美しき殺人鬼は、人類を愛している。
斉城ユヅル
『美しき殺人鬼は、人類を愛している。』
汚れた雨の匂いが鼻を刺す。
あの日と同じ、世界が崩れた夜と同じ匂いだ。
(……ようやく、だ)
霧の都ロンドン。
煤けた街灯が雨に滲み、人影を歪める路地裏。
その奥に──黒と白の男が立っていた。
漆黒のスーツ。
陽を避けるような広いつばの帽子。
雪のように白い手袋。
そして、右手には一本のステッキ。
──エヌ。
喉が震え、鼓動が耳を叩く。
ずっと、この瞬間だけを求めて生きてきた。
胸の底に沈殿した《燃える泥》が言葉に変わる。
「……見つけたぞ、エヌ!!」
声が張りあげた瞬間、不思議と地に足ついた気がした。
あぁ、やっと父さん母さんに顔向けできる……。
男がゆっくりと振り返る。
雨粒が帽子の先で跳ね、白い手袋が軽く持ち上がる。
「僕の名を呼ぶ。……君は誰かな?」
血塗られた地獄を歩いてきたはずなのに、
その声音は礼儀正しく、ほのかな退屈すら孕んでいた。
「お前に──両親を殺された者だ。
──ハリントンという名に覚えはないか!?」
エヌはほんの少しだけ眉を上げた。
次の瞬間、寝起きの挨拶のような柔らかい声が返ってくる。
「たくさん殺してきたからねぇ。覚えていないよ。
それより、君。若いんだから、復讐なんてやめておきたまえ」
殺意が胸を焼く。
視界が赤い幕をかけられたように揺れる。
「覚えて……いない、だと……!?」
「怒りかな? 軽いんだよ、それは」
エヌは黒く薄汚れた雨の石畳に視線を向けて続けた。
「そんなもので願いが叶うなら苦労はしないんだ」
(黙れ!)
「てめぇを殺すために、俺は──!」
ナイフを握る手が震える。
怒りが背中を押し、体が勝手に前へ飛び出した。
刃が闇を裂く。
その瞬間、エヌの声が風より速く届いた。
「──慣れてないねぇ」
世界が反転したような静寂。
次に聞こえたのは、濁った水音だった。
石畳に、俺の《右腕》が転がっていた。
(……え?)
重心が崩れ、膝がつく。
思わず左手で押さえる。傷口が焼けるように痛い。
無意識に呻き声が漏れる。
(……何が……起きた?)
呆然とした頭に、降りかかる雨だけがやけに冷たく感じた。
視界の端でエヌが肩をすくめる。
「なんで? という顔だね。
狼が兎を殺した。怒った兎が狼に挑んでも、結果は変わらないだろう?」
声が霧に溶けていく。
「それとも、君は僕を《殺す算段》があったのかな?」
俺は……仇を……父さん。母さん。
何の罪もなかった両親の笑顔が脳裏に浮かぶ。
視界が涙に滲む。
諦めたわけじゃない。諦めてなどいない。
諦められるはずがない!!
右腕の痛みは遠くなり、怒りの炎は燃え上がる。
まだ左手がある。アイツを殺せるなら──相打ちだって構わない!!
地面に落ちたナイフを確認し、背を向けつつあるエヌを睨む。
――その刹那
「おい、そこで何している!」
警官だ!!
「……あら、面倒だね」
*
──ドサッ
あまり意味のない殺しは望んでいないんだが……。
エヌはコートの裾を張って、雨粒を払った。
薄闇の中、転がる腕と青年の骸を一瞥する。
死体なら警官の足止めに、なってくれるよね?
小走りで現場から離れつつ、気になる点が浮かぶ。
(……誰かが動き始めてる?)
