魚泳ぐ空
阿州苛草
夏
物心を覚えてから、これで何度目の夏なのか分からないまま、今日を過ごしていた。昨日と同じく太陽が空気を唸らせ、木陰ですら暑さを抱えている。メルヒは年相応な少年だった。海と空は同じ所から生まれて、同じように消えていく。海と空に挟まれた足元の平原は、空よりも果てしなく続く。それが彼の世界だった。あれから二、三回夏を経験して、少年になり、平原の終わりを知った。しかしまだ、子供だった。やるべきことを終えたメルヒと友人は空が赤く染まるまで遊び、雲が夜に溶け切る前に二人は眠りに落ちる。普遍的と思える日常を幸せだと感じないほどに、満ち足りていた。
十個のベッドが規則的に並ぶ長方形の部屋は、白い壁で構成されていた。微かに開いた窓の隙間から風が入り込み、カーテンが揺れて部屋に光が刺し込んだ。それと衣擦れの音によってメルヒは目を覚ました。雲はおろか隣のベッドで寝ているバーザルの頬さえも、薄い赤色に染めていた。太陽が一つの内に、周りは欠伸をしつつ外着へと着替えている。
「そろそろ起きろよ。」
返事すらしないので布団を剥がすと、口を歪ませて眉間に皺を寄せながら、僕が抱える布団へ両手を伸ばす。すぐさま上半身を捻ったので、両手は空を切った。
「あ。」何度試しても掴めないがために、メルヒの布団を手探りで掴み、大きく寝返りを打って体に巻きつけた。軽く揺さぶっても反応すらしない。こいつは駄目だと思った。ベッドの頭と足側には落下しないように飾り板が伸びていて、その足側にかけた服を手に取った。彼を見限って、周りと同様に身支度を始めた。
乱れた布団が整えられていく中、自分の枕を蹴飛ばして最後の一人が体を起こした。
「なんで起こさなかったんだ、メルヒ。昨日言ったじゃないかよ。」
「起こした。」
「起こしてない。」
「起こした。布団まで剥がしたんだ。」
「この布団は。」
「それは僕のだ。メルヒって刺繍があるだろ。」
「えっと。バー、ザル。」
「顔を洗ってこい。」
バーザルに布団を投げつけて部屋から回廊へ出ると、爽やかな海の香りに包まれた。内部にある噴水が朝の空気と潮の香りとを混ぜて、それを水飛沫が運んでいる。回廊にはチラホラと自分と同じく支度を終えた人々が、部屋という部屋からやってきて、目を擦りながら外へと談笑しつつ向かっている。
門を出る頃には頭は冴えて、朝露に足が取られないよう芝生を進んだ。海を見晴らせる丘の中腹に構えた建物から、木が茂る森まで芝生が広がり、丘を囲む森の先は海へと通じている。輝く海と空の境から小さな影が、上へ上へと、空を舞う海鳥へと姿を変えていった。
回廊の屋根から突き出た塔の鐘が朝を告げた。鐘の余韻が消えると共に、丘の頂上に二つ目の太陽が生まれた。そちらへ体と顔を向け、各々祈りを捧げ始める。舌足らずで辿々しく時折周りを真似しながらも祈る声、ゆっくりと内容を思い浮かべながら祈る声。これらの澄んだ声に変声期入りたての甲高さが残る声が、まばらに入っていた。
祈りを終えたメルヒは顔を上げ、一つに残った太陽が淡い青空に浮かんでいるのを今日も確認した。肺に残った空気を脱力気味に吐き出し、思いっきり空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。一日が始まった。
手分けして拭き上げた長机にグラスや皿を並べていき、食器のかち合う音と笑い声が混じりあった。雑音が声へと変わり、遠方から音が帰って来た。メルヒとバーザルを含めた一集団は噴水を中央に添えた広場に、長机や椅子やらを出して食事の準備。他の子供達は丘の頂上へと向かい、天からもたらされた二種類の食事を持ち帰る。頂から彼らが帰って来た。人間用の食べ物を三つに分け、一つを朝食用とした。端から席を埋めていき、全員で食前の祈りを捧げた。
