第4話 怒れない街の依頼人

 朝の空気は、いつも通り薄かった。


 キッチンのテーブルの上に、

 銀色のブリスターが二つ並んでいる。


 情動抑制薬グレイ。

 一粒で一日ぶん。


 ユイとレンは向かい合って座り、

 同じタイミングで錠剤を舌に乗せ、水で流し込んだ。


 バンドが、同時に小さく震える。


 《服用ログ:送信完了》

 《本日の基準値:E-Index 0.7〜1.3》


 「……うん」


 レンが、コップをテーブルに戻した。


 「今日も、ちゃんとグレイの味」


 「味なんてあった?」


 「ないから、ちゃんとしてるんだよ」


 他愛ないやりとり。

 けれど、その直後に表示が切り替わった。


 《情動タグ「Anger_pre」に関する通知》


 白地の画面に、無機質な文字が並ぶ。


 《閾値未満の怒り類似波形も、記録精度向上のため保存されます》

 《行動制限の対象ではありませんが、継続的な観測が推奨されます》


 昨夜、レンのログの隅で、

 こぼれ落ちそうな光の粒みたいに浮かんでいた、あの名前だ。


 「……何これ」


 レンが眉をひそめた。


 「アップデートじゃない?」


 ユイは、わざと軽い声で言う。


 「ほら、たまに来るでしょ。

  “みなさんの安全な静穏のために”ってやつ」


 「そうだけどさ」


 レンは通知をスクロールした。


 《注意:家族共有設定のある場合、当該タグは保護者の閲覧対象となります》


 「家族共有……か」


 ぽつりとつぶやいて、画面を閉じる。


 ユイは、自分の胸の奥がひやりとするのを感じた。


 レンのバンドに、初めて付いた Anger_pre。

 OSが、“未分類”だった揺れに名前を付け始めている。


 「行こっか」


 レンが椅子を引いた。


 「今日は訓練、午後までだから」


 「うん。気をつけて」


 いつもと変わらない言葉を交わして、

 レンは部屋を出ていった。


 扉が閉まる音がして、静かになる。


 ユイはしばらくテーブルに座ったまま、

 閉じられた通知の残像を見つめていた。


 誤差に、名前が付いた。

 それはもう、誤差ではない。


 そう思いかけて、首を振る。


 まだ早い。

 まだ、考えない。


 ユイは立ち上がり、仕事用のバッグを手に取った。


   *


 地下市場の階段を降りると、

 今日も空気の色が変わる。


 上で見た通知は、

 ここには届いていないかのようだった。


 「おう、来たか」


 帳場の男が、

 いつもの木の椅子に腰を下ろしていた。


 背もたれは相変わらず壊れたまま。

 ミラが座っていた頃から、ずっと直っていない。


 「今日の配達分、受け取りに来ました」


 ユイが言うと、男は頷いた。

 それから、少しだけ言いにくそうに眉をひそめる。


 「……その前にな」


 「はい?」


 「妙なのが一本、回ってきてる」


 男は引き出しから一枚の封筒を取り出した。


 少し黄ばんだ紙。

 角が擦り切れている。


 「宛先、見てみろ」


 封筒を受け取って、表を見る。


 宛先コード。

 見慣れた LOW の文字列のあとに、

 ユイの目が引っかかる部分があった。


 `LOW-0B-17/外縁区画`


 「……ゼロ・ビー?」


 思わず読み上げる。


 「ゼロ番地系だな」


 帳場の男が、肩をすくめる。


 「地図の上じゃ“未登録区画”。

  実際には、ギリギリ線の内側ってやつだ」


 封筒の備考欄に、手書きのメモがあった。


 《怒ることが許されないなら、

  せめてちゃんと悲しませてほしい》


 小さな文字。

 書き慣れていないペンの運び。


 ユイは、封筒を指先でなぞった。


 「カセットは?」


 「Sadness。高濃度。追悼用」


 男は棚から透明ケースを一本取り出した。


 薄い青。

