骨が鳴る

志に異議アリ

ある親子の話




焚き火の匂いがしない夜だった。


焦げるものすら、もう何も残っていなかった。


母はかすれた声で、鍋をかき混ぜる。


中身はただの水。

鉄の味がする。


その水面を、子が覗き込む。


「お母さん……お腹、すいた」


母の指が一瞬、止まった。


けれどすぐにまた、木の棒で水を回す。


「もうすぐできる」


同じ言葉を三日言い続けていた。


子はその「もうすぐ」が、何なのかもうわからなかった。

 

母が火を絶やさない理由も。


母の瞳は焦点を失い、ただ炎の幻を見ていた。


飢えというのは、痛みではなく、

心が音を立てて削れていく音だと知ったのは、その夜だった。


子は母の背中に縋るように抱きつく。

骨が触れた。


「お母さん……」


母の肩がびくりと跳ね、

そのまま子の手を振り払った。


「やめて。熱いから」


声が震えていた。怒りではなく、怯えの震え。


母は、目の前の空鍋の底を指差して言った。


「見て。ほら、まだ煮えてないの」


そこには、何もなかった。


子はもう泣く気力もなく、

その場に膝をつき、母の足元を見た。


足首が細すぎて、皮が張り付いていた。


「ねえ、お母さん」


「……なに」


「ぼく、夢見たんだ」


「夢?」


「パンの匂いがして……お母さんが笑ってた」


母は何も答えなかった。

ただ、口の中で何かを噛みしめるように唇を動かしていた。

空気を噛む音が、静かに響いた。



焚き火のない夜。

母はそのまま鍋に向かって、スプーンを入れた。

ひとすくい、空気を掬って、口に運ぶ。

その動作を、丁寧に、まるで儀式のように繰り返した。


子は小さく笑った。

「お母さん……ぼくもそれ、食べていい?」


母は、やっとこちらを見た。

瞳の奥には、涙でも怒りでもない、


ただ

[何かを失った]

人間の色があった。




「……うん。半分こ」


スプーンを渡された子は、何も入っていない鍋の底を見つめ、


そして、そっと空気を掬って口に入れた。





ああ、温かい気がする。




それが、最後の錯覚だった。




――――――

翌朝、鍋の中には薄い氷が張り、

母の腕の中で、子は穏やかに眠っていた。

母の目は閉じられたまま、

唇の端には、微かな笑みがあった。


まるで、本当にパンを食べたあとのように。


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骨が鳴る 志に異議アリ @wktk0044

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