朝の分を食べ終えてすっかり活力みなぎらせた子供達は、めいめい、行くべき場所へと散って行った。それはメルヒとバーザルにとっても同じことだった。行き先は五つある。様々な音色や旋律で満ち溢れ、天使が指揮する音楽の建物。金や銀、宝石、大理石、果ては木にさえも命を吹き込まんと彫刻に励み、世界を切り取ろうと筆をも振るう天使よって刻一刻と変わる建物。風や雨の恵みで肥える土壌を耕し、牧場と秋にはたわわに実る広大な田畑。春雲から降り立った天使の腕の中で眠る赤子が、行きたい場所へ、言葉で自分の感情を表せるまで世話をする建物。そして五つ目、最後の行く先は、天使が生まれる森の中。
森へと丘を下り、青い田畑が左右に広がっていくにつれ、空気は湿気と熱を帯びていった。一列の人影がまばらに散っては集まるのを繰り返すうちに、森の影へと同化する。大気は乾草にではなく、森の朝特有の蒸し暑さと匂いに委ねていった。太陽の熱が大小の水溜まりや濡れた草木を温めて靄を作り、虫を呼ぶ花の匂いや樹脂の香りに包まれながら、霧の中へ中へと苔を踏みしめていった。
目的地の湖近くにある池で、僕たちは少しの休息をとった。敷いた布に運んでいた天使用の食べ物を各々置き、服を脱ぎながら池へと向かった。横断しようとすぐさま泳ぎ始める者もいれば、水辺で水をかけ合う者もいる。一泳ぎして背中や腕に滲んだ汗を落としたメルヒは、苔むした地面に寝そべって体を日に当てた。時たま頭を上げて、水飛沫が上がっては落ちていくのを眺めた。
「靄が濃くなってきたな。」とバーザルは腰掛けながら言った。
「そうだね。じゃあそろそろ、出発するのかな。」
僕は背伸びをしながら言った。バーザルと僕の視線の先で、湖に漂う靄は霧へと変化しつつあった。
「どうかな。たまには、二人分の荷物を持つってのは?」
「僕の腕は何本に見える。」
「二本」と悪びれも無くバーザルは答える。
「じゃあこれは僕じゃなくて、君が持つんだ。」
「足で持てば良いよ。」
「蹴落としてあげようか?」
「うん。荷物運びは楽しいなあ。いつでもやりたいね。」とバーザルは大袈裟に喜びながら、荷物を持ち上げる。僕たちは湖へと歩みを再開した。
「そういえば、今日の太陽は一段と眩しかったよね。」とバーザルへ話しかける。
「そういえばそうだな。ああそうだ。宝石を研磨する方法を変えたらしい。輝きが前とは段違いに増したんだって。今日あれが明るくなったのは、宝石が朝日をいつもより広範囲に力強く反射させて、金や銀を一層照らしたからじゃないかな。」とバーザルは答えた。
「なるほどね。だからか。」
そして、メルヒにはもう一つ疑問があった。
「あと、僕思うことがあるんだ。神様はあれがいるのかな。」
「何が。」
「僕達が作るものがだよ。日が暮れる前に、丘の上に捧げ物をするでしょ。宝石を金銀細工で装飾したのだったり、人とか動物の形になるよう削り出した像、大きさがまちまちの絵画とかさ。夕日へ音楽を奏でたり、今はまだだけど収穫した穀物。僕達は食べ物が食べれて嬉しいけどさ、何が嬉しいのかな。」
「眺めたりしてるのかな。」とバーザルは思いを巡らせなら答えた。
こんなことを喋っているうちに湖へと着いた。天使はこの瞬間にも、一人、また一人と生まれていた。メルヒの目の前でもそれが起こった。風に流れる靄が一ヶ所に留まり、人の形になったかと思えば靄に覆われて見えなくなった。少しして、光の粒となって靄が落ちると、そこに透き通った肌の天使が生まれた。天使はメルヒの肩に、自身の腰が並ぶほどの背丈をしていた。湖の周りでは、多くの天使がくつろいでいる。
風が朝を迎えるように、川でもあり雫でもある水のように。明日も昨日も、今日へと溶けていく。メルヒは周りと同様今日も変わらず、同じ仕事を、同じ熱量でこなしていた。天使が匙を使って、黄金色の液体を飲むのを手伝う。横切る蝶に目を奪われていたためか、何かの意思によるものかは分からない。天使は手元を狂わせて、器の中へ匙を落としてしまった。匙に押された液体が器を飛び出し、雫となって宙を舞う。その内の一滴が、彼へと、彼の口へと放物線を描いた。
口から指の先にかけて、知らない快さと複雑で弾ける甘みが広がる。体験したことのない、知らない感覚に襲われたメルヒは、何も分からなくなった。鳥肌のあまり、体をなぞる風すらも無に化した。
素直に話していれば、ほんの少し優しさを欠いていれば、違ったかもしれない。しかしメルヒは日常の延長線上へと身を任せてしまった。
