影に潜む真実

霧乃遥翔

第1話

薄暗いアパートの郵便受けを何気なく覗いたとき、俺は一通の差出人不明の手紙に気づいた。白い封筒には俺の名前だけが黒いペンで書かれており、差出人欄は空白。嫌な胸騒ぎを覚えながら部屋に持ち帰り、震える指で封を切る。


 中から出てきたのは一枚の紙。薄い便箋にはただ一行だけ、乱れた字でこう記されていた。


「罪は消えていない」


 瞬間、心臓が大きく鼓動し始めた。喉がひりつき、視界がかすむ。思わず壁にもたれかかり、その文面を凝視する。――罪。忘れられるはずのない、あの山中での出来事。俺たち6人の過去。封印したはずの記憶を抉るようなその一言が、今になって突きつけられるとは。


 冗談だろうか? 誰かの悪質な悪戯か? だが、手紙の文面からは冷たい意志のようなものが滲み出ていた。インクが所々滲んだ文字は筆圧が強く、書いた者の激しい感情を物語っているようだった。俺は額に浮かんだ汗を拭い、紙を裏返す。そこには震えるような筆跡で日付と場所が記されていた。


「明日午後7時、渋谷駅ハチ公前。全員で」


 全員で。つまり俺たち6人全員ということか。胸がざわめいた。なぜ今になって……。封筒の消印を見ると都内から投函されたようだった。俺たち6人は、あの日以来一度も全員で顔を合わせたことはない。それを知っている人物が「全員で集まれ」と言っている。この手紙を書いたのは一体誰なのか?


 考えられる人物は限られていた。思い当たるのは――あの日命を落とした慎也。しかし死んだ人間が手紙を出せるはずもない。では残された俺たち5人のうちの誰か? だが俺自身が受け取っている以上、差出人が俺でないのは確かだ。すると残る4人の誰かが、今さらこんな手紙をよこす理由があるだろうか? 皆、それぞれ必死に過去を忘れようとしていたはずだ。あるいは他の誰か――だが、事故現場に居合わせたのは俺たちだけのはず…。


 いても立ってもいられず、俺はスマートフォンを掴んだ。アドレス帳には疎遠になって久しい名前が並んでいる。翔平、健二、優香、綾香、そして美雪。8年前、あの登山に参加していた友人たちだ。震える息を吐きながら画面をスクロールすると、それぞれの顔が脳裏に浮かんでくる。


 翔平――大学の登山サークルの先輩で、皆を率いていたリーダー格だ。冷静沈着で頼りになる兄貴分だったが、あの事故以来一度も会っていない。今は都内の企業に勤めていると風の噂で聞いたが、こちらから連絡を取る勇気は出なかった。


 健二――慎也とは高校からの親友同士で、俺とも仲が良かった男だ。優しかった彼は慎也を失ったショックで酒に溺れ、一時は精神的に不安定になっていたと聞く。その後なんとか立ち直ったらしいが、ここ数年は年賀状のやり取りすらしていない。


 優香――慎也の恋人だった女性。明るく面倒見のいい彼女は皆のマドンナ的存在で、俺も密かに淡い想いを寄せていた。慎也の死後、彼女が泣き崩れた姿を俺は忘れられない。以来音信不通だが、彼女が受けた心の傷は計り知れないだろう。


 綾香――同じサークル仲間で、天真爛漫なムードメーカーだった。事故後も何とか皆を繋ぎとめようと連絡を取ろうとしてくれていたが、結局それぞれが距離を置くようになってしまった。数年前、結婚したという噂も耳にしたが定かではない。


 美雪――慎也の妹。兄である慎也と年が2つ違いで、俺たちとも顔見知りだった。兄想いの大人しい子で、あの登山にも「私も行きたい」と参加していた。しかし事故の後、彼女は深い悲しみに沈み、俺たちを激しく責めることもなく静かに姿を消した。気丈だったのか、それとも悲しみのあまり心を閉ざしてしまったのか…真意はわからないままだ。


 5人それぞれの姿を思い浮かべ、俺は唾を飲み込む。誰もが自分なりに、あの日の傷を抱えながら生きている。その誰かがこんな手紙を? 信じがたい思いだった。


 迷った末、まず健二に電話をかけることにした。慎也の親友だったあいつなら、何か知っているかもしれない。一番に相談すべき相手だろう。発信ボタンを押すと、コール音が胸の鼓動に重なって響いた。数回の呼び出し音の後、疲れたような健二の声が出る。「…はい、もしもし?」


「健二、俺だ。カズヤだ」自分でもわかるほど声が強張っていた。「突然すまない。実は…変な手紙が届いて…」


 喉が渇き、うまく言葉が出てこない。一瞬ためらったが意を決して続ける。「『罪は消えていない』って文面で、明日、全員で渋谷に集まれって…そんな内容なんだ」


 電話の向こうで息を呑む気配があった。しばらく沈黙が降りた後、かすれた声で健二が言う。「…お前もか。実は…俺のところにも同じ手紙が届いたんだ」


「本当か?」思わず声が大きくなる。「他のみんなには?」


「わからない。優香には怖くて連絡できなくて…綾香にもまだ言ってない。翔平さんと美雪にも…」健二の声は明らかに動揺していた。受話器越しにも、あの日の記憶が蘇っているのが伝わってくる。


「そうか…」胸の鼓動がさらに速まった。「俺たち以外にも届いてるのか…全員に?」


「たぶん…そうだろう。内容からして全員だ…」健二は息を震わせながら続けた。「どうする? 明日…行くのか?」


 電話を握る手が汗ばんでくる。誰かの悪ふざけであってほしいという願いと、無視してはならないという直感がせめぎ合う。「…行くしかないだろう。もし全員に届いているなら、無視はできない。何か知ってるやつがいるかもしれないし…」


「…ああ。俺も…そう思う」健二は消え入りそうな声で答えた。


「じゃあ、明日7時に渋谷のハチ公前で。他のみんなにも…伝えてみる。怖いだろうけど、きっと来るはずだ」


「わかった…」健二はそれきり黙り込み、そして小さく付け加えた。「カズヤ…正直、今すげぇ怖い。こんな手紙…誰が…」


「俺もだよ」苦く笑おうとしたが、引きつった声しか出なかった。「でも、きっと悪質なイタズラだ。明日行ってみれば、何かわかるだろう」


 電話を切ると、俺はソファに崩れ落ちた。心臓の高鳴りはまだ収まらない。封書を握る手がじっとりと汗ばんでいた。だが一息つく間もなく、やるべきことが残っている。俺は震える指で画面を開き、次に優香の番号を押した。しかしコール音が数回鳴った後、虚しく留守番電話に繋がってしまった。メッセージを残すべきか迷ったが、躊躇しているうちに切れてしまう。


 次にメール画面を開き、簡潔な文面を打ち込んだ。〈久しぶり。突然ごめん。俺のところに慎也の事故に関する奇妙な手紙が届いた。他のみんなも同じ手紙を受け取ったようだ。明日19時に渋谷ハチ公前に集まれと書いてある。心当たりはないけれど、とりあえず行ってみるつもりだ。もしこのメールを読んだら、できれば来てほしい。カズヤ〉――送信ボタンを押し、既読が付く気配のない画面をしばらく見つめた。連絡が取れなかった間に彼女のアドレスが変わっていないことを祈りながら。


 さらに俺は美雪にもメールを送ることにした。彼女とも何年も連絡を取っていない。電話番号すら繋がるかわからなかったので、かつて交換していたメールアドレスにメッセージを送った。内容は優香に送ったものとほぼ同じだが、言葉を選ぶのに時間がかかった。最後に「突然ごめん。驚かせてすまない」と一言付け加えて送信する。美雪は俺たちを疎ましく思っているかもしれない。それでも、彼女も手紙を受け取っている可能性が高い以上、黙っているわけにはいかなかった。


 窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。過去と向き合う覚悟もないままに、事態は動き出してしまったのだ。胸の奥底に沈めていたはずの過去が、不意に牙を剥き出しにして俺たちに襲いかかろうとしている――そんな予感がしてならなかった。


 案の定、その夜は一睡もできなかった。天井を見つめれば、嫌でも記憶が蘇る。8年前のあの日…大学時代の仲間たちとの登山旅行。俺たちは八ヶ岳の山中で道に迷い、そして…慎也を失ったのだ。


 ――ざあざあと降りしきる冷たい雨。岩場に響いた悲鳴。崩れ落ちそうな急斜面で必死に叫び合う声。助けを呼ぼうにも圏外だった携帯電話。目の前で闇に消えていった懐中電灯の光。そして、ぬかるんだ地面に横たわる慎也の動かない体…。


 「慎也!」俺は叫び声を上げながら飛び起きた。心臓が凄まじい速さで鼓動している。額には冷たい汗が滲み、呼吸が荒かった。夢だ…悪夢だ。またしてもあの時の悪夢を見たのか。俺は震える手で顔を覆い、なんとか深呼吸を繰り返す。


 大丈夫だ、落ち着け…。自分にそう言い聞かせる。明日みんなに会えば、何かわかるかもしれない。忘れ去ったはずの忌まわしい記憶――もう二度と向き合うことはないと思っていた過去。しかし運命は皮肉にも、俺たち6人を再び引き合わせようとしている。


 窓の外、遠くでサイレンの音がかすかに聞こえた。それはまるで嵐の前触れのように、長く尾を引いて夜の闇へ消えていった。


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