氷の女騎士がデレる前と後
実験的ツジハシ
第1話
窓の外を叩く風の音が、一年前のあの夜を思い出させた。
私がこの辺境の館の管理人として派遣され、彼女――「氷の剣」と恐れられた女騎士、リュシアを迎えた日のことだ。
かつての彼女は、まさに抜き身の刃だった。
戦場から帰還したその日、館へ戻ってきたのは夜の帳がすっかり落ちた頃。重厚な扉がきしみ、冷えた夜風と共に現れた彼女は、幽鬼のように蒼白だった。
「お帰りなさい……!」
生きて戻ってくれた安堵から、私が駆け寄って手を伸ばしたその瞬間。
彼女の肩がびくりと震え、拒絶するように身を引いたのだ。
「――触るな」
向けられたのは、刃物のような視線だった。
足取りは明らかにふらついており、疲労は限界を超えているはずなのに、彼女の瞳だけが異常な光を放っていた。
「今日はもう休んでくださ――」
「私に命令するな」
噛みつくような声だった。
彼女にとって、戦場における休息とは死と同義だったのだろう。見えない敵、消えない血の匂い。その呪縛が、安全なはずのこの館でも彼女を縛り続けていた。
あの頃の彼女は、食事をとることすら「補給」と呼び、眠ることさえ罪悪と捉えているようだった。
あれから、一年。
季節は巡り、再び冬の足音が近づいている。
風こそ冷たいものの、不思議と館の中は静かに温かかった。暖炉の薪がはぜる音が、穏やかな時間を刻んでいる。
私は執務室で、領地経営に関する書類の整理をしていた。
インクの匂いと紙の擦れる音だけが響く部屋。その静寂を破ったのは、寝室の方から響いた控えめなノック音だった。
「……おい。起きているんだろう」
扉の向こうから聞こえたのは、最初から返事を期待している、どこか甘えた声色だった。
一年前の彼女が聞けば、即座に否定したくなるような弱さを孕んだ声。
「起きてますよ。入っていいです」
私がペンを置くと同時に、扉が半分だけ開いた。
リュシアが顔をのぞかせる。
かつて鉄の鎧に身を包んでいた彼女は今、柔らかな厚手の寝間着をまとっている。結い上げていない金色の髪は少し乱れ、その頬はやけに赤かった。
「……眠れん。お前がいないと、だ」
以前なら拷問にかけても言わなかった類の台詞に、思わず口元が緩んでしまう。
彼女は不満げに眉を寄せたが、その瞳に殺気はない。あるのは、信頼と、少しの照れくささだけだ。
「来てほしいってことですね?」
「べ、別に“来い”とは言っていない。ただ……その……」
彼女は視線を泳がせ、扉の縁を指でなぞる。
「隣にいれば寝られるというか……背中が寒いというか……」
語尾が尻すぼみになり、最後にはこちらを睨んでごまかそうとする。だが、その表情はあまりに無防備だ。
かつて「触るな」と拒絶した肩は、今、温もりを求めて震えている。
かつて「命令するな」と吠えた声は、いつの間にか、私を求める「懇願」へと変質していた。
私は椅子から立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄る。
今度は、彼女は身を引かなかった。それどころか、私が伸ばした手を、冷えた両手でぎゅっと握り返してくる。
「わかりました。すぐに行きます」
「……ふん。善処しろ」
彼女はそっぽを向いたが、握られた手の力は強かった。
戦場の呪縛が完全に解けたわけではないかもしれない。けれど、少なくとも今夜、彼女は戦士ではなく、ただ一人の安らかな眠りを求める女性として、私の隣にいる。
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