席は未だ存在していないのに存在しているみたいに目に刺さる刺さると私は抜けない抜けないから私はまた練習する練習することで私は今日の自分を明日の自分から守っているつもりになる守れていないのに守れている振りをする守れている振りをすると私は少しだけ落ち着く落ち着くと私は次の土日を待ってしまう待ってしまう自分が嫌いだ嫌いだから私は更に距離を取る距離を取るために私は更に見る見るために距離を取るという順番の逆さが起きる逆さが起きると私は自分が壊れて行く音を聴くその音は大きくない大きくないのに毎日鳴る毎日鳴るから耳が慣れる慣れると私はそれを普通だと思う普通だと思った瞬間に私は自分を諦める諦めた瞬間に私は楽になる楽になると怖くなる怖くなると私はまた数える数えると私はまた安心する安心すると私はまた増やす増やすと私はまた怖くなる怖くなると私はまた練習するこの繰り返しが私の中の週末になる週末は二日しかないのに私の中では七日間ずっと週末みたいに鳴り続けるずっと土日みたいに私はずっと入口のドアの前に立って居る立って居ないのに立って居る振りをしている振りじゃないかも知れない分からない分からないことが一番怖い怖いから私は分かったことにする分かったことにすると私は次を作ってしまう次を作ると未来が燃える未来は燃料みたいだ燃えたら消せない私は消火の仕方を知らないだから私は最初から燃える前提で水を用意する水は言葉だパートナーの言葉だ距離のある言葉だその人という言葉だ便利な言葉だ便利なものは怖い怖いのに私は便利に頼る頼った瞬間に私はまた自分を嫌う嫌うと私は自分を罰したくなる罰は簡単だ数えれば良い数えれば私は頑張っている気になれる頑張っていると私は生きている気になれる生きていると私は失う失う前提で生きるのが私の癖だ失う前提で生きると失う瞬間だけが現実になる現実が現実であるほど私は怖い怖いから私は先に言うもう来ないもう来ないもう来ないと言っておけばその通りになった時に驚かないで済む気がする驚くに決まっているのにそれでも言う言ってしまうと私は少しだけ落ち着く落ち着いた自分が気持ち悪い気持ち悪いのにまた落ち着きたくなる欲しいのは落ち着きじゃないはずなのに欲しいのは呼吸だ呼吸が欲しいのに私は呼吸のやり方を忘れるまたエラ呼吸みたいだ忘れるからまた練習する練習するほど私は来ない土日を上手に想像出来るようになる想像が上手になると私は本当に来ない気がしてくる気がしてくると私はもう半分失っている失っているのに店では笑う笑ってドリンクを渡す渡してレシートを切る切りながら耳の奥で空席の音を聴く空席の音は音じゃないのに音になる音になった瞬間に私は漸く気付く私はラベルが怖いんじゃないラベルが怖い振りをしているだけだ本当は私が怖いのは居なくなるより居たことが現実になる方だ現実になった瞬間に私は逃げられなくなる逃げられなくなるなら最初から居なかったことにしたい居なかったことにしたいのに私は覚えてしまう覚えてしまうのに私は貼ってしまう貼ってしまうのに私は否定する否定したまま私は次の土日を待つ待ってしまうから私はまた練習する練習することで私は自分の中に穴を作る穴を作っておけば何かが住んでも痛みが分散する気がする穴は増えるほど暗くなる暗くなるほど私は安心する暗い方が見える暗い方が失う前提で居られる明るいと現実が刺さるだから私は暗さを育てる育ててしまうのが一番黒い黒いと分かっているから私はその黒さを隠す隠すために私はまたパートナーの言葉に戻る戻ると私は少しだけ人間に見える少しだけ人間に見えるように振る舞っている間に私の中ではずっと同じ言葉が回っているラベルが増える痛い覚える数える後悔する練習する楽になる怖くなる楽になる怖くなる楽になる怖くなる怖くなる楽になる怖くなる楽になる怖くなる楽になる痛いのは嫌だ嫌だのに数える数えるのに増える増えるのに貼らない貼らないのに貼ってしまう覚えてしまうのに忘れた振りをする忘れた振りをするほど覚えるそれでも私はまた息をする息をするためにまた台本を作る台本を作るためにまた数える数えることで今日を越える越えたらまた土日が来る来る度毎に私は少しだけ壊れる壊れるのに仕事は回る回るほど私は上手になる上手になるほど私は見ない振りだけが上手くなる見ない振りが上手いほど私は見てしまう見てしまうほど私は痛い痛いのは嫌だ嫌だ嫌だそれが私の週末の音になる。
そして、来ない土日が初めてやって来る。
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