青年の行動の裏に、別の意志の匂いがした。
それは、エヌにとって極めて都合がよかった。
「この世界、盤面は、広い方が楽しいからねぇ」
霧の奥へ消えながら、
エヌの唇には朗らかな笑みが浮かんでいた。
*
雨の帳の奥で、警官たちのランタンが揺れている。
その灯りの中心──若い男が倒れていた。
テイ。
ハリントンの倅、手がかかる悪ガキ──だった。
壮年の刑事──アイルは濡れたコートの裾を引き上げ、屈み込んだ。
警官がすぐに言う。
「アイル刑事……連絡はありましたか? テイさんからの……」
ああ、と短く返す。
胸が重く沈む。
──エヌの情報を掴んだ、と。
──すぐに来てくれ、と。
アイルが動いたのは数分前だった。
だから数分差で、届かなかった。
(……間に合わなかったか)
倒れたテイの額には、一本の投げナイフが深々と突き刺さっている。
アイルは柄に触れ、角度を確認した。
雨。
夜。
視界最悪の路地。
それでも、軽い投げナイフで頭蓋骨を貫通させて即死させている。
(生半可な技量じゃない……エヌだ)
警官が続ける。
「……連絡の直後に、単身で現場へ向かわれたようで……
興奮した様子でした。おそらく復讐の……」
「止められなかった俺の責任だ。強く、言っておくべきだった」
唇を噛みしめるアイル。
テイの父とは古い仲だった。
別に息子を預かると言った覚えはないが──
それでも、守れなかった事実が胸の奥に鉛のように沈む。
アイルは立ち上がり、周囲の石畳を見る。
雨で薄れてはいるが……足跡が、途中で消えていた。
自然に消えたのではない。
意図して《消した》足跡。
逃げるのではなく、存在を消すための動き。
(焦りがない。やり慣れている……殺しも、逃走も)
「逃げたのでしょうか」
警官が問う。
アイルは霧の奥を見つめたまま答える。
「いや。ただ逃げるなら、ここまで痕跡を消す必要がない」
「……?」
「……刑事の勘だよ」
だが、その声には揺らぎがなかった。
長年積み重ねられた経験が、エヌという《異常》の輪郭を本能で捉えていた。
アイルはコートの上から、内側に仕舞った英国式のウェブリー・リボルバーに右手を当てる。
そこに相棒がいることを確かめるように。
硬さと形状が己を励ます。
この街で最も信頼できる拳銃。
(テイ……お前は愚かで、優しい奴だった。父親に似て、目に迷いがなかった)
黙祷を捧げるように目を閉じ、ひとつ息を吸う。
霧が街灯を曇らせる。
雨が石畳を洗い流す。
そして、ゆっくりと一歩、暗闇へ踏み出した。
「犯人を追う……」
「危険では?」
静止を振り切る彼の声は低く、確かに獣の牙を含んでいた。
「逃がす訳には行かんだろ」
雨煙の向こうへ、アイルは駆け出した。
*
雨に濡れた鉄骨が風に軋む音が、薄闇に沈む廃工場へと響いていた。
屋根には穴が開き、漏斗のように雨が落ちる。
アイルは濡れたコートを払って、中へ踏み込んだ。
──ここだ。
追跡の果てに辿り着いた古い鋳造工場。
人の手を離れて何十年も経つその空間は、
何故か《あの男》に似合いすぎていた。
視界の奥。
割れた窓から吹き込む風に白手袋が揺れる。
エヌが立っていた。
黒いスーツは雨をほとんど吸わず、
廃工場の薄い光で輪郭だけが浮かび上がる。
まるで闇が彼を避けて形を作っているようだった。
「……逃げないのか?」
アイルが言う。
エヌは帽子のつばに手を添えて、視線を上げ微笑んだ。
「逃げる? 君から?
