第23話

気がついたとき、森の奥に立っていた。


湿った土の匂い。

重なり合う葉が、光を細かく砕いて落としている。

風はあるが、音は少ない。

生きているものが多すぎて、かえって静かだった。


正面に、大きな木がある。

幹は太く、根は地面を割るように露出している。

人が何人か並んでも抱えきれないほどの大きさだ。


その根元に、女が立っていた。


人の形をしている。

だが、人ではないと一目で分かる。

立ち姿に、迷いがない。


「……帰して」


カミールが言った。

声は低い。怒りが先に立っている。


「俺は来たくて来たんじゃない」


女は答えない。

ただ、視線を向けている。


「勝手に連れてきて。

 意味があるとか、力があるとか、そんな話をされても困る」


言葉が少し荒くなる。


「俺は、普通に生きたかった。村で、あいつと一緒に」


女は、ようやく口を開いた。


「どうして」


静かな声だった。


「あなたみたいな、中途半端で、弱くて、

 考えることをすぐやめる人間が、緑の力を持っているの?」


カミールの眉が跳ねる。


「……は?」


「頭が悪い、とは言わないわ。

 でも、賢くはない。怖くなると、誰かの後ろに隠れる」


責める口調ではない。評価でもない。

事実を並べているだけだ。


「そんなあなたが、

 死にかけた人間を癒せる力を持っている」


カミールは一歩、踏み出しかけて止まった。


「望んだ力じゃないでしょう」


言い当てられる。


「要らないと思ってる。逃げたいとも思ってる」


女は首を傾けた。


「けれど、逃げなかった」


その一言で、胸の奥が詰まる。


「病気で、子どもを失いかけている母親を見たとき。

 怪我で、もう立てない人間を見たとき」


声は淡々としている。


「あなたは、見なかったことにしなかった」


カミールは言い返そうとして、言葉を失った。


「あなたがその力を使えば、助かる人間がいる。

使わなければ、死ぬ人間がいる」


女は一歩も動かない。


「その力を欲しがる人は、世界にいくらでもいる。

 あなたは?ただ、要らないと言って逃げているだけ」


喉が鳴る。何も言えない。


女は、ふっと視線を逸らした。


「赤も、青も、嫌いじゃない」


唐突な話題だった。


「どちらも、魅力的だった。だから選べなかった」


木々の間を、風が抜ける。


「選べなかったから、分かれた。七つの理が生まれた」


淡々とした語り。


「過去の緑の担い手は、赤に引きずられ、赤に捧げすぎて壊れた」


カミールの指先が、わずかに震える。


「それを見て、一族は耐えられなくなった。

 村は消え、神殿も失われた」


事実だけ。悲嘆も、後悔もない。


女は再び、カミールを見る。


「あなたがその力を要らないと言っても、

 私には取り上げられない」


逃げ道は示さない。


「その力は、ずっとあなたにつきまとう」


一瞬、唇が歪む。


「赤の犠牲になるかと思って、心配して損したわ」


軽い調子だった。


「赤には、これっぽっちも興味がないし」


間。


「青の担い手に、夢中なんだもの」



それで、話は終わった。


「帰りなさい」

「……帰れって、あなたが――」


次の瞬間、足元の感触が変わる。

森は消え、石畳と、水路の音が戻ってくる。

青の村。長の家の前。


言い終わる前に、

そこにはもう、誰もいなかった。

カミールは、その場に立ち尽くしていた。


◇ ◇ ◇


初めてこの力の存在を知ったときから、ここまで旅をしてきた。

祖父の言葉に従い、リュタと一緒にいられなくなるのが嫌で、

神殿に捕まると死んでしまうかもと思ったら怖かった。

カイラスとリエルに助けられ、旅をすることになった。

自分の人生にこんな日々が存在することが信じられなかった。

村にいたときよりも、

本当に大切にされていると知ることができて幸せだった。


大樹海でカイラスに力を使ったときは、こんなに疲れるものなのかと驚いた。

でも、これくらいなら大丈夫だと思えた。

黄の国でさらに大きな力を使ったとき、消耗は確かに比べものにならないほどだった。

それでも——

人を癒すという力を持った自分が、世界の中心に立っているように感じた。

リュタはそんな自分だから側にいてくれる。そう信じることで、力を使い続けた。


本当に恐ろしいと思ったのは、赤の国で炎に巻かれた時だった。

熱くて、息ができなくて死んでしまうのだと思った。

