水底の蜻蛉

葛西 秋

第1話

「たとえば、青森のイタコなどは口寄せして語る言葉がすべて津軽弁だというじゃないか」

「……うん?」


 あまりにも突拍子も無い言葉を聞いて、私は思わず隣に座る相手の顔を覗き込むように見てしまった。


 相手は私と同じ私立のY大学に勤める早良さわら省吾しょうごという名の男性教員である。日の当たらない教養課程の生物学教室に万年講師として押し込まれた私とは異なり、早良は大学の顔である医学部の若手講師である。

 端正な容貌と落ち着いた物腰で、四十代になる前には准教授の声もかかるのではないかといわれるほど、大学病院の患者からも大学関係者からも信頼が篤い。私とは数年前の大学職員の忘年会で知己を得て、大学の職制上は同じ立場の同年代ということで、以来、年に数回ほど話を交わすようになった相手である。


 今日も今日とて大学本部事務に呼び出された私の姿を見かけた早良が、帰りがけにちょっと一杯、と誘ってきたのである。


 教養課程のある野性味あふれた郊外のキャンパスとは異なり、大学本部があるのは白く煌めく都心のキャンパスである。当然のように付属の大学病院と共に医学部がそこにある。野山から下りてきた小心な動物の如く貧相な肩を狭めていた私は、見知った早良の顔に安堵して深く考えずに誘いに乗った。


 だが気軽な誘いに乗って連れて行かれたのは大学本部近くの高層ビル、壁面の大きなガラスの外はもはや天空というべき高所にあるバーだった。盛夏の日暮れは遅く、まだ橙色が地平に滲む夜空の下に都会の明かりが広がっている。


「職場の近くで申し訳ないけれど」


 勝手知ったる風情でカウンターに座る早良の仕草は様になる。一方の私は実験室で使う椅子と要領は同じと見込んで、えいや、の気合で腰をかけた。勢いでクルリと廻っても振り落とされないあたり椅子にも品がある。


「早良は今日の病院の仕事は終わりだろう。何か食べに行っても良かったんじゃないのか」

「それが当直に入る研修医がどうも頼りないから、今夜は絶対に連絡つくようにしていてくれと看護師から厳命されているんだ。僕が指導医だからね、仕方ない」


 そう云いながら早良は仕立ての良いシャツの胸ポケットに軽く指を触れた。ポケットから顔を出しているのは大学支給のスマホだろう。命を扱う仕事という大義は承知しているが、学務で使うパソコンすら自費購入を強いられる教養教員の待遇とは雲泥の差である。


「忙しいならなんでわざわざ私に声を」

「話というか、意見を聞きたいことがあったんだ」


 早良の軽い口調からは話の程度が伺い知れない。私は洒落たグラスで運ばれてきたハイボールに口をつけた。飲みなれているはずなのに、ひどく上級な味がする。名前は同じでもベースが違うとここまで別物かと、なにやら哀愁すら覚え始めた我が心から目を逸らして早良に言葉を返した。


「生物学者の意見が医者に必要なのか」

「生物学者は必要ないかな」

「なんだそりゃ」

「君のもう一つの仕事の方だよ」


 それだけの会話で私が興味を引かれたことを確信したのか、早良は少々口調を改めて尋ねてきた。


「死者は、どうやって生きている人間と言葉を交わすのだと思う?」

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水底の蜻蛉 葛西 秋 @gonnozui0123

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