いやいや……《やっと会えた》んだよ、アイル刑事。
君のことをいつも想っていたよ」
アイルの指が無意識に拳銃へ触れた。
あまりに自然に名前を呼ばれ、胃の奥がざわつく。
「……気持ち悪いこと、言うんじゃねぇ」
「……テイくんは……残念だったよね。
可愛い子だった。勇気もあった。……愚かでもあったけど」
アイルの視線が険しくなる。
「お前が殺したんだろ」
「うん。そうだよ。でもね、アイル。
ああいう死に方を選ぶのは……いつだって本人なんだ」
「ちっ……適当なことを。お前が殺した。それが全てだろ」
エヌは肩を竦め、軽く笑う。
「君の世界ではそうだろう。
悪くないよ。君は本質に触れている。
死は《結果》として確定している。
だけど、肝心なのはその裏にある《動機》だよ」
アイルは言葉を絞り出す。
「散々殺して、目的は……何だ。……戦争か?」
「ははっ。本気で言っているのかい? なら、期待はずれだなぁ」
エヌは帽子を指先で整えた。
ステッキをゆっくり弄ぶ。
その仕草だけ妙に優雅だ。
「戦争を起こすためってのは、現場を知らないお偉いさんの予想だ。──切って捨ててくれてありがとよ」
「へぇ……。じゃあ、教えてよ……何が狙いだと《君》は思うんだい?」
エヌの問いに、アイルが口元を歪めて、言葉を吐く。
「……戦争による荒廃と秩序の再編。支配構造の変革。お前の狙いは……それだろ?」
エヌが沈黙する。
雨が鉄板に落ちる音だけが響く。
やがて、エヌは沸き上がる喜びを抑えきれないように熱く囁いた。
「あはっ、ふふふっ、凄い。凄いよ。……うん。僕はね、人類をもっと《美しく》したいんだ」
アイルの拳が震えた。
「……人類を、美しく? なぜそんなことを」
「理由?」
エヌは笑う。無垢で美しい笑顔。
「みんな幸せになりたいでしょ? 理由なんている?」
危うく、甘く、鋭い。
毒霧のような声だった。
アイルの胸に怒り以外の感情が生まれる。
恐怖でも憎悪でもない。
納得。
それを知覚すると同時に発火する怒り。
──何故、納得してる!!
エヌが一歩近づく。
「でも……時間がないんだよ。
続きは、君の本能で答えてもらおうか」
「結局殺しか」
「ううん。
僕はただ──君がどれだけ《人》として美しいか、確かめたいだけだよ」
エヌの白手袋を僅かに振る。
瞬間、世界を包んだ雨の音がスッと消えていく。
ステッキの先端がズレ落ちる。
一瞬で仕込み刀が露になる。
彼が刃を握った瞬間、廃工場の空気が、《刃》そのものに変わったように張りつめた。
「……さぁ、アイル。未来の形を語り合おう」
*
その誘いに、アイルは返事をしなかった。
身体に馴染んだ動きのままに、コートの内側へ右手を滑らせる。
そこには英国式ウェブリー──
長年現場を共に潜った、重く、確かな銃。
彼の抜き打ちは、格闘家のジャブより速い。
そして、最速で銃口を向け、躊躇なくアイルの指がトリガーを引いた。
──パンッ!!
これが彼の返事だった。
──パンパンッ!!
反復する爆ぜ音が鉄骨を震わせる。
アイルは狙いを定めない。
撃ちながら回り込み、敵を誘導し、
自分の《殺しのライン》へと招待する。
対するエヌは、ただ身体の角度をほんの少し変えただけだった。
それだけで、全弾が空を裂く。
速さではない。
動くべき答えを知っている者の動き。
アイルの喉が乾く。
(……チッ、かすりもしねぇ)
だが──
(この通路、正面から来るなら……当てられる!!)
アイルはあえて射撃を止め、敵を待つ。
その変化を、エヌが見逃すはずがない。
地面を蹴る音すらない。
躊躇なく一本道に飛びこんできたエヌ。
暗い廃工場の中、気配だけが瞬きの間に眼前へ迫る。
「方向が分かれば……撃ち抜ける!!」
アイルは引き金を絞った。
──パンッ!!
接近するエヌの胴体を正確に撃ち抜く軌道。
エヌは剣を振っていない。
ただ、弾丸の進む《未来位置》へ、先に刀身が置かれていた。
若干角度を付けた厚みのある刀身の腹に触れた瞬間、わずかに銃弾の軌道が逸れた。
──キィンッ!!
澄んだ高音、誤差ゼロの剣技。
まるで、弾丸のほうがエヌへ道を譲ったかのようだった。
「……なんだと……ッ!?」
驚愕が喉に貼りつく間もなく──
仕込み刀が、アイルの拳銃を弾く。
金属音。衝撃。指先が銃を取り落とす感覚。
相棒の銃が宙を舞い、ザッーと床を転がった。
返す刀で、冷たい刃がアイルの首筋へ添えられる。
「……ッ!!」
切られてはいない。
ただ、いつでも《殺せる》と示すだけ。
ゴクリとアイルの喉が鳴った。
己の荒い息の音だけが暗い空間に響いていた。
「美しいだろう? 命のやり取りは、こうでなくちゃね」
荒れていたアイルの呼吸が凍る。
「殺してやるだとか、復讐だとか……そういう雑味はいらないんだ」
(殺し合うなら、殺すこと以外考えては駄目──その通りだ)
──分かるなよ……。
──理解してしまうなよ……!!
