ビタースイート
あるひ家鴨
第1話
田宮圭一がウチの高校に赴任してきたのは、去年の春だ。
三十代前半、背はあまり高くはないが端正な顔立ちと、耳を溶かすバリトンボイス。
女の子たちはイケボ先生などとキャーキャー取り巻いているが、僕からすれば音大崩れのヤクザな音楽教師だ。
「あれ?神崎って、去年の学生ピアノコンで特賞獲った神崎 春臣?まじか、俺、会場で聴いてたんだわ。いやぁ、ラッキー。じゃあそういう訳で、お前、伴奏な」
最初の授業でそう指名されて以来、何かと便利に使われている。
もっとも、そのおかげで空き時間に音楽室のグランドピアノを使わせて貰える訳だから、僕としても利がない訳ではないのだけれど。
田宮が
セーターの袖を擦りあわせるようにして指を温めながら、まだ騒めきの残る放課後の廊下を歩く。
暦の上では大寒を過ぎたというが、朝のニュースではシーズン最大の寒波が近づいているといっていた。
「田宮先生、ピアノ借りても──って、うわ、最悪。ケムい……」
準備室のドアを開けるや否や、中に充満していた煙をモロに被り、ゴホゴホと盛大にむせた。
「おー、神崎か。使え使え。いくらでも弾いてけー」
準備室の奥から、咥え煙草で間延びした返事をよこす田宮が、シンプルにムカつく。
「学校って全面禁煙になったんじゃなかった?」生理的な涙を拭いながら睨み付けると
「お前が黙ってりゃバレないよ。ほれ、口止め料」
と、丸い棒付きの飴を、わざわざ包み紙をむしって差し出してした。
この人のこういうところが──ムカつく。
「てゆうか先生、声楽科出身のくせに煙草吸うんですね」
「オトナには吸わなきゃやってられない時があるんデスよ。ほれ、無駄口叩いてないでさっさと練習しろ。入試、実技試験、もうすぐだろ」
しっしと手で払われ、隣の音楽室へ追いやられる。
やれやれだ。
捨てるわけにもいかない飴を咥えたまま、ピアノの鍵盤の蓋を開け、大屋根も全開にする。
そして、
ポーン……
と、真ん中のドの鍵盤を叩き今日の響きを確認する。
一介の地方の公立校で、音楽室もピアノも、さほどスペックが高くはない。
でも、狭いスタジオで息を詰めながら練習するより、よっぽど伸び伸び弾けるのが嬉しくて、自由登校の期間に入ってからも、一、二年生の授業が終わった頃合いを目掛けて、こうしてちょくちょく弾きに来ている。
腕から背中にかけて軽くストレッチをすると、僕は日課の基礎練習を始めた。
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