音のない叫び
ひじきの部屋
第1話 朝の沈黙
加藤湊(かとう みなと)が目を覚ましたのは、まだ街が静まり返っている午前五時だった。
窓の外は薄い灰色で、空も地面も同じ色に溶けているように見える。冬の朝は嫌いじゃない。寒さが身体の芯まで入り込んで、逆に思考がはっきりするからだ。
布団からゆっくり起き上がると、首筋がじんと痛んだ。昨夜、父に掴まれたときの痕だ。服の襟で隠れる位置なので、学校では誰も気づかない。気づかれたとしても、何も変わらない。
湊はそういう“経験”を、もう十二年目にして理解していた。
キッチンに向かうと、母親が背を向けたまま皿を雑に重ねていた。湊が挨拶をしても返事はない。代わりに皿が一枚、シンクの底へ叩きつけられる。
「……はやく出てって」
声はか細いのに、冷たかった。
湊は無言でパンを一枚つかみ、靴を履いて家を出た。
外に出ると、空気が一気に変わる。
澄んだ冷気が頬に触れ、胸の奥が少しだけ軽くなる。
——家にいるよりずっとましだ。
そんな感覚が湊の日常だった。
学校までは徒歩二十七分。
微妙な距離で、走れば二十分を切れるし、歩けば三十分近くかかる。毎日ほぼ同じ時間に家を出るため、この“誤差”が湊にとって唯一の自由だった。
途中の公園で足を止める。
ベンチに腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出す。
メッセージアプリを開いても、通知はひとつもない。
——そりゃそうか。誰にも連絡してないし。
でも、湊はなぜか毎朝これを確認してしまう。
「もし、何かあれば」
その“何か”が来ることは決してないとわかっているのに。
ふと、ブランコのほうから風が吹き抜けた。
きい……、と小さく揺れる。
冬の公園で聞くその音は、いつも妙に耳に残る。
初めて聞いたとき、湊は「誰か乗っているのか」と本気で思った。
今はそんなこと思わない。
でも——何もないのに揺れているブランコを見ると、胸の奥がざわつく。
理由のわからない、説明できない不安。
「……行くか」
湊は立ち上がり、歩き出す。
校門が近づくにつれて、心の温度が少しずつ下がるのを感じた。
教室の前に立った瞬間、背筋にひやりとした感覚が走った。
いつものクラス。いつもの空気。
扉を開ける。
担任の目が湊をちらりと見る。しかし、すぐにそらす。
まるで、“気づいてはいけないもの”を見たかのように。
席に座ると、隣の席の男子が小さな声で言った。
「……また青あざ?」
その声色には、心配も興味もない。ただの確認。
湊は「うん」とだけ答えた。
それ以上の会話はなかった。
チャイムが鳴る。
今日も、いつもと同じ日が始まった。
だが、湊は気づいていない。
いつもと同じように見えるこの一日が、
“後戻りできない何か”の始まりだということに。
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