愛覚まし
寝目野秋彦
第1話
鈍色の分厚い雲が覆う空を眺めながら、僕は重い足取りで学校へ向かっていた。定期テストの結果は悪くなかったし、誰かに苛められているわけでもない。ただ、クラスに存在する二つの太陽が問題だった。
「北峰くん、おはよう!あんまり元気なさそうだけど」
「ぁあ……谷橋さん。別に普通だよ」
はっきりしない発音で挨拶を返す。堂々とすればいいのだけれど、鬱屈した心持ちが大きな文鎮のように最初の言葉をふさいでしまう。次の言葉を探すうちに、谷橋理穂は艶やかな黒髪を揺らしながら先へ行ってしまった。校門へ近づくにつれて彼女の周囲には同学年の友人が大勢集まり、やがて姿が見えなくなっていく。
その中でも一際目立つ、端正な少年が谷橋と親しげに話していた。演劇めいた仰々しい語りで周りを沸き上がらせており、僕はますます縮こまって校舎へと向かう。気に留める必要はないのに、彼は擦れ違おうとする僕を見つけて大きく手を振った。その半分ほどの高さで手を振り返しながら、僕は逃げるようにして冷たいガラス扉の先へ入った。
教室の一番奥にある自分の席へ座り、認め難い現実から逃避するため電脳を立ち上げる。流行りの立体動画が視聴覚野を激しく刺激するものの、段々と騒がしくなっていく周囲に呑み込まれてうまく集中できない。
「よう、北峰。一年の頃と比べると会話しなくなったよな」
「……テスト期間中だったし。桂田も話す時間なかったと思う」
「そりゃそうか……あ、理穂。放課後どうする?」
「んー、駅前のカラオケ行かない?今日はサービスデーだって」
「オーケー」
谷橋理穂は僕のすぐ前方へ、桂田健也はその左に着席した。一時限目の準備をしながら二人は会話を続け、たまにスキンシップも交えて仲良さげにしている。吐き気とも心痛ともつかない、あるいはその両方の不快な感覚を紛らわせようとゲーム画面を仮想ウィンドウに広げるが、時おり見える現実の像が何度も僕の頭を締めつけた。
太陽は数億キロも離れたところから見上げるものであって、決して近づく対象じゃない。にも関わらず、この二人は僕の眼前で輝きながら周囲を焦がし続けている。
チャイムが鳴ったので仕方なくウィンドウを閉じた。なるべく前を見ずにうつむいておこうと思ったのだが、不運なことに今日はグループワークばかりで、教室から逃げ出したくなるのを堪えながらギリギリの平静を保っていた。
正直なところ、桂田のことが嫌いなわけじゃない。僕にとっては数少ない本当の友人だし、去年の冬にうつ病を悪化させていた谷橋理穂を登校できる状態まで引っ張り上げたのも彼だ(僕も彼女を元気付けようと連絡していたのだが、いつもの話下手により上手くいかなかった)。僕は決して二人の仲を引き裂いたり台無しにしたいわけじゃない。席やクラスの配置が少しでも異なれば、こんな想いをしなくて済んだというのに。何か現状を変えてくれるものはないだろうか。
煉獄めいた時間が過ぎ、ようやく昼休みに入った。二人を含むクラスメイトのほとんどが購買や食堂へ向かっている。僕は教室で独り小さな弁当を食べながら、正午に更新されたニュース記事を読んでいる。内容はつまらないゴシップや陰惨な事件に関するものばかりで、僕の気分をさらに憂鬱へ追い込んだ。ふと、記事の隣に配置されたシンプルな広告に目が移った。
『怒り、悲しみ、妬み__そんな煩わしい感情を抑えてくれる心理緩和ナノドクターが登場!』
胡散臭いにもほどがある内容だが、精神が磨り減っていた僕はつい詳細ページを開いてしまった。
淡いオレンジやグリーンの細長い容器が6つ表示された。現代社会ではありふれている、たくさんのナノドクターを含ませたジェルを鼻から接種する点鼻薬だ。毛細血管を通して中枢神経系へ素早く到達させ、粘菌のように分散型知性を持つナノドクターたちが首尾良く効果を発揮してくれる。
『心を病んでしまうほど誰かを愛してしまう方には、こちらの“愛覚まし-9474”がオススメ!』
『吸引した12時間後には効果が現れ、愛に溺れたあなたを救い上げるでしょう』