 ラベルには印字された文字。


 `Sadness:高濃度/喪失・追悼用/要慎用`


 「Anger じゃないのは、分かってる」


 男は言った。


 「だから、表向きには問題ない。

  ただ、宛先が宛先だ。

  いつもの“市内巡回”ってわけにはいかねえ」


 「ゼロ番地の周りって……」


 ユイは、以前見た配達ログを思い出していた。


 宛先コードの欄だけが残り、

 詳細な位置情報や受取人のログは、

 黒く塗りつぶされていたページ。


 「あそこへ持ってったカセットの記録、

  全部黒塗りでしたよね」


 「ああ。

  いろんな“処理しきれないもん”の行き先だって、

  言うやつもいる」


 男は、封筒の端を指先で軽く叩いた。


 「怖けりゃ断ってもいい。

別のルート探す」


 ユイは、少しだけ息を吸い込んだ。


 封筒の文字が、視界の端で揺れる。


 ――怒ることが許されないなら、

  せめてちゃんと悲しませてほしい。


 「……行きます」


 ユイは言った。


 「これは、怒りじゃない。

  Sadness ですから」


 男はユイをじっと見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。


 「そうだな。

  ラベルの上では、そういうことになってる」


 彼は封筒とカセットをまとめて差し出した。


 「気をつけろよ。

  ゼロ番地の近くは、“計測不能”だからな」


 「計測不能?」


 「バンドの地図、見りゃ分かる」


 男は顎で階段の方を示した。


 「ログの線が、途中でぷつっと途切れてる場所があるだろ。

  あれだ」


   *


 地上に出ると、

 街は昼の凪に戻っていた。


 ユイはバンドの地図を開く。


 自分の現在位置から、

 ゼロ番地系のコードが示す方向へルートを引く。


 白い線がすっと伸び、

 都市地図の外縁近くでいきなり途切れていた。


 その先は、灰色のマスで塗りつぶされている。


 《このエリアは計測対象外です》

 《情動ログは一時的にローカル保存されます》


 画面の注釈が、

 さらっとそう告げる。


 「……本当に“計測不能”って書くんだ」


 小さくつぶやいて、地図を閉じた。


   *


 ゼロ番地に向かう道は、

 街のいつものルートとは少し違っていた。


 整然と整えられたビル群を抜け、

 やがて古い団地の列に入る。


 外壁の塗装はところどころ剥げ、

 補修跡がパッチワークのように残っている。

 窓には、規定外のカーテンがうっすら透けて見えた。


 通りの端に、小さなチェックポイントがある。


 白い簡易ブース。

 中には鎮静官ではなく、

 端末を抱えた警備員が一人座っていた。


 「通行目的は?」


 無表情な声。


 「配達です。ケアパック」


 ユイは、用意された言い訳通りに答える。


 封筒のバーコードを端末にかざすと、

 短い確認音が鳴った。


 「外縁区画、LOW-0B-17……」


 警備員は画面を眺め、

 何かを確認するように眉を動かした。


 「帰着予定時刻は?」


 「日没前には戻ります」


 「ログの一時停止区間に入ります。

  復帰時に必ず再同期を」


 形式的な言葉。

 彼自身、このルートの意味を深く考えてはいないようだった。


 「行っていいよ」


 バーが上がる。


 ユイは軽く会釈して、

 その先の道へと足を踏み出した。


   *


 街が、少しずつ「端っこ」の顔を見せ始める。


 舗装はところどころ割れ、

 補修されないまま雑草が顔を出している。


 シャッターを下ろしたままの店。

 看板だけが取り残された骨組み。

 壁の一部には、剥がしかけの古いポスターが、

 うっすらと色を残して張り付いている。


 ユイは、肩から下げたバッグの重さを確かめた。


