AFTER DEAD「最後の帰路」

@tr0724

第1話 終わりのための始まり

部屋の隅に、ロープが吊ってある。

 黄ばんだ天井の梁に、俺が結びつけたものだ。

 この季節になると、湿気で縄がじっとりして、触れるたびに汗ばんだ掌と同じ匂いがする。

 何度も、あれを首にかけるところまで想像した。椅子に足をかけ、深呼吸をして、目を閉じる。

 けれど、最後の一歩は、いつも踏み出せなかった。


 恐怖ではない。

 死を恐れてなどいない。

 むしろ、長引くこの暑さに比べれば、終わりを迎える方がずっと楽に思える。

 それでも、体が拒む。理由を問われても答えられない。


 今日も俺は、そのロープを横目に見ながら、無感情に準備を始める。

 缶詰は二つ。水筒には、生ぬるい水が半分。

 錆の浮いたナイフと、懐中電灯。

 それらを、汗の染みついたリュックに押し込む。

 まるで、壊れた機械が決められた動作を繰り返しているみたいだ。


 ロープは今日も使わない。

 そう決めただけで、生き延びる理由になった。


 扉を開けると、まとわりつく夏の空気が肌を覆う。

 蝉の声が耳をつんざき、焼けついたアスファルトが陽炎を揺らしていた。

 人影はなく、残されたゴミ袋だけが風に転がる。

 死んだ街の中で、俺だけがまだ歩いている。

 そのことが、生きているという実感よりも、ずっと重たくのしかかってくる。



 いつものルートを歩く。

 人影のない商店街を抜け、半壊したコンビニへ。

 この道を辿るのは、もう何十回目か。


 足音を殺し、耳を澄ませる。

 一歩ごとに、砕けたガラスの破片が靴底で小さく鳴る。

 蝉の声は容赦なく耳を叩き、頭の奥をじりじりと焼く。

 背中を伝う汗は、暑さのせいだけじゃない。


 「やつら」に見つかれば、終わりだ。


 俺は、手にした懐中電灯を絞るように握った。

 コンビニの中は暗く、棚は倒れ、商品は荒らされ尽くしている。

 缶詰の山だった棚は空っぽで、落ちているのは埃をかぶったラベルだけ。

 深く息を吸い込み、腐敗の臭いが鼻を刺すのを覚悟した。


 ……こない。

 臭いが、しない。

 耳を澄ませても、あのうめき声が聞こえない。

 やつらの気配が、どこにもない。


 蝉の声だけが、やけに大きく響いている。

 汗がこめかみをつたい、顎を濡らす。

 妙だ。おかしい。

 こんなに静かなはずがない。

 いつもなら、息を殺していても、どこかであの気配を感じるのに。

 不意に、背筋が冷たくなった。

 暑さで焼けるはずの体が、急に軽い震えを覚える。


 俺はリュックをそっと床に置き、店の外を振り返った。

 食料の探索どころではない。

 確かめなければならない。

 この沈黙の理由を。


 店の外に出る。

 視線を左右に走らせ、耳を澄ませながら一歩ずつ。

 真夏の日差しがアスファルトを焼き、熱気が靴底から立ちのぼる。

 汗が背中を伝い、リュックの紐をじっとりと濡らしていく。


 昔の俺は、こんなに慎重じゃなかった。

 むしろ逆だった。

 塀をよじ登って隣の家の庭に忍び込み、悪ふざけのつもりでスイカを盗んだこともある。

 叱られるより先に笑われる方が好きで、危ない橋を渡ることに抵抗なんてなかった。


 でも、父の仕事の都合で、引っ越しを繰り返すことになった。

 中学に上がってすぐ、知らない土地でまた転校した。

 そこで待っていたのは、輪に入れない俺を標的にする、軽いいじめだった。

 教科書を隠され、机に落書きをされる。殴られるほどではない。けれど、毎日が小さな傷で埋め尽くされていった。


 その頃からだ。

 俺は発言する前に相手の顔色を窺い、行動する前に先を読むようになった。

 臆病と呼ばれてもかまわない。余計な傷を負わずに済むなら、その方がいい。

