四十六本目:剣と鞘

 断崖の果てを望んで飛翔するような剣舞は、ついに極限を迎える。

 手ではなく剣を取り合う伴侶が、凄絶な笑顔を浮かべながら木刀を振るう。

 かつての洗練された軌跡は見る影もなかったが、魂を削りながら放たれる打突は今までに受けたどの太刀よりも重い。僕の光を奪おうと目を突いてくる今でさえも、彼女は嗤い続けていた。


 この瞬間が至上だと高らかに歌い上げるようだった。


 僕は見続ける。瞬きをせずに見届ける。彼女の──最期の舞を。

 白樫の木刀が僕の顔を切る。右目の下を掠るようにして木刀は逸れていった。

 僕は一切動かなかった。顔から血が流れているのを感じる。


「ぐっ……ハァ……あぁ、ああああッ!」


 沙耶の体から苦悶の叫びが溢れ出た。突きを放った体の流れに、彼女の体幹が耐えきれず、よろめく。千鳥足にも似た足取りだったが、沙耶は体を何とか転倒させずに支えた。


 彼女の心臓が、限界を迎えようとしている。

 これまで沙耶は何度も無茶をしていたのだろう。その度に余命を削っていたに違いない。


 そうまでしても、そのような結果になるとしても、沙耶はこの道を選び取った。

 沙耶の顔が青褪めていく。体中が震え、押せば今にも倒れそうな状態だった。血が上手く循環していないのだ。彼女の心臓は足りていない部分に血液をより多く巡らせるために必死になるが、それが結局のところ悪循環となっている。


 血が巡らない。必死になる心臓、苦しむ沙耶。負の円環となり──、


「剣誠……」


 しかし、それでも彼女は剣を振るう。

 心臓が力尽きようと、魂が悲願を成就させるまで、永遠に。

 ガツン、と力の入っていない一撃が、僕の首を横から捉えた。


「──沙、耶」


 その太刀筋の何と弱々しいことか。蝋燭が一本、燃え尽きた。闇が濃くなる。

 しかし、その中でも分かる。彼女はもうすぐ死ぬのだと。

 僕の両目から、ダムが決壊したかのように涙が零れ出す。


 頬を伝い、血と混ざり、滲みる痛みを残しながら、紅い涙は沙耶の剣を濡らした。

 白濁の刀身に、紅い轍が描かれた。さながら、刀そのものまで泣いているかのように。


「どうしたんだよ、斬れよ! 君の命を、こんな半端で終わらせないでくれ……ッ」


 その咆哮に涙が混じる。

 顔は見るも無様にしわくちゃだろう。耐えがたい辛さに喘ぐしかできない。


「……、実に……うるさいな……まだ、終わって……いないぞ…………ッ」


 錆びた歯車を回すようにぎこちない動作で、沙耶は顔を上げる。

 そして、僕たちの目線が再び交錯した。沙耶の凄惨な笑顔は崩れ落ち、死の淵で抗う表情だけがその顔に張り付いていた。

 その沙耶の魂を燃やす姿に、涙が一層溢れ出す。


 止める気はなかった、拭うつもりもなかった。

 ただ感じる。受け止める。沙耶の魂の叫びを抱きしめる。


 だからどうか、どうか頼む、届け、届いてくれ。

 彼女の魂に、この想いよ届いてくれ。




 僕は、君を愛している。




 木刀が交差する。衝撃で互いの木刀が中心からへし折れた。

 木片が宙を舞う中、命を燃やす沙耶と目線が重なった。



 

 瞬間、しゃらん、と。

 あの煌びやかな音色が、僕の魂で響き渡り──、




 世界が、空白になった。




 ──感じる。ここは沙耶の魂の内側だ。沙耶がいつか思い描いた幻想が、僕の目の前に広がっているのだ。


 沙耶と、僕と、刀哉の三人がいた。この道場の中を駆け回っている姿が見えた。彼女の描いた夢だった。あの日に実現し得なかった──彼女の普遍的な、夢。


 共に笑い合い、沙耶も体のことなんて気にせず剣道をしていた。僕と刀哉がいつも勝負をしては、一本入った入ってないで揉めていた。沙耶が僕たちを眺めながら、どっちも私より弱いじゃないかと上から言う。


 僕たちはそれに憤慨して、沙耶に勝負を挑む。何戦でも、何回でも、体力が尽きるまで、沙耶は僕たちと剣道をする。


 なんと楽しい光景か。なんと幸せな風景か。

 沙耶は大切だと思う人たちと一緒に、思う存分大事な時間を満喫していた。

 私が描いた夢は、今ここに叶ったのだ──。




「そうか。沙耶、君は」



 