軽く放心していたメルヒへ、慌てた様子で天使が話しかけた。
「ごめんね、大丈夫?火傷はしていない?」
「え、ああ大丈夫。この通り大丈夫。」咄嗟に腕を広げてみせた。
「本当?見せて。」
天使が私の腕を取り、確かめるように肌をなぞった。陶器のように滑らかでありつつ、張りつくような手だった。
「なんともありませんよ。」メルヒはむず痒しさのあまり、腕を引っ込めた。
「そう。ごめんね。なんでだろうな。」器に浸る匙を二本指で引き上げながら、申し訳なさそうに天使は言った。
「口の中には入っていないよね?」と自身の手を不思議そうに眺めていた天使は顔をあげて、メルヒの目を見ながら言った。
「器の中にじゃあないんですか?」と返すのが精一杯だった。
「ああ、違う違う。」と天使は笑った。
「飛んだ液体が口の中には入っていない?」
「ええ。入ってませんよ。」メルヒの目は下を向いていた。
「そう。ならよかった。味わってはいけないからね。」
「換えの匙を持ってきますね。」と立ち上がりながら、メルヒは口早に手を抑えながら言った。
仕事を終えて、天使たちと一緒に森を出た。五つに分かれた天使と人の集団のうちバーザルは、赤子が生活している建物へと向かうのに混じっていた。メルヒはそれを木の隙間から眺めていた。いつもなら、バーザルとメルヒ達は和気藹々と布団やおしめ、枕の洗濯を手伝う。股関節が脱臼しないようにおしめを当てる様や、肩紐をずらして露わになった天使の胸が、膨らみ始め、それから赤子が乳を飲む様、その後上半身を直立させ、背中を軽くさするか叩くかしてゲップをさせる様を、メルヒは見てないふりをしながら手伝う。記憶にない昔の自分を見ているようで、たまらなく不思議だった。
しかしメルヒはバーザルに言われても、はぐらかして留まった。一人になると日差しは暑くて、森の中へと足を進めた。
靄が晴れて夏の日差しに輝く湖の周りを、メルヒはあてどなく歩いていた。しかしどんなに進んで景色が変わろうとも、彼の心は晴れなかった。穏やかな波音と葉が打ち合う音とに紛れる小鳥の囀りが、普段よりも耳に残る。乱暴に寝っ転がって、中空にある拳ほどの雲が、薄く手の平ほどに広がっては元に戻るのを見ていた。そしてだんだんと瞼が重くなり、額に寄ったシワは消えていき、眠りに落ちた。
寒さに身慄いしながら体を起こす。薄みがかった危うい青空に点々とした雲は、黄金色に染まっていた。雲へ、空の上へと、天使は次々に帰っている。踏みしめる丘への道のりは、黄色を帯びた空気に満ちていて、雷鳴を轟かす雲の湿気すらも受容している。夕日へと奏でられる音楽は、海の向こうへ消えていく海鳥と共鳴していた。明日のために丘の頂に集められた金銀の装飾品の山は、受け止めた赤い光を四方八方へと投げていた。朝と同じ場所に、今度は陰りを伴った太陽が生まれた。蝋燭は消える瞬間が特段に輝く。彼を照らす太陽もそうだった。
思い出の海よりも深くて青い、この夏の空。葉の間から見えるそれに、メルヒは影を作りながら森の奥へと進む。あの日から、メルヒはこうだった。天使の食事を手伝い終わるや否や、一人で行動する。求められるのに飽きてしまったとか、怠慢に蝕まれるのを良しとするほど捻くれたとか、そういうのではなかった。むしろ期待と希望に溢れて、今にのめり込んでいた。湿り気や風の具合によって変化する、鳥の囀りや葉の擦れ合う音。日の当たる量によって、花や空気が放つ香りが異なること。雨水が混じる前と後では手から溢れる水の、肌に張り付く度合いが変動すること。そして特に、メルヒが今もしているように、果実の差異を知ろうというのに夢中だった。日々出会う果実の味に同じものはない。それが楽しくもあり、もどかしくもあった。メルヒは極めて人間的だった。だがその中に、あの日感じた快さと複雑な甘みを有しているのは無かった。
「ちょっと、ちょっと。」
メルヒは変な声を出すと共に、捩じ切ろうとしていた果物から手を離す。声をかけられた方へ、誰もいないと思っていた方へ体ごと向けた。そこには茂みに身を隠す、一人の天使がいた。瞳は春の夜のように深く暖かい眼差しで、それが白い額や肌に一層似合っていた。