 そして今、その慎重さが、やつらが徘徊するこの世界で俺を生かしている。


 だから今日も同じだ。

 沈黙した街路に一歩を刻むごとに、耳の奥が張りつめる。

 その瞬間――


 ――ガサリ。


 心臓が跳ね上がる。

 全身の神経が一斉に目を覚まし、手は勝手にナイフの柄を握っていた。

 やつらだ、と反射的に思った。

 ここまで静かだったのは、罠だったのか。


 息を殺し、音のした方へ視線を向ける。

 汗が顎を伝い、落ちる。

 体が固まる。


 ――出てきたのは、一匹の猫だった。


 その瞬間、胸を締めつけていた縄がほどけるように力が抜けた。

 笑いとも溜息ともつかない息が漏れる。

 たかが猫一匹。それでも、ジェットコースターを駆け下りるほどの安堵を与えてくれる。

 汗が熱によるものか、恐怖の余韻か、もうわからなかった。


 猫の尻尾がゴミ袋の陰に消えると、わずかな安堵も消えていった。

 気を緩めれば、命を落とす。

 それを知っているから、呼吸を整え、また耳を澄ませる。

 この街では、油断が死に直結する。


 慎重に歩を進め、建物の影から周囲を覗き込む。

 蝉の声は相変わらずやかましい。

 けれど、その音にかき消されてでも気づいた。


 やつらが、いた。


 数体。道端に転がるように倒れている。

 腐敗はひどく、皮膚は半ば崩れ落ちて骨が覗いていた。

 だが、不気味なのは姿ではない。

 動かないことだ。

 いつもなら、わずかな気配で頭をもたげ、腐った顎を開く。

 だが、今日のやつらは、ただ死体のように沈黙している。


 心臓が、妙にうるさい。

 どうする。近づくか。それとも引き返すか。


 石を投げてみるか。

 けれど、もし反応があれば、無駄に危険を呼び込むだけだ。


 沈黙が流れる。

 蝉の声が遠のいたように感じる。

 額を伝う汗が顎から滴り落ち、アスファルトに黒い染みを作った。

 動けない。いや、動かない。

 ただ、頭の中で何度も「やめろ」と「確かめろ」がぶつかり合う。


 ――結局、俺は石を拾った。

 いつもと違うやつらを、ただ見過ごすことはできなかった。


 手のひらで転がし、指に重みを確かめる。

 喉が渇いて、唾を飲み込む音がやけに大きい。


 狙いを定め、腕を振りかぶる。


 同時に、もう片方の手はナイフを握った。

 何かあったときに備え、体は自然に戦闘態勢を取っていた。

 蝉の声が遠のく。

 世界の音が、石の落ちる音だけを待っている。


 石は放物線を描いて飛んでいった。

 だが、狙った場所までは届かない。

 手前のアスファルトに、乾いた音を立てて落ちた。


 ――やばい。


 心臓が喉元までせり上がる。

 「カツン」という甲高い音が、蝉の声を割り、街の静寂を切り裂く。

 まるでこれから始まる恐怖の幕開けを告げる鐘の音のように。


 だが、やつらは――動かない。


 その沈黙は、かえって不気味だった。

 いつもなら、この音に釣られて頭をもたげ、腐った顎を開くはずだ。

 だが、倒れたまま、微動だにしない。


 動かないやつら。

 動けない俺。


 一秒が、異様に長い。

 汗が首筋をつたうたびに、心臓の鼓動が爆発するように響く。

 息を吸う音さえも、大きすぎる気がした。

 このまま時間が止まってしまえばいい――

 そんな錯覚さえ、頭をよぎる。


 やつらは、まだ動かない。


 不気味なまでの静寂。

 倒れたままの姿勢は変わらず、風で揺れる衣服のはためきすらない。

 じっとこちらを待ち伏せているのか、それとも――。




 この辺りには、他の生存者はいない。

 もう何ヶ月も、人の気配を感じたことがない。

 だから、誰かがこいつらを倒したという可能性は低い。


 ならば、自然に死んだのか?