気が付くと、目の前にリュタがいた。泣いていた。

リュタは俺以外、何も選ばないと言ってくれた。

その言葉がどれほど嬉しかったか。

でも、死にかけて力を使うことが恐ろしくなっていた俺は、

リュタに選ばれなくなると思った。

だから、リュタのいない世界には耐えられそうになくて、頷いた。

リュタが望むなら、その通りの俺でいればいいと思った。


リュタは俺が力を使って命を削るのを恐れながら、

俺が優しいから、その力を使ってしまうと思っている。

リュタの思うとおりの俺でいたい。そう願って恐ろしいという気持ちを抑えて、

紫の国で力を使った。人を助けたのに何も起こらなかった。


紫の理が言った、選択したことが帰結する。という言葉。

俺は、都合よく解釈した。

リュタがいれば、何も恐れなくていいと思った。

だから、全てをリュタに委ねた。

リュタが欲しいと言うのなら、何をされても構わないと思った。

白の国に入る直前に、リュタが望むままに俺たちは結ばれた。


リュタが理も旅の同行者も関係のないところに行きたがっていることを、

その後に知った。それでいいと思った。

大好きなリュタがいてくれるなら、俺も何も要らなかったから。

翌朝のリエルの問いかけ。俺には意味が理解できなかった。

リュタが代わりに答えてくれた。

何の問題もないと思った。


何も考えていなかった、ということだけがわかった。

こんな俺を、カイラスや責任感の塊のエルシオはどう思っていたのだろう。

正直、今こそが逃げ出してしまいたい瞬間だ。

リュタのせいじゃない。リュタは何も悪くない。

でも、俺はリュタがいると何も考えず、何もできない人間でしかない。

リュタは、きっと悲しむだろう。リュタが俺に向けてくれた愛情は本物だとわかるから。

これから俺がすることを、リュタが許してくれなくても仕方がない。

リュタは強くて、綺麗で、頭がいい。俺とは違う。

きっとこれからリュタに相応しい人がリュタを幸せにしてくれる。

俺は臆病で賢くないから、自分のことしか面倒を見れない。

そうすることしかできないんだ。


◇ ◇ ◇





宿の戸を押すと、内の灯りがそのまま目に入った。

遅い時間だったが、誰も寝ていない。


エルシオが最初に立ち上がる。カイラスは壁際にいたまま、視線だけを向けた。

レオンとアステルもいる。問いの言葉は、誰の口からも出ない。


「……戻ったな」


エルシオの声は低い。確認に近い。


カミールは頷いた。それだけで、十分だった。


一歩、踏み出そうとしたところで、カイラスが静かに言う。


「先に、会え」


短い。説明はない。

だが、誰のことかは分かる。


カミールは一瞬、足を止めた。

それから、外套の前を整え、向きを変える。


エルシオが何か言いかけて、やめた。

代わりに、視線を逸らす。


「……待つ」


それが、全員の答えだった。




隔離された部屋の前に立つと、中から気配がした。

生きている。それだけで、胸の奥が少し緩む。

渡された鍵で扉を開ける。


リュタリオンが、そこにいた。


目が合った瞬間、表情が崩れる。

言葉より早く、腕が伸びる。

強く、抱きしめられた。


力がある。逃げ場のない、確かな温度。


カミールは、動かなかった。

抱き返さない。肩に置かれた手も、そのまま。


「……無事で」


息の混じる声。安堵が先に立っている。

顔が近づく。

唇が触れそうになった、その瞬間。

カミールは、わずかに身を引いた。

ほんの数寸。

だが、はっきりした拒否だった。


「カミール?」


名を呼ばれる。戸惑いが、声に混じる。

カミールは視線を上げる。


「俺は」


言葉を選ばない。


「緑であることの意味を、考える——

 そう決めた」


それだけ言って、リュタリオンの腕を、そっと外す。

力は込めない。押し返さない。ただ、位置を元に戻す。

リュタリオンは、動けなかった。

カミールは背を向け、扉の外へ出る。

振り返らない。



夜が明けきる前、リュタリオンは一人で外に出ていた。


村は静かだった。

水路の音だけが、一定の間隔で耳に残る。

眠れなかったわけではない。

目を閉じても、起きていても、状態が変わらなかっただけだ。


胸の奥に、水が溜まる感覚があった。

昨日よりも、はっきりしている。


「……来たか」


声は、すぐそばにあった。

姿は見えない。だが、そこに在ると分かる。


「青」


名を呼ぶと、空気がわずかに冷えた。


「緑は、相変わらずだな」