「静かに。こっち、こっち。」潜めた声と共に手招きされた。池に写った天使の後ろ姿を、砂や石で揺らしながらメルヒは隣に座った。何か言おうとする前に、天使は嬉しそうに小さな声をあげた。先程まで手にかけていた果物がぶら下がる木を、リスが駆け上り、自慢の歯で果物を地面へ落とした。木に成った最後の果物が消えた。
「今のは何だい?」と天使がこちらへ向き直って言った。
「リスじゃあないんですか。」とメルヒはぶっきらぼうに答えた。
「惜しかったな。ネズミと迷っていたんだよ。そうか。リスか。」と気にせず、半ば独りごちた。
「もう行きますね。」
「ああ、ごめんね。引き止めてしまって。ずっと気になっていてさ。」
「毛並みを見たらわかる事じゃあないんですか。」と何も無くなった木を眺めながら、抑揚のない声でメルヒは言った。それを聴いた天使の口からは、弱い息が漏れた。
「私は、目が見えなくてね。」
「え。」メルヒは顔を向ける。しかし、天使の目は自分を据えているようで、目を逸らしてしまった。そんなメルヒを他所にして、盲目の天使は口を開く。
「でも、良いこともあるんだ。見えない代わりにね、耳でよく拾えるんだ。すごいでしょ?近づいている人は誰だとか、君が取ろうとしていた木の実が何なのかも、あれよりも美味しい木の実も知ってるんだよ。すごいでしょ?」と身振り手振りをしながら、メルヒに話した。自分自身に話しているような、優しい穏やかな声だった。相変わらず目はメルヒの方を向いていたが、今度は逸らさなかった。
「ごめんなさい。」と腹ではなく、喉から絞るように声を出した。
「大丈夫、大丈夫。気にしないで。そういえば、君はここで何をしていたの?」
「果物を食べようと」
「え。確かあれが、最後の一個だったよね?」と確かめるように恐る恐る天使は聞いた。
「まあ。だけれど大丈夫ですよ。他にもあるでしょうから。」
「いや、駄目だよ。悪いことをしてしまったな。」と言った後、天使は考え込んだ。
二人の間にある地面へ、花弁もろとも一輪の花が、当然のことだと言わんばかりの素直さで一直線に落ちてきた。それを見ていたメルヒに、天使は言った。
「代わりとは言っては何だけど、違うのを紹介するよ。またここに来てね。」
気配が消えた。首を左右に振った後、すぐさま上半身を捻っても、そこには誰もいない。回旋の影に消えてしまった。ただ、一輪の花が残った。
池の水面に数多の円が、浮かんでは消える。池が白を含んでいるのは、雲の色が溶け込んでいるからか、雨粒が湖の底をかき混ぜてる為か、またはその両方か。苔むした石に座り、視線が池から手前の水面、虚無に移り変わったときだった。茂みを掻き分ける音がした。普段なら猫やそれから逃げる鳥に違いないが、メルヒの目線は高いまま後ろを向いた。服が茂みに引っかかって、立ち止まった天使がそこにいた。
「雨の匂いが強くてね。少し、遅れてしまった。」と額に張り付いた髪を指で掬いながら、天使は顔だけ上げて言った。服を何とかしてあげようと、メルヒは腰を上げて駆け寄った。突然、メルヒの体が浮く。視界がぐるりと回る。メルヒは苔に足を滑らせて、背中から地面に落ちてしまった。泥だらけになったメルヒを音で知って、少し固まった後に天使は笑いあげた。
風に重くはためく服を窓越しに、メルヒは果物を口へと運ぶ。腕を引かれて奥へと、泥を洗い落とした服が乾くまで、天使の家で今も休んでいた。ツタに覆われた天使の家は、森に同化しかけている。丸机を挟んで座る二人。流れるまどろみ。
「気に入ったのはあった?」と皿に盛られた果物に影を落としながら言った。
「はい、それはもう。」と飲み込みながらメルヒは答えた。果物はどれも美味しく、知らないものばかりだった。メルヒは、なぜこんなにも詳しいのか不思議に思った。
「言ってなかったっけ。あそこに寝具があるでしょう。」と天使は指差して言った。
どこを見ても本や楽器が目に入る部屋の隅に、白を基調とした寝具がある。役目を終えた音楽室のような部屋だとメルヒは思った。