 中には、一本の Sadness と、

 いつもの薄い配達リスト。


 ――処理しきれないものの行き先。


 帳場の男の言葉が、

 足音と一緒に頭の中で反芻される。


 やがて、前方にフェンスが見えてきた。


 高さ二メートルほどの金属フェンス。

 その向こうには、崩れかけた建物の影が重なっている。


 フェンスには、公式の看板が取り付けられていた。


 《情動災害記念エリア》

 《入域制限:許可者のみ》

 《慰霊プログラムはオンラインでご参加いただけます》


 文字は、教本で見たものと同じだった。


 感情災害 Eruption。

 都市全域に連鎖的なパニックと暴力と自傷が広がった、

 あの日のこと。


 「ここが、教科書の写真の場所か」


 ユイはフェンス越しに中を覗いた。


 荒れた地面。

 黒ずんだ壁。

 どこかの角度で焼け焦げた跡が見える。


 けれど、

 何かが「片づけられすぎている」ようにも見えた。


 跡形を残すにしては、

 整いすぎた瓦礫の配置。

 誰かの手が、何度も触れて形を整えたような静けさ。


 バンドが、手首で震える。


 《このエリアは計測対象外です》

 《ログ送信:保留中》


 フェンスの向こうは、

 OSにとっても盲点らしい。


 怒りのログが、どこかで切り離されて、

 ここに埋められているような気がした。


 ユイは視線を戻し、

 フェンス沿いの道をしばらく進んだ。


 宛先コードが示すのは、

 このエリアの少し手前にある、古いアパートだ。


   *


 LOW-0B-17。


 ドアのプレートには、

 規定通りのフォントで数字が印字されている。


 表札の欄は空白のままだった。


 ユイは一度深呼吸をしてから、ベルを押した。


 少しの間。

 やがて、ドアの向こうから足音が近づいてくる。


 チェーンの外れる音。

 鍵の回る音。


 扉が少しだけ開き、

 細い隙間から、女性の顔が覗いた。


 「……どちら様?」


 落ち着いた声。

 年齢は、三十代の後半くらいだろうか。


 「配達です」


 ユイは封筒を掲げた。


 「ケアパックの追加分。

  Sadness、高濃度。追悼用」


 女性の目が、封筒に下りる。

 ほんの一瞬だけ、その焦点が揺れた。


 「……そう」


 チェーンが外れ、扉が開く。


 「入って」


 部屋の中は、整頓されていた。


 床には余計なものがなく、

 テーブルの上にも、必要最低限の物しか置かれていない。


 規定の色味のソファ。

 規定の明るさの照明。


 ただ、一角だけが、

 少しだけ違っていた。


 小さな部屋の扉が半分開いていて、

 その中に、使われていないベッドが見える。


 子ども用のサイズ。

 枕元には、色の抜けかけたクッションが置かれていた。


 女性はユイから封筒とカセットを受け取ると、

 ソファの前に腰を下ろした。


 「あなたが、カセットの人?」


 「……そう呼ばれてるみたいですね」


 ユイも向かいの椅子に座る。


 「ご依頼の内容と一致しているか、確認してもらえますか」


 「ええ」


 女性はゆっくりと封筒を開いた。


 中には、短い診断書のコピーと、公式のケアプログラムの申請書。

 そして、その裏に、手書きのメモが一枚。


 ユイは、その文字を既に読んでいる。


 ――怒ることが許されないなら、

  せめてちゃんと悲しませてほしい。


 女性は、そこには目を落とさなかった。


 サイン済みの欄だけを確認し、

 ふう、と小さく息を吐く。


 「本当はね」


 沈黙のあとで、彼女は言った。


 「一番欲しかったのは、Sadness じゃなかったの」


 ユイは、表情を変えずに聞いていた。


 「……怒り、ですか」


 「そう」


 女性は、カセットの薄い青を見つめる。


 「でも、それは“違反”でしょう?