青の声だった。

感情はない。責めても、羨んでもいない。

何の話かは分かった。――緑の理のことだ。

興味はなかった。だが、聞き流すほどでもなかった。


「形を保てるほど、強い。

 だから、自由でいられる」


リュタリオンは答えない。


「赤は、そうではなかった」


話題が移る。

それが赤の理のことだと、説明されなくても分かる。


青の声が、少しだけ沈んだ。


「得られなかった。

 緑を、世界を、留めることを」


水音が、遠くで重なる。


「残ったのは、燃やす衝動だけだ。

 失うくらいなら、すべて消してしまえと」


淡々とした語りだった。

評価も、後悔も混じらない。


「だから、赤は純粋な力になった」


間が落ちる。


「私は……覚えているだけだ」


風が、葉を揺らす。


「緑が、ここにいたこと。

 赤が、燃え尽きたこと。

 失われたものを、失われたままにしている」


声は、どこか静かだった。


「それが、理としての私だ」


リュタリオンは、しばらく黙っていた。


「……それでも、忘れない」


ぽつりと、言う。


青は、すぐに応じた。


「忘れられないだろう。

 お前は、そういう人間だ」


断定だった。

非難ではない。


「留まることもできる」


誘いとも、提案ともつかない言葉。


「ここにいれば、失ったものを、失ったまま抱え続けられる」


リュタリオンは、視線を落とした。

カミールを抱いたときの体温が、まだ皮膚の奥に残っている。

確かにこの腕に収まっていた重さ。

呼吸が重なり、離れようとしなかった時間。


それがもう、そこにはない。

いま触れているのは、冷えた空気だけだ。


忘れられない、というより、

消えなかった。


「……分かる」


短く答える。


青は、満足したようだった。


「共感できるだろう」


沈黙。


やがて、リュタリオンは首を振った。


「それでも、ここにはいない」


理由は言わない。


「覚えていることと、立ち止まることは違う」


青の気配が、わずかに揺れた。


「選ぶのだな」


問いではなかった。


「……選ばないと、進めない」


カミールが力を使うとき、

消耗を抑えられるのは、自分だけだと知っている。

それが、必要とされている証だとは思わない。

頼まれたわけでもない。

ただ、事実として、そうだ。


それだけ言って、リュタリオンは歩き出した。

水の気配が、少しずつ薄れていく。


背後で、青の声が落ちた。


「未練は、消えないぞ」


リュタリオンは振り返らなかった。


「消さない」


歩調は、崩れない。


「抱えたまま、行く」


朝の気配が、村に満ち始めていた。





翌朝、リュタリオンは、もう立っていた。


顔色は悪い。だが、足取りは確かだ。

誰も、昨夜のことを聞かない。誰も、言葉を足さない。

カミール用の馬が、青の村で用意されていた。

手綱は新しい。鞍は、少し高い。

準備が整う。


エルシオとカイラスは、言葉少なだった。

緑の森から、何も持ち帰れていないことを、二人とも理解している。


それでも、隊列は組まれる。

行き先は、中央神殿の街。


理由は、口にしない。だが、進まない選択肢が残っていないことだけは、

全員が分かっていた。

カミールは、馬に乗る。

視線の先に、道が伸びている。

考える、という言葉が、まだ胸の奥に残っていた。


村の外れまで来たところで、足音が増えた。

振り返ると、長が立っていた。供の者はいない。

外套も羽織っていない。ただ、そこに立っている。


見送りというより、

境を確かめに来た、という距離だった。

一行が歩みを止める。誰も声をかけない。

長の視線は、自然とリュタリオンへ向いた。


顔色は悪い。だが、立ち方に崩れはない。

昨夜の混乱を引きずっている様子もない。

リュタリオンは一歩、前に出た。


「この村に戻ることはない」


それだけだった。事情も、理由も、付けない。


長は、しばらく黙っていた。問い返さない。

慰めもしない。


やがて、短く頷く。それで終わりだった。


感謝も、無事でいろという言葉も、

引き止めもない。線を確認し、

それぞれが自分の場所へ戻る。

長は踵を返し、村の方へ歩いていった。


一行は、再び進み出す。


振り返る者はいない。

道だけが、前に続いていた。

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