第2話 伝承と不安
伝承と不安
遥の手を握り返したまま、ぼくたちはしばらく言葉を失っていた。雨の音だけが、窓の向こうで絶え間なく糸を震わせるように響いている。
ふと、遥がかすかに息を吸う気配がして、ぼくは目を上げた。
「律……覚えてる? おばあちゃんの話」
昔話──“魂を結ぶ細い糸”。
小学に上がる前、冬の夜。祖母の膝の上で聞いた、あの淡い光景が胸の奥ににじむ。囲炉裏の火の揺れと、祖母の声は妙に静かで、それがどうしてか今もはっきり思い出せた。
「覚えてるよ。半分、作り話だと思ってたけど」
「嘘だよ。律、あのとき泣いてた」
「泣いてない」
そう返すと、遥は喉の奥で小さく笑った。笑ったのに、瞳の奥は沈んだままだ。
「だって、おばあちゃんが言ったでしょ。“糸は二つの魂にしか結ばれない。遠ざかると、軋む音がする”って。あのときから、ずっと……ぼくには聞こえるんだよ。律の糸の音」
遥は膝を抱えたまま、窓の方へ視線を戻す。雷光が街のガラス面を瞬く間に染め、遥の横顔も、薄い刃物のような白で縁取られた。
「最近、とくに大きいの。軋んで、震えて、泣いてるみたいな……。ぼくが強く引いてるんじゃなくて……律が、遠くへ行こうとしてる音」
胸の奥がきゅっと縮む。
言葉では否定できるはずなのに、思い浮かぶのは綾野の店の柔らかい灯り、ページの匂い、静かな空気。遥とは違う温度で満たされたあの空間を思い出した途端、ぼくの中で何かが音を立ててばれた気がした。
「……そんな話、ただの迷信だよ」
「迷信でもいい。でも、糸の“声”が聞こえなくなったら……二人は同じ道を歩けなくなるんだよ。おばあちゃん、そう言ってた」
ぼくは息を呑んだ。
祖母が語った昔話は、もっと穏やかな調子のはずだった。けれど遥の口から語られると、まるで予言みたいに重く響く。
「遥。ぼくはどこにも行かない。お前を置いていくつもりなんて――」
「ほんとうに?」
その瞬間、遥の声がかすれて途切れた。
ガラスを打つ雨音が途端に遠のき、部屋の空気が重く沈む。
「律が“外の世界”のほうを見てると、ぼく、胸の奥が痛いんだ。糸が巻きついて、絞られて、誰かに奪われるみたいで……。ねえ、律は痛くないの? 糸の音、聞こえないの?」
痛み──。
遥の言葉に揺らされたのか、ぼくの胸の奥にも確かに何かが擦れた。それが糸の軋みなのか、罪悪感なのか、自分でも判別がつかない。
「聞こえないよ。ぼくには」
「それが……いちばん怖い」
遥は細い腕で自分を抱きしめ、声を震わせた。
「糸の音を聞こえない人は、いつか糸から離れる。ぼくみたいに、ずっと律を見てるほうだけが、影みたいに薄くなる。……おばあちゃんが言ってた“弱る魂”って、ぼくのことなんだと思う」
ぼくは息を詰めた。
遥の声は落ち着いているのに、その瞳は荒れ果てた崖縁に立っているみたいだった。
「ねえ、律。糸が泣いてるなら……ぼくら、どうしたらいいの?」
答えを持ち合わせていない問いが、ぼくの心臓を深くえぐった。
外では、いっそう雨脚が強まり、遠くで雷が街の空を裂く。
その瞬間、ぼくは思った。
──ぼくらはもう、昔話の外にいない。あの伝承は、遥の世界だけじゃなく、ぼくの生活にも軋みを走らせている。
遥は言葉を失い、ぼくの袖をつまんだまま震えている。ぼくはその手を包み、苦い息をひとつ吐いた。
「……大丈夫だよ、遥。糸が泣いても、まだ切れてない。ぼくらは、まだ二人で繋がってる」
その言葉は慰めにも、約束にもならなかった。
けれど、それでも遥はようやく目を閉じ、掠れた声で「よかった」とつぶやいた。
雨の夜。
ひしめく高層ビルのどこかで、きっと誰かの糸も軋んでいるのだろう。
ぼくらの細い糸もまた、今にも途切れそうに震えながら、それでもまだ、互いを手放せずにいる。
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