俺はまだ、異世界に転生できていません。

真朝 一

命を救われた日

第1話 事故

 俺は死ねなかった。

 代わりに、あの人が死んだ。

 

 

 トラックに轢かれたら、この腐った世界を置き去りにして、来世の俺に生まれ変わると思っていた。

 俺は気づけば赤信号が輝く横断歩道に、呼ばれるようにふらりと足を踏み入れていた。

 

 満月の下。鳴るクラクション。迫る鉄の塊。俺の最期を鋭く照らすヘッドライト。

 

 あ、これで終わるんだ、と俺は思った。

 激しく、短く息を吸い込んだ。


 だけど、終われなかった。


 体の右半身に重い衝撃が走ったかと思うと、俺はコンクリートの上を転がった。

 同時に、急ブレーキの音と、大きなものを地面に落とした時のような鈍い音が空気を裂いた。

 

 何が起きたのか分からず、コンクリートの地面に顔面を押しつけたまま痛みに耐えていると、タイヤが摩擦で焼ける匂いがして顔を顰めた。


 トラックに轢かれたはずだった。

 それでもいいんだと諦めた。

 なのに、その五秒後の俺はこうしてコンクリートとキスをしている。


 顔をあげると、中央分離帯を乗り上げる形で停まったトラックが、そのまま慌てて走り去っていくところだった。泣き出しそうなテールランプが、人も車も少ない道の奥に消えてゆく。

 

 体のあちこちに走る痛み。それに耐えて上体を起こすと、少し離れたところから複数人の男の声が聞こえた。


「やばいやばいやばい、轢き逃げ轢き逃げ」

「警察呼ぼう警察」

「うわー血やばすぎだろグロいって」


 起き上がったとき、夜の闇の中でわずかな街灯に照らされた血が、道路を広く広く埋めていくのが見えた。

 通りがかりらしい四、五人の大学生くらいの青年たちが、それを遠巻きに見ている。


「救急車呼ぶ? ってかもう無理くね?」


 無責任な声が耳をゾリゾリと撫でてゆく。

 手足が震え、奥歯が震え、目玉が揺れた。全身の血液が凍りついたように冷えきった。


 道路に広がる血と、その真ん中に倒れている女性。不自然な方向に曲がった脚や腕。踏み潰したように散る長い黒髪。へし折れた足からは、白い骨がのぞいている。

 

 着倒してよれよれになった俺のシャツと違い、真っ白で清潔そうなワイシャツが、夜の暗い空気の底で鮮やかな赤に染まってゆく。


「あのおっさんのこと助けたっぽいぞ」


 青年のうち一人が俺のことを指さした。好奇でも悪意でもない、無味乾燥な指先を向けた。

 人に指さされることに慣れた俺でも、一瞬、肩が馬鹿みたいに跳ねた。


 俺は道路に横たわった女性の体をもう一度見た。血がなおもあふれ続け、道路を赤く満たし続けている。

 その表情は激突の瞬間から時を止め、目玉だけがぎょろりとこちらを向いたまま動きを止めている。


 青年たち以外にも何人か人が集まって来て、俺と彼女を交互に見ている。助けられた無傷の俺と、無惨な姿になった彼女とを。


 この人が、俺のことを──助けてくれた?


 その場で吐いた。吐瀉物を撒き散らし、咳き込む。

 痛む喉を唾で慰めていると、青年たちがさらに俺に近づいた。かけられる声が、恐れ気味の手が、ひどく痛い。


 止められた気がしたが、俺はその声を振り切って、逃げるように駆けだした。

 コンクリートにぶつけた足が痛んだが、それで何かをごまかすように耐えながら走った。


 何か、なんて明白だ。

 命を救ってくれた彼女を助けもせず、救急車を呼ぶこともなく、ただ見捨てて逃げる自分への嫌悪感だけだ。

 だけど、俺は何度も倒れそうになりながら、走ること を止められなかった。


 死のうとしたのに、今更になって足が震えるなんて。


 電車に乗って、ドア横にしゃがんで両膝を抱えていた。夜になっても暑さが続いているのに、寒気が止まらなかった。

 多くない他の乗客からの目線を感じたが、指をさされるよりマシだ。


 自宅に走って戻ると、飯も食べず、風呂にも入らず、汗が染みついたスーツを脱ぎもせず、布団を頭から被って固まっていた。


 この人生の全ては、俺がただ悪夢を見ているだけだ。

 でなきゃこんなに悪いことばかり続くはずがない。




 今日は本気で死ぬつもりだった。だから赤信号を渡ったのに。

   

 俺──紅河雪人こうがゆきひとにとって、仕事で失敗することは日常茶飯事だった。何もかも成功した日の方が少なかった。

 育てた部下は力をつけて、無能さを知らしめるように全員が俺の上司になっていった。


 今日の昼過ぎはそんな元部下の上司に、俺が作った企画書の内容を丸ごと盗まれ、さも自分が考えた案だとばかりにプレゼンをされた。

 俺は彼と全く同じ内容の企画書を提出することができず、一人で部長に怒鳴られた。

 

 企画書を丸パクリした上司の彼は、廊下で缶コーヒーを片手に、他の仲間たちと語り合っていた。


「あんな企画、普段仕事できてない紅河さんが説明したって誰も納得しないでしょ。俺がまとめて筋道立ててプレゼンしたからうまく通ったわけだし、あれで良かったくない?」


 


 布団の中で目を閉じれば、青年たちが俺を指さす姿が浮かぶ。

 俺の顔を見ようとする。近づいてくる。

 

 嫌だ。やめろ。これ以上俺の惨めさを確認してどうするつもりだ。

 まだ俺の人生を減点するつもりなのか。

 

 こんな俺なのに、誰かに命を救われるなんて。

 消えてもよかった命なのに。


 手柄を横取りした相手が直後にトラックに轢かれて死ぬという、最高に後味の悪い思いをあいつにさせたかっただけなんだ。

 そして俺は自由な異世界に逃げ込めたなら、さらにいいと思ったんだ。


 なのに、その後味を飲み込むのは俺だなんて。

 

 眠ろうとした。夢から覚めたかった。

 だけど、気づけば朝の光が布団の隙間から入って来ていた。俺の瞼をこじ開けようとしてくる無遠慮さが、暴力そのものだった。

 

 残念だけど現実だよ、と太陽が下卑た笑みで俺にささやいた。

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