常夜の虫と明ける夜

雪峰

第1話 蜜柑の木

 立花真咲たちばな まさきは芋虫が苦手だった。

 理由はわからないが、物心ついた頃から芋虫が何よりもおそろしかった。


 特に青々としていて、つるりとした類いのものに強い嫌悪感を抱いた。

 真咲の実家の庭には数本の蜜柑の木がある。


 冬以外のほぼ一年中、その幹には芋虫がくっついている。

 この世の何よりおぞましく思えるものが、己の生活圏内でともに生きている。


 幼い真咲はそのことに絶望を覚えた。

 蜜柑の木を切るよう祖父母や両親に懇願したが、家族はみな笑い飛ばした。


「見てごらん。かわいい虫だよ。何も怖いことなんてない」

「きっとよく知らないから、そう思うんだよ」


 違う。別に無害な生き物だということは知っている。

 葉を食べて脱皮して蛹になって蝶になる、真咲の人生に何ら影響のない虫だ。


 なのに、怖い。なぜ。


 同級生の中で、虫を怖がるものは何名かいた。

 けれど誰も、真咲の恐怖心に心から共感できるものはいなかった。

 真咲にとっては、この世に存在するすべてのおそろしいものの中で、一番怖いものが芋虫なのだ。


 やがて真咲は、芋虫への恐怖心を外へ出すことをやめた。

 そうしていつしか、高校生になっていた。



 一年生の夏休み、真咲は自宅に友人を招いていた。


 友人の名は多而摩奏たじま かなで。同じクラスの人当たりのいい生徒。

 彼は畳の上に膝を崩して座り、座卓に両肘をついて、スマホゲームに熱中していた。


 その向かいで、真咲はタブレットでぼうっと動画を見ている。

 共に同じ空間にあって、好きに過ごす奏との時間は真咲にとって心地よかった。 


「あー! 勝てない!」


 やがて奏が情けない声でスマホから手を離す。


「さっきからずっとそれ言ってない?」

「だってずっと勝てないし。真咲、出来る?」


 座卓に置かれたスマホの画面に視線を落とす。

 LOSEの文字が無慈悲に踊っている。


「やってみていいなら」

「全然いい。俺ちょっとトイレ!」


 そう言って座卓には奏のスマホが残された。


(あいつ、俺がスマホ悪用するとか思ってないのかな)


 信頼されているのか、単に無頓着なだけなのか。


(まあ、別に変なことしないけど……)


 メニュー画面に戻り、適当に編成を整えてからゲームを進めていく。


「ただいま! どう?」

「いけそう」

「まじ!?」

「奏、ボスのギミックちゃんと読んだ?」

「あー……見てない!」

「だからじゃない?」


 戦況はほぼ勝ち確、というところまで進めて奏にスマホを返す。


「え、ありがとう! やっと次進める」

「よかったね」


 奏の笑顔を見届けてから、タブレットの画面に視線を戻す。


 何ということはない、穏やかな夏休みの午後だった。

 この時までは。



 ゾッと背筋に冷たいものが走る。

 いる。きっとあの蜜柑の木の幹に。


「襖閉めるね。扇風機じゃなくてエアコンにしよっか」


 唐突な真咲の提案を、奏は特に気にすることなく受け入れた。

 庭が隠れるように、襖を引く。障子越しの淡い影すら嫌だった。


「真咲?」

「……え?」

「どうしたの、顔色が悪い」


 奏が膝立ちになって、心配そうに真咲の表情を覗き込んでいる。


「体調よくない?」

「ううん、そうじゃないんだけど」


 真咲は躊躇った。奏と過ごしている時に、庭が気になったことはなかった。

 奏がいれば蜜柑の木を気にすることなく過ごすことができた。

 だけど今日は、なぜか違った。

 

「俺……は、」


 躊躇いながら、思考を言葉にすべく口を開く。

 奏がスマホを無防備に委ねたように、自分も心に淀む感情を、今は出しても良いのかもしれないと。


「なに、真咲」


 奏は静かに囁いて、真咲の隣に立った。

 真咲の目線を追って障子の向こうを覗こうとするけれど、曖昧な庭の影が映るだけだった。


「俺、あれが嫌なんだ」

「あれって?」


 見えない庭に視線を向けたまま、奏が尋ねる。


「きっとあそこにいる。蜜柑の木にいる、あれ……」


 それを指す名前が、喉に貼り付いて出てこない。

 長らく話題に出さなかった間に、言葉にすることにも嫌悪を抱いていたのかと顔を歪ませる。


「……見て来てもいい?」


 真咲の様子を伺いながら、奏がそう尋ねる。


「うん。いいよ」


 隣でごくりと喉が鳴る音がする。細い指がゆっくりと襖を開いた。


 奏が庭履きのサンダルに両足を通す。飛び石を辿って、ゆっくりと一点へ向かっていく。


「この木?」


 振り向く奏へと真咲が頷く。奏は身を屈め、葉の間から幹を覗き込んだ。


 次の瞬間、奏の姿が消えていた。


「え……?」


 強い日射しが真咲の肌を焼く。頭がくらくらとした。

 見間違いではない。奏はどこにもいない。


「奏、は……?」


 真咲は全身に冷たい汗をかきながら、ふらふらと靴下のまま庭に出る。


 確かめなければいけない、そう思った。

 何が起きたのか? 奏はどこにいったのか?

 あの木の下で、何を見たのか?


 幹の裏から奏がひょっこりと出てきて、「冗談だよ」と言ってくれるのを想像する。

 

 だけど現実は、庭は不気味に静まり返っていて、己の呼吸の音だけがやけに耳に残る。


 瑞々しい葉が目にまぶしい。葉の奥を確かめなければ。

 目的の木が近づく。深呼吸して一気に距離を詰め、奏が見た場所を覗き込む。


 そこに現れたのは、今にも羽化しようとしている、光るさなぎだった。


「な……!?」


 蛹から漏れる眩い光が真咲を包む。そして、彼の姿も午後の庭から失われた。

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