「AAA」
Cor:set
第1話:死の予兆
【ビジネスホテル 最上階・深夜1:12】
安っぽい蛍光灯が断続的なノイズと共に明滅し、壁紙は精神攻撃のような幾何学模様。空調は弱いくせに、肌寒さが残る。地方の寂れたビジネスホテルの典型だ。
ベッドの上で、アレス(兄・17)は、大の字になって脱力していた。白銀と灰色の髪がシーツに散らばり、その目には生気が感じられない。
アレス
「……今すぐこの部屋を破壊していいなら、5秒で終わる。俺の精神の平穏のためにな」
机で読書しているリオ(弟・15)が、静かに顔を上げる。彼の瞳は、本の内容ではなく、ホテルの配線図、セキュリティログ、そして兄のわずかな行動パターンを分析している。
リオ
「何が不満なのさ、兄さん。テレビもある、ベッドはふかふか、Wi-Fiも上級プラン並みに強い。十分すぎるだろう」
アレス
「Wi-Fiが強いことが、唯一の救いだよ。だけどな、この壁紙は俺の『引きこもり魂』にクリティカルヒットしてくる。目が覚めちまう」
リオ
「父さんの急な出張に付いてきたの、兄さんだよ。もうすぐ夏休みだってのに」
アレス
「俺じゃない。俺は“引きこもり界の王”として君臨し、夏の間に全人類のSNS投稿を分析するはずだったんだ」
リオ
「その王座、要らないよ。……それより、さっきからおかしいよ、兄さん。心拍数が平常値から20%上昇している。何かあったの?」
アレス
「……なんか、嫌な予感がするんだよ。この静けさが、俺の『面倒くさい』センサーに強く引っかかってる」
#2 視界ノイズ ― 初めての“死”
バチィィィッ――!!
突然、アレスの視界が赤と黒のノイズに焼かれた。
耳の鼓膜を外側から、氷のような手で掴まれたかのような奇妙な圧迫感。
一瞬の静止画が、彼の脳裏に焼き付く。
黒服の男たち。
鈍く光るナイフ。
崩れる天井。
血濡れの床。
そして何より強烈な――
ガスマスク越しの、無感情で冷徹な視線。
呼吸が止まり、胸が締め付けられる。それは、弟のリオを庇って、自分が胸を刺される未来の断片だった。
「…ッ!」
映像が弾けて消えた。
アレスは跳ね起きる。その直後、脳の奥に冷たい水が流れ込むような感覚が走った。
特殊能力「AAA」
《アカシック・アーカイブ・アクセス》
それは「視界ノイズ」と共にダウンロードされる、「未来の因果から逆算された唯一の生存ルートと、それを実行するための体術データ」の断片。彼の意識とは関係なく、超効率的な情報が流れ込んでいる。
アレス
「……リオ。靴履け。紐は二重に結べ。走るぞ」
リオ
「え、急にどうしたの!? 何か視えたの?」
アレス
「死ぬ準備より、生きる準備しろ。……チッ、こんなところで死んでやる義理はねぇ」
リオ
「意味わかんないってば!!」
#3 ガス侵入
リオは鼻が焼けるような臭いに、一瞬パニックに陥る。しかし、
(統計:扉の材質強度、外部からの打撃パターン、ガスの組成と殺傷速度、ホテルの構造図、過去のテロ事例……99.9%シアン系類似神経ガス。致死量到達まで18秒。最適な回避手段は……)
リオ(微かに震えながら)
「(即座に囁く)兄さん!ガスは神経系特化。致死量到達まで18秒。無力化より『マスク剥ぎ』が最適解!扉のロックはあと三回で破られる!」
アレス(すでに覚醒モード)
「わかった。お前のデータは俺が使う。だが、反動は覚悟しておけ」
チチッ…
換気口から、わずかな音と共に無色透明のガスが、白い霧のように流れ込み始める。
鼻が焼けるような化学臭。
リオ
「ガス!」
アレス
「息、止めろ。短時間なら問題ない。俺がアカシックレコードからダウンロードした古流の呼吸法でカバーする!」
言った瞬間、扉が内側へ激しく歪む。
ドン!