「ここで暮らしていてね。森の管理をしているんだよ。」
「いつもですか。」
「そうだね。君がここに来るよりも前から。」と天使は頷いて言った。
ところどころ変色して毛羽だった本。目に刺すような光沢を失い、鈍く光る楽器。床に垂れ落ちた布団。何か欠けても気づけないが、欠けることは無いんだろう。メルヒはただ眺めた。
別れた後に、メルヒは天使を呼び止めた。西日に染まる雲の底には青が混じる。幼い藤の色に染まった雲は風下へと。雲という雲は、夜空に立場を譲るため我先に、形が崩れてもお構い無しに月の方へ駆けていた。
「明日は。明日も来て良いですか。」
天使は振り返って微笑んだ。髪は赤みを帯びて、顔には影がかかっている。
「どうしようかな。忙しいからなあ。」と口角を上げた天使はわざとらしく言った。
「じゃあ良いです。」
「待って、待って。早いよ。そう、交換にしよう。」
「何と、ですか?」とメルヒは聞き返した。交換できそうな物といえば、石鹸やら手拭いやらの雑貨しか無かった。
「私は果物を用意する。君は、私の代わりに本を読んだり、調律の手伝い。どう?」
二つ返事で承諾した。てっきり物々交換だと思っていたため、メルヒは安心した。
「それじゃあ明日からよろしくね。君は、なんて呼べば良い?」
メルヒが名前を言い終わると、天使は背筋を伸ばし、胸に手を当てた。
「私はリーフェ。よろしく。」
ほとほと日が落ちて、青空にはすっかり灰が馴染ませてあった。
非日常は日常へと変わる。それを歓迎しようがしまいがなんて、メルヒにとってどうでも良いことだった。弦を弾く細長い指の輪郭がやっと一つになった頃、メルヒは音色を聴いた。流れ込む知識で脳が頭蓋骨を圧迫しても、活字を追うことは何よりも楽しい。しかし、その状態を自覚するのは、ページを捲ろうと視界が霞むときか、リーフェに話しかけられたときだった。メルヒは熱中するが余り、痛みを運動に変えてしまいがちだった。
調律を終えた楽器は、風のように透き通り、雨粒よりはっきりした余韻を伴った。リーフェの演奏にメルヒは拍手した。朗読を一度中断し、メルヒの痛みが引くまで、このように興じるのが常だった。
「少しは良い感じ?」と慣れた手つきで楽器を片付ける。
「はい、良くなりました。次は何を読みますか?」
リーフェは溜め息を吐くと共に、手を止めた。
「聴いてた?」とリーフェは呆れ顔で言った。
「聴いてましたよ、それは。良い音でした。」と笑いかけたが、変わらなかった。
「そう。」と言い終わるや、息を吸い込み言葉を続ける。
「君は」そう息を吐きながら、「バカなんだねぇ。」とリーフェは繋げた。
僕は笑った。リーフェも笑った。
「笑い事じゃないよ。」
「ごめんなさい。」
笑みが消えた顔をメルヒへと向いた。開かれた目は自分を据えているようで、だけれど離せなかった。この不調和を楽しんでしまっているんだと思った。
「一旦、歩こうか。」と背を伸ばしながらリーフェは言った。
昼下がりの森の中、芝生を踏み締める音は弾ける会話に覆われている。そんな二人の前に、開けた空間が。古びた井戸とクネ曲がった老木が、ポツンとあった。
「ああ、そういえばこんな所にあったねぇ。」と懐かしそうにリーフェは言った。
「この距離で分かるんですか。」
「うん、だって水の匂いがするでしょう?」
「井戸から?」
僕にはさっぱり分からなかった。しかしリーフェは真っ直ぐと、木の根を避けながら井戸へと向かう。そして蓋をずらし、覗き込む。
「そうそう。まだ水があるね。」とくぐもった声が僕の耳に届いた。
「無い時があるんですか?」
「そうだよ、冬になると枯れちゃうの。飲む?」とリーフェは上体を起こした。拳ほどの水の塊が、手の平の上に浮いていた。
「じゃあ手を出して。」
雫を地面に落としながら、水の塊がメルヒの手へと浮動する。そしてメルヒの手の上で、水へと戻った。指の隙間や腕を伝って、服を濡らす水を啜った。それは地下水特有の冷ややかさと丸い感触があり、口の中で転がっては消える。地面に出来た幾つかの跡を避けて、蟻が歩いていた。
顔を上げた僕の目に、髪と髪の隙間から、老木へ手を伸ばすリーフェの姿が入った。