 だが、やつらに寿命はないとされている。

 腐っても、骨がむき出しになっても、内臓が溶け落ちても、なお動き続けてきた。

 何度も見てきた。何度も逃げてきた。

 やつらは死なない。死なないはずだった。


 ……けれど今、目の前にある光景は、俺の知っているやつらと違っている。

 だから確かめるしかない。


 足が重い。

 喉の奥に乾いた息が詰まる。

 それでも一歩、慎重に近づく。

 ナイフを握る手に、力が入る。

 できればこのまま動かないでいてくれと、心のどこかで願いながら。


 かなりの距離まで近づいた。

 汗が顎から滴り落ちるたびに、足音が大きく響いている気がした。

 やつらは、相変わらず微動だにしない。

 腐りきった皮膚は黒ずみ、骨が覗き、夏の陽射しに晒されているのに、動く気配はまるでない。


 俺はそっとナイフを突き出し、足元の一体をつついた。

 乾いた音を立てて、骨ばった腕が地面を擦る。

 それでも――動かない。


 脳裏でいくつもの可能性が浮かんでは消える。

 だが、どの答えも決定打にならない。

 結局、沈黙の中で思考が堂々巡りするばかりだ。


 そのとき、ふっと体の力が抜けた。

 安堵が油断を呼んだのだろう。

 焼けつく夏の熱気に頭がぼんやりし、視界がかすむ。

 たちくらみ。膝が折れそうになり、慌てて近くの壁に手をついた。


 息を整えようと、遠くに視線を投げた。


 その瞬間――


 目に飛び込んできたものに、思わず息が止まった。


 視界の先に、開けた場所があった。

 かすむ陽炎の向こう、アスファルトの広場のような場所に、黒い塊が散らばっている。

 目を凝らす。

 それは――やつらだった。


 数え切れないほどの数。

 地面に折り重なるように、無惨な姿で横たわっている。

 どれも動かない。

 腐敗しきった腕が絡み合い、空洞になった眼窩が空を見上げている。

 蝉の声さえ遠ざかるほどの光景に、背筋が冷たくなる。


 今まで目の前の死体に気を取られていたせいで、こんなものに気づかなかった。

 もしあのまま気を緩めていたら、群れの真ん中まで足を踏み入れていたかもしれない。

 息が詰まる。



 理解できない。

 ただ一つ確かなのは――何かが起きている、ということだった。


 俺は再び歩き出した。

 周辺を確かめるために、視線を左右に走らせながら慎重に。

 路地を覗く。駐車場を横切る。ビルの影に目を凝らす。


 ――やつらはいる。だが、どれも倒れていて、やはり動かない。


 その異様な光景に、重たかった足取りが次第に変わっていった。

 最初は慎重に一歩ずつだったのが、気づけば早足になっている。

 軽く、そして速く。

 胸がざわつく。

 これは――もしや。


 驚きと、抑えきれない小さな歓喜が入り混じり、呼吸が荒くなる。

 確証はまだない。油断すれば命を落とす世界だ。

 それでも、この光景は俺の心を否応なく揺さぶった。


 やがて足を止める。

 腰を下ろし、荒くなった呼吸を整えた。

 冷静にならなければ。

 ただでさえ暑さで頭が霞んでいる。

 喜びに身を任せれば、次の一手を誤る。


汗に濡れた背を壁に預けながら、俺は深く息を吐いた。

 頭を冷やさなければならない。

 ここで、何が起きているのかを考えるために。


 この場で答えを出そうとした。

 なぜ、やつらが倒れているのか。

 なぜ一斉に動かなくなったのか。

 だが、焦って結論を出せば、それこそ命取りになる。

 俺は考えるのをやめた。

 安全な住処に戻り、落ち着いてから整理するべきだ。




 足を引き返しながら、目についた缶詰を二つと、埃をかぶったペットボトルを拾う。

 腐っていないことを祈りながら、リュックに詰め込んだ。

 余計な音を立てないようにしながら、慎重に。

 今は情報よりも、確実な食料が命をつなぐ。


 日差しが傾き始めたころ、ようやく住処へたどり着いた。

 錆びた扉を開けると、真っ暗な部屋が出迎える。

 わずかに開いた窓から差し込む光が、埃の舞いを照らしている。

 その淡い光の中で、部屋の広さがかえって寂しさを際立たせていた。


 ここには俺しかいない。

 静かすぎて、自分の呼吸がやけに大きく響く。


 いつもの椅子に向かう。

 その途中で、天井から垂れたロープの横を通り過ぎた。

 視線を向けずとも、そこにあることは分かっている。

 いつでも俺を待っている、逃げ道のような存在。


 椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預ける。

 無言で目を閉じ、大きく息を吸い込む。

 深呼吸。

 それだけが、この孤独をほんの少しだけ和らげてくれる。


 椅子に沈み込み、目を閉じたまま考えを巡らせる。

 今日見た光景の理由を――。


 いくつか仮説を立ててみたが、答えは出ない。

 考えれば考えるほど、堂々巡りだ。


 仮にこの恐怖が本当に終わったとして――

 俺に未来があるのか。

 やつらから逃げ延びること、それが唯一の目標だった。

 その恐怖から解放されるために、俺は何度も自殺を考えてきた。

 恐怖のない世界に生き残ったところで、俺の今後に意味などあるのか。

 空っぽの胸の奥に、答えはない。


 もし奴らが全滅したという仮説が正しかったとして――ここからどうしようか。

 そんな問いが浮かんでも、真剣に答えようとする気はなかった。

 ぼんやりと、煙のような思考が漂うだけ。

 天井から垂れたロープを横目に見ながら、俺はただ、大きく息を吐いた。


 この感覚――どこかで経験したことがある。

 やらなきゃいけないことはわかっているのに、体が動かない。

 考えれば考えるほど、頭が重くなり、やる気が削がれていく。


 深く腰を下ろしていると、どっと疲れが押し寄せた。

 体の奥に重しを詰め込まれたように、動く気力が奪われていく。

 無理に思考を続けることもない。


 「……今日はもう、寝よう」

 声にはならなかった。頭の中でそう呟いた。


 今日見たことは、ただの夢かもしれない。

 明日になれば、いつものようにやつらが這い出し、俺はまた逃げ惑うだけかもしれない。

 そんな考えを抱きながら、俺は目を閉じた。


 夢を見た。


 まだ、この世界に異変が起きる前のことだ。

 俺はスーツに身を包み、汗をかきながら街を駆けていた。

 営業職だったあの頃、毎朝の電車と取引先の顔色を気にする日々。

 眠気と疲労に苛まれながらも、「次の契約を取らなければ」と自分を奮い立たせていた。

 うまくいかないことの方が多かった。

 それでも、まだ生きている実感があった。


 「やばい……遅刻だ……!」

 夢の中の俺は、時計を見て青ざめ、鞄を手に取った。


 ――はっと目を開ける。

 心臓が早鐘を打ち、額には汗が滲んでいた。

 反射的に部屋を見回す。

 出勤の時間を過ぎているのでは、と一瞬本気で思った。


 だが、そこにあるのは見慣れた光景。


 薄暗い部屋。

 埃をかぶった棚。

 窓から差し込む細い光の帯。

 天井の梁から垂れるロープ。


 俺は小さく息を吐いた。

 呆れのような、悲しみのような感情が胸を満たす。

 当たり前だ。もう出勤する会社も、取引先も、この世界には存在しない。


 目を開けたまま、天井を見つめる。

 無気力な感情が、胸の奥でどろりと広がっていた。

 この先どうするか――考えなければならないのに、頭は重く、思考は鈍い。


 それでも、昨日の出来事がただの夢だったのか確かめる必要があった。

 重たい体を引きずり起こし、住処を出る。


 蝉の声に包まれながら、昨日の場所へ向かう。


 ――いた。

 やつらは、やはり倒れたままだった。

 夢ではなかった。


 その光景を前に、胸の奥で何かが弾けた。

 やつらに奪われた人生を、否応なく思い出す。

 家族。友人。仕事。未来。

 全部、こいつらが奪った。

 俺をこの地獄に押し込めた。


 怒りがこみ上げ、気づけば足が動いていた。

 倒れているやつらの腹を踏みつける。

 乾いた骨が砕ける音が響く。

 頭を、腕を、胸を。

 何度も、何度も。

 汗が飛び散り、呼吸が荒くなる。

 胸の奥の黒い塊を吐き出すように、踏みつけ続けた。


 やがて膝が笑い、息が切れた。

 立ち止まる。

 冷静さが戻り、両足の下の腐肉を見下ろす。

 動かないやつら。

 荒い呼吸。

 俺はその場に立ち尽くした。


 本来なら、ここで泣くべきなのかもしれない。

 やつらに奪われたものを思えば、地面に膝をつき、嗚咽に身を任せてもおかしくない。

 けれど俺は――泣かなかった。


 まるで第三者になったように、自分を遠くから眺めていた。

 やつらを踏み荒らした直後に、虚ろな顔で立ち尽くす自分。

 それは感情を失った人形のようで、ぞっとするほど滑稽に思えた。


 だが、滑稽と感じる気力すら続かない。

 疲労と虚無が、心の動きを押し潰していた。


 辺りを見回す。

 やつらの群れが、ただ倒れている。

 その静寂の中で、俺はひとりきりだった。

 彼らに怯える必要がなくなった代わりに、孤独だけが重くのしかかる。

 やつらすらいなくなった世界で、俺は何に向かって生きればいいのか。


 恐怖と不安――それだけが、この数年間、俺を生かしてきた。

 悲しみを感じているのに、涙は出ない。

 孤独を痛感しているのに、声も震えない。

 表情も行動も、すべてが空っぽだ。


 立ち尽くしたまま、俺はただ、自分の影を見下ろしていた。


 どうするべきか、頭の中でいろいろと考えてみた。

 この先、どこへ向かえばいいのか。

 やつらが動かない今、探索範囲を広げるべきか。

 生存者を探すべきか。それとも、安全な場所を拠点にして暮らすか。

 けれど、どの選択肢にも意味を感じなかった。


 誰もいない世界で何かを築いてどうする。

 食料を集めて、あと何年生き延びるつもりだ。

 そもそも、生き延びて何になる。


 そして、自然と一つの答えが浮かんだ。


 ――いっそ、死んでしまおうか。


 不思議と、その考えに暗さはなかった。

 むしろ、どこか軽やかだった。

 笑いそうになった。

 自分の人生がここまで追い詰められ、世界が終わって、それでもまだ「死に場所」について考えているなんて。

 滑稽だ。本当に。


 ただ――ここでは死なない。


 あの埃臭いロープにぶら下がって終わるのは、どうしても違う気がした。

 こんな誰もいない、死体と埃と蝉の音しかない場所で、ひっそりと終わるのは、どこか納得できなかった。



 だったら。

 ……家に帰ろう。


 そこにはもう誰もいないと分かっている。

 けれど、せめて最後は、自分が「自分だった場所」で。

 子供の頃の思い出が染みついたあの家で、すべてを終えるなら――。


 ようやく、一つの方向が見えた気がした。


 ここで、この話の結末は決まった。

 俺は、家で最後を迎える。

 もう揺るがない。


 死に向かう旅路だというのに、不思議と気持ちは前向きだった。

 いや、正確には――無理やり奮い立たせているだけかもしれない。

 けれど、それでいい。

 終わりが見えたことで、これまでの空虚な日々よりもずっと楽になった。

 恐怖から逃げるために生き延び、ただ延命を繰り返していた俺が、ようやく「目標」を手に入れたのだ。


 最後の居場所へ帰る。

 それが俺の旅だ。

 そう思うと、胸の奥にわずかな熱が灯ったように感じた。


 満足した俺は、その場でただ、ボーっと座り込んだ。

 蝉の声が、遠くでざわめいている。

 時間だけがゆっくりと流れていく。

 まるで次の一歩を踏み出すまでの猶予を与えられているかのように。

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