アイルの胸で、怒りと自己嫌悪が渦を巻く。
「……何が言いたい」
エヌは慈しむような眼差しで微笑む。
「君は僕を殺人鬼だと思っているね。
確かに人は殺したよ。でも僕は──」
刃が首筋で、雨粒を弾くようにわずかに動く。
「《人類》を愛しているんだ。人じゃなく、ね」
「……意味が分からん。だから殺していい理由にはならんだろ」
エヌは分かり合えない友に語りかけるように穏やかに告げた。
「だから、殺していいんだよ?」
アイルの拳が強く握り締められる。
それは恐怖ではない。怒りでもなかった。
理解しそうになってしまった自分への断固たる拒絶。
「ふざけるなっ!!」
*
手の甲で首筋の刃を払い、その動きのままにアイルは飛び込んだ。
迷いはない。
恐怖もない。
あるのは、人であるための誇りだけ。
「──ッらあ!!」
アイルは動物的な動きで両腕を構え、エヌの顎目掛けて拳を放つ。
拳風がエヌの頬を掠めた。
ほんの紙一重。
だが、そこに込められた《本能の全て》をエヌは確かに感じた。
「……いいね」
呟いた瞬間、エヌの身体が沈む。
地面へ吸い込まれるような低い姿勢。
まるで重力そのものを裏切る柔らかさ。
次の瞬間。
エヌの肘打ちが、アイルの鳩尾に沈んだ。
「ぐふっ……」
息が刈り取られる。
肺が潰れ、痛みと衝撃に視界が白く瞬く。
さらに──
足払いを受けてバランスを崩した。
鉄床に背中が激突し、世界が横回転する。
(──強いッ)
脳裏に浮かぶ技量差
気づいた時には、冷たい刃が、心臓の真上に触れていた。
動けば死ぬ。
動かなくても、死ぬ。
そんな位置。
エヌは微笑していた。
まるで恋人と夜更けに語らうような、甘い声が落ちてくる。
「雨だね」
天井の穴から落ちる雨が、ふたりを濡らしていた。
「君は……人間のままなんだね。それは、少し羨ましいよ」
アイルは呼吸を整えようとするが、肺が拒否する。
エヌは続ける。
「僕は、とっくに捨ててしまった。願いのために、人であることを。でもね……やっぱり人類の未来を掴みたいんだ」
刃先が心臓の上をすべり、そっと退いた。
その動きは、愛撫にも似ていた。
「君の存在は……その未来を引き寄せている。僕の天敵。僕を殺し得る唯一の可能性」
エヌは笑った。
残酷で、それでも哀しみの色があった。
「だからこそ──殺さない」
アイルがかすれた声で問う。
「……どういう、つもりだ……」
「君が《僕を殺すためだけに生きる》というのなら、排除しよう。それは僕の未来を壊すからね」
エヌの声は柔らかく、それでいて絶対の意志を帯びていた。
「だが君は人だ。
人は誰かのために剣を振るう。
自分以外の《何か》を抱え込む。
だから濁る。
それが……君の弱さだ。
そして、美しさだ」
アイルの拳が小さく震える。
理解したくない。
だが、理解してしまう。
(彼は確かに人類を愛している。ただ、正しすぎる。人では届かない程に)
エヌは息を吐き、最後に言った。
「また会えることを……心から祈ってる。
愛すべき人類の一部にして、我が友……我が仇敵よ」
エヌの脚が僅かに動き、頭部に衝撃──
*
その日、俺は滅びぬ巨悪に出会った。
あの日以来、奴を追っている。
次に会ったとき、告げるべき言葉を──まだ知らぬままに。
美しき殺人鬼は、人類を愛している。 斉城ユヅル @saijo_yuzuru
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