 ──映像が切り替わる。コンビニだ。僕たちは稽古を終えた後、コンビニに寄っていた。

 沙耶に負けた僕たちは、みたらし団子を奢る羽目になっていた。

 一人二パック。二人で四パック。素晴らしいと沙耶が息を蕩けさせた。


 太るぞ、と耳元で囁く僕の顔面に、沙耶が拳をめり込ませてこう言った。

 うるさいな。この団子こそが私の健康の秘訣なのだ──。




「ずっと……夢を生きていたんだね」




 ──また切り替わった。漂白されたベッドに、真白の部屋。そよ風が吹き込んでくる。

 額に包帯、頬に大きな絆創膏を貼った僕と、愉快そうに話しかけてくる少女。

 沙耶だ。微かに覚えがある光景。恥ずかしくて抹消したかった記憶。

 僕が自転車で転んで大怪我し、入院した病院だ。その時の光景だ。


 体が治ったら稽古をしよう。中学でも、高校でも、大学でも。

 待ってるから。


 何気ない言葉だった。でも、右肘に生まれつき欠陥を抱える刀哉と、未来を信じていた僕の言葉が、沙耶にとっては未来を生きるための力になっていたんだ。

 沙耶の憧れは、夢は、彼女の始まりは、この病院での一幕だった。




「君には、君たちには……心の底から感謝している」




 ──夜が映し出された。幻想的な舞を披露する、ワンピース姿の沙耶。

 月が綺麗だ。そして、月影が祝福する沙耶も、蕩けるくらいに綺麗で。沙耶はずっと心で叫んでいたのだ。逢瀬が叶ったと。こんな美しい月の下でなら、私は死んでもいいと。


 今なら分かる。魂に絶望を抱えた僕たちにとって、太陽は眩しすぎるんだ。

 だから、沙耶は僕と月の光を分かち合いたかった。

 弱さを曝け出すことは恥ずべきことではないと、僕に教えるために。


 己の弱さを受け入れ、それでもなお前に進むために。

 一人では難しいのなら、二人で。

 二人だけの世界で、互いの弱さを曝け出し、分かち合いたかったんだ。


 僕と彼女は同じだから。僕たちは──絶望の理解者だから。


 だから沙耶は願ったのだ。抱きしめてほしいと。

 孤独ではないと、魂を優しく包んでほしい──と。

 それこそが、沙耶の叫びだったのだ。




「こんな青春の日々を送ることを、私はずっと夢見ていたんだ」


 人の夢の多くは、野球選手になりたいとか、大金持ちになりたいとかだろう。でも、沙耶にはそんな『将来』が存在しない。だから沙耶は『僕と刀哉と三人で稽古をする』だなんて、あまりにも身近で簡単で日常なことを夢に抱いた。


 青春を夢に描いたのだ。


 多くの人にとっては当たり前の日常が、沙耶にとっては奇跡だったんだ。


「私は、弱くて、普通で、ただ剣道が好きなだけの、どこにでもいる女の子なんだよ」


 バケモノみたいに強かったから。どこか幻想じみた雰囲気があったから。自分にとっては高嶺の存在だと、線を引いてしまったから。


「だから、知ってほしい、分かってほしいと思うのは、当たり前だろう?」





 なんてことはなかった。

 八咲 沙耶は、『高校生の女の子』だったのだ。





 滑稽なことこの上ないだろう。そんな当たり前のことを、僕はこんな遠回りをしてようやく分かったのだ。辿り着いたのだ。振り返ればそこに答えがあるのに、わざわざ。


 どうしてもっと早く気付けなかったのか。自分の愚かさに呆れ果てるしかない。


「バカだなぁ、僕は」

「なぁに、私もさ」


 愚かで、バカで、弱くて、どうしようもなくて。僕たちは同じだった。高校生で、人間で、子どもで、剣道が好き。ようやく分かった。分かり合えた。僕たちは──。


「ありがとう、剣誠。私を……理解してくれて。抱きしめて、くれて」


 弱々しい声が魂に響く。分かってしまう。分かり合えたがゆえに、伝わってしまう。

 八咲 沙耶の命が。彼女の命の刻限が、もう。


「ああ、分かるよ、君の心が……。君の痛みも、想いも、全てが、剣に込められた魂から……伝わって、くる。こんなにも重く苦しい想いを、抱えていたんだな」


 ちくしょう、視界が滲む。前が見えない。沙耶が見えない。涙が溢れて止まらない。嗚咽を殺すので必死だった。僕は、僕たちは、僕たちの魂は、初めから。


 剣舞は終局を迎える。今なら、僕たちは一つになれる気がする。

 だって、そうだろう? 僕たちは同じだった。いっしょだった。

 なら、一つになれない方がおかしい。


 僕と沙耶は剣と鞘。

 二つで一つの二心同体。


 何度も心が折れて、傷だらけになって、それでも立ち上がって、ここまで辿り着いた。


 月影が包み込む下で、僕たちの魂は。


「大丈夫だよ、剣誠。弱さがあるから、人は人の隣に立てるんだ。君がしてくれたように、今度は私が君のすべてを抱きしめる。私は──君の鞘になりたい」


 だから、私の剣になってほしい。

 沙耶は僕を抱きしめながら、耳元で囁くようにそう告げた。


 ──君に背中を押された。前に進む勇気をもらった。

 己の『弱さ』を受け入れ、それでも前へ。沙耶のように気高く、強く、前へと進め。


 この瞬間、魂で理解した。僕は、本当の意味で過去の傷を──……。


「沙耶」

「……どうした?」


「愛してる」


 ふ、と沙耶が小さく笑った。


「知ってる」




 ねぇ、沙耶。僕たちはさ、

 剣を交えることで、愛を謳うんだね。



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