ドン!
ドン!
ロックが破壊され、黒服の男たちが音もなく突入してきた。全員がガスマスクを装着し、手に握るのは鈍く光るナイフとスタン棒。
彼らのガスマスクの側面には、銀色の微細な紋様が刻まれていた。
リオの脳内データ(分析):その紋様は、現代では存在しない「情報転送チップ」の構造と98%一致。彼らは外部から制御され、統合感情管理機構(EMMA)によって監視されている。
アレス
「知らねぇ。けど――俺らがターゲット。やけに丁寧な殺し方だ。殺すだけなら毒を盛る」
アレスはメガネを投げ捨て、床に散らばった靴をノールックで拾い、瞬時に履き終える。
その一連の動作は、なぜか洗練されていた。まるで、何十年も軍隊で訓練を積んだ人間のようだった。
#4 無音制圧
アレスは部屋のど真ん中に置かれたベッドを蹴り飛ばす。
ズガン!
突入してきた一人が転倒。
残り二人が同時に襲いかかる。
――最短距離のステップ。
――急所だけを正確に突く肘打ち。
――視たこともない、無駄のない体術。
マスク剥ぎ!
首を締め上げられた一人は、数秒の窒息で、毒ガスを吸う前に崩れ落ちる。
もう一人のマスクを、首の後ろから引っ掛け――
力任せに剥ぎ取った瞬間に、剥き出しになった顔面へ、アカシックレコードからダウンロードした《寸勁(すんけい)》の要領で正確無比な一撃。
ドサッ。
戦闘はわずか数秒で終わった。アレスは深く息を吐き、能力使用後の強烈な倦怠感に襲われ始める。
リオ
「兄さん……!? てか今“視た”?計算?ダウンロード?」
アレス
「……窓から行くぞ。このままじゃ、追手がまた来る」
リオ
「いや死ぬって!3階だよ!!?」
アレス
「普通の人間ならな。俺らは未来を変えるための特異点なんだろ?落ちて死ぬわけにはいかねぇ」
#5 裏窓脱出と爆音
アレスは、倒れたエージェント二人のガスマスクを剥ぎ取り、その一つをリオに渡し、もう一つを自分の顔に装着する。
そして、リオが計算した部屋の隅のガス元栓を、乱暴にひねり切った。部屋に流れ込むガスは一気に増大し、意識を失った男たちの身体を包み込む。
窓枠に足を掛け、振り向きもせず言う。
アレス
「掴まれ。離したら殺す。……お前の演算の精度は信じるぞ、リオ」
リオ
「わかってる!僕の未来予測(シミュレーション)では、ここから飛び降りて隣の立体駐車場へ着地する確率が99.9%だ!」
二人は夜へ飛び込む。
風が裂ける。
背後で、エージェントを倒して安心したであろう、扉の向こうの警備担当が、ドアを破って突入する音が聞こえた。
そして――
爆音
リオが解放したガスが、エージェントが持っていた電磁パルス銃の残留スパークを引火点とした。爆発のエネルギーが、夜空へ向かって噴き上がる。
ホテル最上階の一室が、炎の塊となった。黒焦げの「身元不明の遺体」が爆発で床に転がった。
彼らが立体駐車場の上に着地した数分後。
ニュース速報が流れる。
『未明、駅前のビジネスホテルで大規模火災発生。身元不明の兄弟と見られる死体が……』
しかしその頃。
二人は生きていた。
アレスは意識を失い、リオに体を預けている。能力の反動で、彼は極度のハンガー状態と昏睡状態に陥っていた。
リオ
(僕らが機構から逃げるのは、僕らの感情を統制させないため。感情なき世界は、魂の進化を止める。兄さんと僕の能力は、その因果の収束が生んだエラーだ)
リオは、眠る兄を背負い、暗闇へ溶けながら、ただ前へ進む。
リオ
「兄さんはヒーローじゃない。僕の大切な兄さんだよ。……大丈夫、僕が必ず、この未来の分岐を最適解へ導く」
死が、アレス・アストラルとリオ・アストラル、二人の逃亡の始まりに変わった夜だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます