洋梨の味に関する一考
猫煮
洋梨の味に関する一考
洋梨の甘みは淡い。先日、なんの気なしに購入した洋梨を口にして、ふと思った。
この洋梨の品種はル・レクチェなるものであったが、調べてみると洋梨の中でも甘い部類の品種であるらしい。旬の時期も十二月の初旬のあたりというから、ちょうど旬のものが並んでいたのであろう。枯れた果柄の付け根を触ってみれば、不安になるほどの柔らかさであったように思うから、熟していないということもまずあるまい。ところが、いざ口にしてみれば、上に言ったような「淡い」との感想が真っ先に思い浮かんだのであった。
そもそもの話、私にとっての「梨」と言えば和梨のことである。多くは九月のあたりまでが旬の和梨。その実は瑞々しく、剥いた欠片を喰めば、水気が甘みを舌の上に行き渡らせると同時に、鼻腔を通じて僅かに酸味の混じった木陰の涼やかさを鼻先へと届けてくれる。舌先に甘みを影のごとく残す洋梨と比べ、ある種の清々しさを感じる和梨の甘みは、その潔さにこそ淡いとの例えが似合いそうなものであろう。にもかかわらず、私の感覚においては和梨の甘みが鮮明に映り、一方の洋梨の甘みはどこか淡く感じるのである。
私が何ゆえこのような感想を持つに至ったのかとの問いに、「幼い頃から和梨に親しんでいるための、洋梨を楽しむ素養の低さゆえである」と言ってしまうのは全くもっともらしく、また小気味よいが、翻って味気ない。では他に理由でも見つかるだろうかと考えてみれば、思い当たる節の二三ある。その中でも最も説得力のある事由と言えば、やはり梨の香りにまつわる記憶が当たるであろうか。私の幼い頃の話であるから、元号も今とは異なった時分のことである。
初等学校にも上がらない頃、父親が洋梨を持ち帰ってきた。当時、私も洋梨という果実があることは知っていたし、図版でどのような形の実であるかも知っていたのではあるが、実物を見たのはその時が初めてである。おぼろげな記憶によれば、デブの瓢箪が顔をすましたような図版の姿とは異なり、不格好にねじれて栗きんとんのなり損ないのような形をしていたように思う。にもかかわらず私の興味を引いたのは、その香りのやけっぱちな芳醇さであった。
「お父さん、これはなんという果物なのですか」
もちろんこのようなこまっしゃくれた物言いはしておらず、実際には「これなあに」ぐらいに言ったような気がするが、折角なのだからいくらかカッコつけることはお許し願いたい。ともあれ、図版でしか知らなかった洋梨と眼の前のへちゃむくれが同種と判ぜなかった私が尋ねると、父は確か笑顔で応えて曰く。
「これは洋梨というものだ」
「そんな馬鹿な。洋梨とはもっとこう、太った兵隊さんのような、愛嬌のある形と聞いています。しかし、この果実はどうもカリンの出来損ないのようですよ」
「うむ、たしかに同じナシ属の樹であるから、その実の形も似よう。しかしその食味は明らかに異なる」
当時住んでいた家の庭にあったカリン(花梨)の実を思い出して私が問えば、父は知った顔で頷いた。後から知ったことだが、洋梨はバラ科ナシ属であり、花梨はバラ科カリン属である。
「なるほど。言われてみれば、こう、匂いを嗅ぐだけでたまらぬ心持ちになりますね。香りに違わず味も雅なるのでしょうか」
そうとは知らずにすっかりと信じ込んだ私は、純朴な心で父に尋ねた。このセリフの書きようでは伝わり難いだろうが、当時の私は本当に純真だった。その言葉を聞いた父はさっと顔色を変えて顰め面(と記憶している)になると、一段声を低くして言う。
「いかんぞ、洋梨に含まれる成分は子供には毒であるから、お前が口にすることはまかりならぬ」
「そんな、一片だけでもですか」
「駄目だ、駄目なものは駄目なのだ」
そう言われてしまっては、素直な子供たるもの引き下がる他はない。これが民話の世界ならば、私もつまみ食いをして平らげた挙げ句、父の言葉を逆手に泣き真似でもしていたところであろう。しかし、脚色によって芝居じみた物言いになっているとは言え、現実とあってはそうもいかない。結局は香りに心惹かれつつも納得して、食卓の花模様が付けられた皿に乗る洋梨が、両親の胃に消えていくのを恨めしげに見送るしかなかったのである。
これだけならば幼い頃のほろ苦くもバカバカしい記憶の一つというだけなのだが、問題は両親ともに洋梨の味をいたく気に入ったようで、折に触れては洋梨を買って帰ってくるようになったことであった。
週に一度と言わずに夕餉(もしくは朝餉)の卓に洋梨が供されるようになるのだが、この洋梨というのは先に言った通りに得も言われぬ香りを撒き散らすわけである。食卓については、あるいは食器の出し入れを手伝っては、前から横から後ろからと酩酊するような香りが漂うとあり、辛抱たまらぬと思えばつい目が向いてしまう。しかし、父親に「これは毒」と言い含められているので、手を伸ばすにも伸ばせない。蛇の生殺しもかくやという日々は一月半程も続いた。二月とはなかったと思うが、一日千秋の故事が言わんとするように、なにか乞い焦がれる間ともなればとりわけ長く感ずるものである。ましてや幼い身であったから、その時の刻みの須臾も千夜がごとし。とはいささか大げさだが、とにかく長きにわたってかような有り様となったのであった。
転機となったのはある日の夕の食卓である。洋梨に手を付けない私を見た母親が、私に尋ねた。
「吾子よ、何ゆえに洋梨に手を付けぬのですか」
誓って言うが、私の母はこのような雅じみた言葉遣いをする人間ではない。さておき、母に問われた私は驚いて尋ね返す。
「お母さん、私も食べたいのはやまやまなのです。しかし、洋梨というのは子供に毒ではないのですか?」
「おやまあ。誰が左様に申したのですか。毒などと、おかしな事です」
母はそう言って笑うと、「ねえ?」と、笑いながら父に同意を求めた。これで父が気まずげにしてでもいれば、怒りのやり場もあったであろう。しかし、父はなんのてらいもなく「うむ」と言って頷くのである。とぼけているのか忘れているのかはともかく、その瑣末事といった様子に呆気にとられた私は、親の温かい目(記憶の中では生ぬるい目であったが、おそらくはこちらが事実であろう)に見守られながら、初めて洋梨を口にしたのであった。
初めて食べた洋梨の味は今でも覚えている。実の舌触りは紙やすりのごとくザラザラとし、滲んだ果汁は油もかくやのしつこさで甘みを執拗なまでに舌へと残す。端から香れば心地よい香りも口の中に含めばあまりに強く、呑むに呑めずに舌で転がせばどこか渋みが舌を痺れさせる。そうして渋面をした私を見て、両親はまた笑い合ったのであった。
洋梨の味をこうも悪しざまに言ったのは心持ちによるところが大きく思えるが、事実として年の暮れごろの話でもある。
「そろそろ洋梨の旬も終わりと見える」
父が私を見て笑いながら言ったこともまた、洋梨の味をこのように記憶する理由の一つではあったのであろう。
それからしばらく、食わず嫌いと表現するのもおかしな話ではあるが、ひととせの後に食卓へと並んだとても、洋梨に手を伸ばそうという気は起きず、私は洋梨の時期になると和梨を恋しがるようになっていた。薔薇は遠くで楽しむものとは心得たものだが、私にとっての洋梨もまた、香りを楽しむものであったのだ。
それから幾年か過ぎて、また別のささやかな一悶着があり洋梨に対してさしたるわだかまりもなくなったのではあるが、その話は関係がないので言わずにおこう。
結局のところ、洋梨と言えば香りと刷り込まれたからこそ、和梨に比べてしまえば、香りに比しての味がどうも淡く感じるということなのだろう。しかし、こうして記憶を辿ればふと思い出すこともある。この悶着の後、その冬に洋梨が卓に出ることはなかった。単純には旬が過ぎたという話なのであろうが、そこに父の気まずさ、あるいは気恥ずかしさが混じっていたのではなかろうか。この願望の混じった推測は、香りよりも見た目の記憶がことさら早く薄れるという経験則によって正当化され、私の心を時たま心地よくくすぐるようにも感じた。
こうして文字にしてまとめてみると、香りと味の比率というのみにとどまらず、洋梨とは「淡く甘い」と評することがやはり似合うように私には思われる。しかし近頃見た父の姿を思い返せば、洋梨を持ち帰ってきた頃と比べてなんと小さな背だろうか。このようなことを考えてみれば、洋梨の香りがより一層濃く匂って思え、転じて味の淡さが増して感じるようでならない。
洋梨の味に関する一考 猫煮 @neko_soup1732
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