「何してるんですか。」
「うん?面白いこと。」
そう言い終わったリーフェの手には、一つの果実がある。近づくにつれ、それは影ではなく、黒い果皮をしていて。その表面は滑らかだと分かった。リーフェは、自身が齧ってない方を僕へ差し出した。恐る恐る口に含んだメルヒは驚いた。黒い皮に覆われる白い果肉には、何の味も無かった。しかし突如として、得体知れずで出所すらも分からない期待というのが、口から全身へと広がった。もう一口食べても無味無臭で、今度は楽しさを覚えた。
「当てるよ。今は楽しい?」とリーフェは尋ねた。それに僕は興奮気味に答える。
「ええ、そうです。こんなの食べたことありません。何なんですか?」
「それは、特別でね。感覚を共有させる果物なんだ。」
「感覚を?」
「そう。だから、一口目は面白かったでしょう?」
突然発生したあの期待は、リーフェからだった。納得と共に、よく分からないむず痒しさをメルヒは抱いた。
「やっぱり君は面白いね。」とリーフェは、メルヒを見て笑う。
今も尚、感覚が共有されているという恥ずかしさに似た思いよりも、果実への興味が勝ったメルヒはリーフェに尋ねた。
「これはね、人間同士に使うんだよ。ここよりも多くの人間たちがいる場所で、私たちは姿を隠してね。運命とか、奇跡、通じ合う思い。理屈なんかどうでも良い、心の高鳴り。それらを促すのが、この果実の役目。」
芝生にしゃがんで少し沈黙したあと、一息吐いた。溜め息とも決意とも取れないものだった。
「ただ」とリーフェは言葉を続けた。「言葉や文字のようなものでね。相手を見極めなくちゃいけない。さもないと人間は、悪魔になってしまう。彼らと同様に、どこまで私たちは信じられるのか。役目なんだ。」と段々と熱を帯びて、リーフェは答えた。
「やっぱり、天使なんですね。」とメルヒの口から漏れた。
「そうだよ。難しいんだけどね。」
齧っただけであったからか。果実の効果は切れて、リーフェの横顔は髪で隠れていてメルヒは分からなかった。
「さ、帰ろうか。」と立ち上がってリーフェは言った。
同じ音であるはずなのに、井戸に蓋をする音は幾分か軽いように感じた。
本に挟まれた虫を見るほど、戸惑うことはない。二枚仕立ての琥珀をこじ開けてしまった。嫌なものから目をそらすように、劣化させないように、隣の行へ行へと流し読みして、さっと捲って封印し、何食わぬ顔で目を落とす。メルヒは、知識というものに魅了されていた。体が拒否しても知らず知らずのうちに、知識と知識が繋がるあの快感を求めてしまう。遠い場所で人々が行ったことの記録。人が織りなす事実の累積は真実よりも甘美で、行間に思いを馳せるのは堪らなかった。人や環境によって変わる幸せの形と追求の仕方。そしてその結末。生き物のように躍動する価値というのに振り回される人々。そして何よりも、神を求める姿と現実の乖離に悶えながらも、懸命に生きていく人々に、心が踊らされた。
リーフェの家からバーザル達と寝食を共にする建物へと帰るとき。木々が阻み阻まれて、水溜まりのように転々と、夕陽が染める森の道。メルヒは森を出るまで、今日得たことを反芻させながら歩く瞬間が好きだった。寝具に潜り込み、今日を昨日にして耽る。心地良い朝を迎える毎夜。
本来は知るはずの無い数多の人生に触れたメルヒは、自分へと好奇心を向けた。実在していたが今は字面上に存在する人々に、自分を投影し、焦がれ、切望する。
「私は、よく分からないからなぁ。」と申し訳なさそうにリーフェは言った。
父母。メルヒは父母というのに興味があった。その綴りや広義的な意味はもちろん知っている。実感がないが故に、止められるものでは無くなっていた。雲の先をいくら見渡しても、天使が帰る空があるだけ。こうして尋ねてもメルヒは分からない。
「いつかは、分かるんじゃないかな。」とリーフェは柔らかく、言った。
次の更新予定
魚泳ぐ空 阿州苛草 @asyuuirakusa314
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