  そんなものを求めたら、あの人たちは、私の方を“治療”しに来る」


 笑い声にも、涙にもならない声だった。


 「だから、せめて。

  悲しいくらいは、自分で選んで感じておこうと思ったの」


 「悲しいくらいは……」


 ユイは繰り返す。


 「はい」


 女性は、隣の小さな部屋の方に目を向けた。


 「そこに、子どもが眠っていたの」


 言葉は淡々としている。

 でも、その一音一音が、空気の中で重く沈んだ。


 「“Red寄り”って言われてね。

  他人の痛みにすぐ反応する子だったの。

  誰かが泣きそうになると、その人より先に泣いちゃうのよ」


 ユイの指先が、わずかに動く。


 「バンドがすぐ揺れるから、

  情動ケアの強化プログラムに回されて。

  それで、“治療”のために施設に」


 「……更生施設ですか」


 「ええ。

  しばらくして戻ってきたときには、

  何も感じなくなっていた」


 女性は、両手を膝の上で組んだ。


 「痛い?って聞いても、首を傾げるだけ。

  嬉しい?って聞いても、笑い方を忘れたみたいな顔をして。

  それでも、“状態は安定しました”って言われたわ」


 ユイのバンドが、手首で震える。


 《周辺話題:情動ケア/更生施設》

 《内部E-Index:Sadness 3%》


 「ある日、連絡が来たの」


 女性は続けた。


```

「“再発の兆候が見られた”って。

```


  “情動災害防止の観点から、追加処置が必要です”って」


 彼女はそこで一度言葉を切り、

 何かを飲み込むように喉を動かした。


 「追加処置のあと、しばらくして……」


 「……亡くなったんですね」


 ユイが小さく言う。


 女性は頷いた。


 「“穏やかな最期でした”って。

  “痛みや恐怖のログは、前もって処理されているので”って。

  私、何て返事したと思う?」


 ユイは黙っていた。


 「『ありがとうございます』って言ったのよ」


 女性は、自分で自分に驚いたような顔をした。


 「他に、何を言っていいか分からなかったから」


 バンドが、ユイの手首で振動を増す。


 《内部E-Index:Sadness 4%/未分類成分+》


 「本当は、“ふざけないで”って言いたかった。

  “どうして私からも、あの子からも、

  怒る機会まで取り上げたのか”って」


 女性は静かに笑った。


 「でも、それを言った瞬間、

  私の方が“情動危険者”になるでしょう?」


 「……」


 「だから、黙って『ありがとうございます』って言った。

  それが、この街での“正しい反応”だから」


 彼女は、手の中のカセットを見つめた。


 「怒りたいのに怒れないまま、

  残ったのが、この変な空洞なの」


 ユイは、言葉を見つけられなかった。


 レンの背中。

 訓練センターの話。

 「怒る前に止められる」と言った声。


 全部が、目の前の女性の姿と重なる。


 「だから、あなたに頼んだの」


 女性は、カセットを指先で転がした。


 「怒ることまで禁じられているなら、

  せめて悲しむくらいは、私のものにしておきたくて」


   *


 「ここで、試してもいいですか」


 やがて、女性はそう言った。


 「あなたがいる前で」


 「……危険を感じたら、すぐ止めてください」


 ユイは頷いた。


 「高濃度なので、一度に使うのは、

  本当に一滴だけにしてください」


 女性はゆっくりとカセットの封を切り、

 先端のノズルを自分の舌の上に向けた。


 透明な液が、一滴だけ落ちる。


 舌に触れた瞬間、

 わずかな冷たさが走り、

 すぐに粘膜から吸い込まれていくようだった。


 「……このくらいで、十分よね」


 彼女はカセットの蓋を閉じ、

 まだ半分以上残っていることを確かめる。


 数秒。

 部屋の空気が、わずかに変わった。


 女性の肩が、少しだけ震える。


 ユイは、息を詰めた。


 「……変ね」


 女性が言った。


 「ちゃんと悲しい」


 彼女の目の縁に、

 ゆっくりと涙が滲んでいく。


 「胸の中に、冷たいものが沈んでくる感じがするの。

  あの子の名前を、やっと全部思い出せたみたいな……

  そんな感じ」


 涙が一筋、頬を伝った。


 ユイのバンドが、震える。


 《内部E-Index:Sadness 5%(総量は基準値内)》


 数値は、制度上はまだ“許される揺れ”の範囲に収まっている。


 「でもね」


 女性は、涙を拭おうともしなかった。


 「その周りを、

  熱いものがぐるぐる回ってる」


 彼女は自分の胸を軽く押さえた。


```

「“違うでしょう”って言ってる」

```


 喉元が、かすかに震える。


 「ちゃんと悲しいのに、

  その涙の形が、少しだけ怒ってる」


 ユイの喉も、同じように締め付けられた。


 バンドが、もう一度震える。


 《内部E-Index:Sadness 5%/Anger_pre 微量》


 小さなタグが、画面の端に浮かび上がる。


 ユイは、それを見ないふりをした。


 「ありがとう」


 女性は、かすれた声で言った。


 「これで、少しだけ、

  “何も感じなかったこと”にしなくて済む」


 「……」


 「ねえ」


 女性は顔を上げた。


 「あなたは、怒ってる?」


 ユイは、一瞬言葉を失う。


 「それとも、怒る権利まで、

  誰かに預けてる?」


 問いかけは、責めるでもなく、

 ただ、真っ直ぐだった。


 「私は……」


 ユイは、答えを探そうとして、

 どこにも見つけられないことに気づいた。


 義足の男。

 レン。

 目の前の女性。


 怒るべきだった誰かの代わりに、

 誰かが「正しい反応」を演じている。


 「……今は、まだ分かりません」


 ようやく出てきたのは、その言葉だった。


 女性は、少しだけ微笑んだ。


 「分からないって言えるだけ、

  まだいいのかもしれないわね」


 彼女は立ち上がり、玄関の方を向いた。


 「来てくれて、ありがとう」


 「こちらこそ」


 ユイも立ち上がる。


 「本当に、少しずつにしてください。

  一度に全部、感じきろうとしないで」


 「ええ。

  少しずつ、ちゃんと悲しむわ」


 扉の前で、ふたりは短く頭を下げ合った。


   *


 アパートを出ると、

 空は薄い雲に覆われていた。


 ユイはフェンスの方へ、

 少しだけ遠回りして歩いた。


 情動災害記念エリアの看板が、

 先ほどと同じ位置に立っている。


 フェンスの向こうは、相変わらず静かだ。


 ただ、風が変わっていた。


 さっきより、少しだけ冷たく、

 どこか金属の匂いが混じっている。


 ユイは、フェンスに近づきすぎないように気をつけながら、

 中をもう一度覗き込んだ。


 荒れた地面。

 崩れかけた壁。

 慰霊用に植えられたはずの木は、

 根元から折れている。


 バンドが震える。


 《このエリアは計測対象外です》

 《ログ送信:保留中》


 ここでは、誰が何を感じても、

 OSには届かない。


 怒りのログの終着点。

 あるいは、最初の爆心地。


 温度を抜き取られた怒りの残骸が、

 どこかの層に押し込められているような気がした。


 風が、フェンスをかすかに鳴らす。


 それは、笑い声にも、泣き声にも聞こえない、

 曖昧な音だった。


 「……行こう」


 自分に言い聞かせるように呟いて、

 ユイは背を向けた。


   *


 チェックポイントを通り、

 街の中へ戻る。


 バンドが再び震えた。


 《計測範囲に復帰しました》

 《ローカルログを同期しますか?》


 ユイは「はい」をタップする。


 数秒間の読み込みのあと、

 今日のログに新しい行が追加される。


 《外縁区画訪問/情動ケア配達》

 《Sadness 5%/Anger_pre 微量》


 関連タグの欄に、小さな文字が並んだ。


 《他者の喪失への同調》

 《不公正感/処理された怒りへの反応》


 ユイは、その画面をしばらく見つめていた。


 ――誤差。


 いつものようにそう言いかけて、

 言葉が喉の奥で止まる。


 誰かの涙の形をした怒りが、

 自分のログにも、同じ名前で刻まれている。


 画面を閉じる。


   *


 自宅のある階段を上がりきったところで、

 ユイは足を止めた。


 扉の前まで行って、

 ドアノブにかけた手を、一度だけ引っ込める。


 中には、

 まだ何も知らないレンがいる。


 怒る前に止められる揺れが、

 今日もまた、彼の胸のどこかで凍らされているかもしれない。


 ノックをしようとして、やめる。


 鍵を開け、いつものように扉を押し開けた。


 「ただいま」


 声は、

 いつもと同じ音量で出たはずだった。


 それなのに、自分の耳には、

 わずかに違う高さで響いた気がした。

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EMOTION CONTROL ACT ―怒りの宛先― 鳥のこころ @ggg004

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