これがあれば、僕が抱える谷橋理穂への醜い執着は消えるかもしれない。フルプライスのゲーム2本分ほどの金額だが、今の貯金なら充分足りる。休日中に届くよう設定し、僕は意を決して購入ボタンを押した。
なんとか学校での生活を耐え抜き、待ち望んでいた週末が訪れた。予約時間ときっかり同時刻に配達ドローンがやって来て、手さげバッグほどの大きさの段ボール箱が置かれた。中には広告通りのボトルが梱包されていたので、僕は少し安心した。説明書に書かれた順番に従って蓋を開け、ひんやりとしたジェルが鼻腔へと入っていく。
もちろんすぐに効くものではないため勘違いだと思うが、なんだか身体から大きなおもりが抜け出ていくような感じがした。
月曜日の朝、久しぶりに晴れやかな気持ちで学校へ向かった。懸念があるとすれば隣の家に住んでいる夫婦が喧嘩していたことだろうか。ともかく、愛覚ましの効果が確かなら、僕はこれから学校で上手くやっていけるはずだ。
「おはよう、谷橋さん」
「あっ、おはよ。なんか顔色良くなった?」
「昨日は深く眠れたから。じゃあ、また教室で」
自分でも驚くほど自然に会話できた。胸が苦しくなることもなく、すっきりとした気分が続いている。入口のガラス扉はいつもより暖かな色合いのように思えた。
「なあ北峰、古典の宿題って明日までだったか?」
「いや、今日のはずだけど……もう時間ないよ。早く僕の写して」
「すまん、助かる!」
はにかんだ桂田の顔も正面から見ることができている。一時限目が始まった後も妬みやそれに類する感情は沸き上がらず、教室は昨日より広々として見えた。昼休みになり、僕は空っぽになった淡いオレンジ色の容器を一心に眺めていた。このまま効果が続けば、きっと心の底から学生生活を楽しめるだろう。
「離婚?なんでまた急に……ずっと仲は良かったんでしょう?」
「どうも旦那さんがいきなり愛想をつかしたみたいでねえ……その理由が分からないのが一番変な話なんだけど」
家に帰る途中、近所に住む主婦たちの噂話が聞こえてきた。夜になっても隣家の夫婦から届く怒号は止まずにいる。今までこんなことはなかったのに、一体どうしたのだろう。
翌日の早朝、険悪な空気から逃げるように学校へ足早に向かった。通り過ぎる途中でパトカーが何台か走り去ったが、その行き先がどこかは考えないようにした。教室の机に突っ伏して眠り、ホームルームが始まるのを待っていたが、しばらくして何人かの女子生徒が桂田に暴言を浴びせている声が聞こえた。
「だからさあ、谷橋が勝手にくっついてきたんだよ!俺はただ面倒くさいからあしらっただけだって!」
ひどく苛立った声で桂田が反論している。状況が理解できずにあたりを見回すと、大声を出している女子生徒たちはみんな目の周りを真っ赤に張らしていた。嫌な予感が頭に浮かぶ中、担任だけでなく教頭先生と警察官が教室へ入ってきた。異様な静寂が辺りを包み、教頭先生が重々しく口を開いた。
「……皆さんに悲しいお知らせがあります。本日未明、本校生徒の谷橋理穂さんが自宅にて遺体で発見されました。死因に関しては現在も警察の捜査が続けられていますが、何か原因に心当たりのある方はお知らせください」
また教室が騒がしくなった。みんなが声を荒げる中、僕の前の席だけは完全な沈黙を保っている。冷や汗がだらだらと垂れる不快さを全身で感じながら、電脳を起動して朝のニュース記事を読み漁る。まだ報道が規制されているからか、この件に関する内容は見受けられない。ふとメール一覧を見ると、さっき届いたばかりの文章が目に飛び込んできた。
『【リコールのお知らせ】 先日ご購入いただいた“愛覚まし-9474”ですが、未成年の男性が使用した際、自己複製速度が本来想定される数値を大きく上回ることが判明しました。同性の他者へ感染する可能性もありますので、お手数をおかけしますが商品の回収にご協力ください』
芯を貫くような悪寒が、僕の身体を満たした。
愛覚まし 寝目野秋彦 @Akutamaru1004
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます