第1話「モブとして生まれた日」

あの日――俺は、モブとして目を覚ました。


最初に視界に入ったのは、ひび割れた白い天井だった。

白かったはずの漆喰はところどころくすんで、細い亀裂が走っている。


(……こんな天井、俺の記憶にはないな)


視線をずらせば、簡素な木の梁。その端っこに、場違いに立派そうな柱が一本だけ見えた。


上体を起こすと、古びた天蓋付きベッドの骨組みが目に入る。

一応、天蓋は天蓋だ。だが吊られている布は黄ばんでいて、縁のレースはほつれている。

彫刻も、よく見れば欠けと傷だらけで、「昔はそれなりに見えたんだろうな」という程度の代物だ。


床に敷かれたカーペットは色褪せ、端がめくれかけている。

足を下ろせば、床板がみしりと軋んだ。


(ここがどこかは分からないが……少なくとも、こんな部屋に住んでいた覚えはない)


起き上がろうとして、自分の体がやけに軽いことに気づく。

両手を目の前にかざす。


「……んだ、これ。手、ちっさ」


細い。白い。どこにでもいそうな子どもの手。

出てきた声も、妙に高い。喉の感覚も、前と違う。


そこでようやく、頭がまともに回り始めた。


(……さっきまで、俺は)


狭いワンルームの床に突っ伏していた。

徹夜明けのカップ麺と、モニターの青白い光。

その中で、とある乙女ゲームの「断罪イベント」を、何度目かのループでぼんやり眺めていて――

記憶が、そこでぷつりと途切れている。


「坊ちゃま? お目覚めでいらっしゃいますか」


若いメイドが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「……ああ。たぶん、死んではない」


そう答えながら、ゆっくりと上体を起こす。


ふと視線の端に、部屋の隅に立てかけられた姿見が映った。


(顔、見とくか)


ベッドの縁をつかんで足を下ろすと、床板がみしりと軋む。

立ち上がろうとしたところで、メイドが慌てて近づいてきた。


「ぼ、坊ちゃま!? まだ無理はなさらないで――」


「大丈夫。転んだら、そのとき支えてくれ」


軽口でごまかしつつ、ふらつきながら姿見まで歩き、恐る恐る覗き込む。


映っていたのは――黒に近い濃い茶色の髪。ややつり気味の目つき。線の細い顔立ち。

よく言えば「陰のある美形予備軍」、悪く言えば「地味で幸薄そうなガキ」だ。


「……誰だよ、お前」


思わず、鏡の中の少年にそう呟く。


(……なるほど)


鏡から目を離しながら、頭の中で情報を並べる。


(……異世界転生。テンプレとしては満点だな)


(まあ、元の人生に特に未練も悔いもないしな。勝手に身体をもらっちまった名も知らぬ誰か、申し訳ない。君の分まで強く生きるよ)

(……なんて、口だけで思っちゃいないが。ラッキーな再就職先ってことにしとくか)


現実逃避じみた結論を出したところで、メイドが控えめに微笑んだ。


「クロウ坊ちゃま、本当によかった……。昨夜はひどい熱で、皆心配しておりました。ヴェイル男爵家のご子息に、もしものことがあってはと……」


「クロウ……ヴェイル?」


思わずオウム返しにすると、メイドはきょとんと首をかしげた。


「はい。クロウ・ヴェイル坊ちゃまでございますよ? 魔力の乱れが原因だとお医者様は仰っていましたが……お加減はいかがですか?」


「魔力、ねえ……」


耳慣れないはずの単語の並びが、妙に耳に馴染んだ。


クロウ坊ちゃま。ヴェイル男爵家。魔力。

どれも、俺が前世で散々読み漁った「中世ファンタジーもの」のテンプレみたいな言葉だ。


(……まあ、よくある“貴族の坊ちゃん”設定ってやつか)


「お身体が落ち着かれたようでしたら、旦那様がお呼びです。朝食の席へお越しください」


「……旦那様」


たぶん、このガキの父親だろう。


言われるがままに部屋を出ると、廊下には剥げかけた絨毯が敷かれていた。

壁には先祖らしき人物の肖像画が飾られているが、額縁の金箔はあちこち剥がれ落ちている。

貧乏だけど、貴族の体面だけは守ろうとしている家――そんな印象だ。



食堂に入ると、長テーブルの手前側に三人分だけ席が用意されていた。

テーブルの中央に置かれているのは、固めの黒パンと、具の少ない野菜スープ、それから薄く切られたチーズが少しだけ。

肉の姿は、どこにもない。


(……やっぱ小金持ちどころじゃなくて、本気の貧乏か)


席には、痩せた中年の男と、白髪混じりの老執事らしき男が座っていた。

中年の男――たぶん父親だ――が、こちらを見るなりわずかに表情を緩める。


「クロウ。起きられるようになったか」


「……ええと。おはようございます?」


とりあえず無難な挨拶を返すと、父親はほっと息をついた。


「高熱が続いたと聞いたときは肝を冷やしたぞ。ヴェイル家はお前一人が跡継ぎなのだからな」


「坊ちゃまがお元気になられて、本当に何よりでございます。旦那様」


老執事が、深々と頭を下げる。


(なるほど。一人っ子、ね)


俺は黙って席に着き、目の前のスープを一口すする。

薄い。野菜の甘みはかすかにするが、水っぽさの方が勝っている。

黒パンは、歯ごたえというか、ほとんど訓練用の兵糧だ。


(前世のカップ麺よりは、まだ健康的か……)


そんなことを考えていると、父親が重たげに口を開いた。


「……今年も税の通知が来た。ルーミナリア王国も、なかなか情け容赦がない」


ルーミナリア。

耳に引っかかる音だった。


「王都ルーミナスの景気はいいと聞くがな。我がヴェイル男爵領まで恩恵が届く気配はない。せめて、クロウを王都の王立魔法学園に通わせられるだけの蓄えがあれば……」


ルーミナリア王国。

王都ルーミナス。

王立魔法学園。


その三つの単語が、ぴたりと脳内で並んだ瞬間――背筋が冷たくなる。


(……待て。その組み合わせ、知ってる)


前世で、何十時間も画面を見つめ続けたパッケージ。

起動時に流れるタイトルロゴ。


『光翼の聖女と六つの運命』


世界観紹介のページに書かれていた一文。


『舞台は、ルーミナリア王国。王都ルーミナスにそびえる王立魔法学園――』


(マジかよ。よりによって、そこか)


あの乙女ゲーム。

聖女エミリー・グレイス――ゲーム主人公。

攻略対象六人。王太子セドリック・ルーミナスを筆頭に、愉快な仲間たち。

そして――断罪イベントで理不尽にすべてを失う悪役令嬢、アナスタシア・エヴァロスト。


(画面越しじゃなく“生で”推しを見られる。……それだけで、このクソみたいな貧乏生活の収支がプラスになるレベルだ)


問題は、その推しが数年後にきっちり処刑される予定だってところだ。


(あんな顔の良い女が、処刑台で首を落とされる? もったいねえ。資源の無駄遣いだろ)




その日の午後、俺は自室に戻ってベッドにひっくり返り、天井を見つめながら、十年分の記憶と前世のゲーム知識をかき集めた。


情報整理だ。


ここは、乙女ゲーム『光翼の聖女と六つの運命』の世界――らしい。

俺は、ヴェイル男爵家の一人息子、クロウ・ヴェイルとして十年ほど生きてきた。


ルーミナリア王国。王都ルーミナス。王立魔法学園。

さっき父親が口にした固有名詞は、ゲームのそれと一致している。


こっちの人生十年分の記憶が、頭の奥からじわじわと浮かんでくる。


ヴェイル男爵領。痩せた土地。収穫は不安定。

王都への距離だけはそこそこ近いせいで、戦時の徴税と兵の供出だけは一人前に要求される。


父親は帳簿とにらめっこしながら、夜な夜な頭を抱えていた。


『今年も赤字か……。せめて、クロウにもう少し魔力があれば、王立の局にでも押し込めるのだがな』


廊下の影でそれを聞いていた十歳の俺――クロウは、何も言えずに壁にもたれていた。


魔力検査。属性判定。才能の有無。

結果は、闇属性・魔力量「最低ランク」。


火や氷の華やかな魔法とは無縁。俺ができるのは、目眩まし程度のショボい闇魔法だけ。


(貧乏男爵家の一人息子。魔力はゴミ。コネも血筋も微妙)


他人事みたいに条件を並べてみると、自分の立ち位置のしょぼさがよく分かる。

どこからどう見ても、「勇者候補」じゃない。「聖女を支える有能な参謀」でもない。


ただの、モブだ。


(……なにもない。物語が欲しがる才能なんて、一つも)

(――それでも、一つだけ。この世界の連中が絶対に持ってない“チート”はある)


前世でこのゲームをやり込んだ記憶。

イベントの配置とフラグの位置、ダンジョンの隠し部屋やレアアイテムの在りか――

どこで誰が死んで、誰が絶望するか、くらいまではだいたい頭に入っている。


(ゲーム知識。せめてそれくらいは、チート能力って呼ばせろ)


前世の記憶が、じわじわと鮮明になる。


何周もプレイした。

攻略対象六人分のルートを全部見た。

隠しスチルもコンプリートした。


でも、そのどこにも――悪役令嬢が救われるルートはなかった。


卒業舞踏会。断罪宣言。

プレイヤーの選択肢次第で、「誰がゲーム主人公を慰めるか」「どの攻略対象がどう活躍するか」は変わる。

けれど、最後に「悪役令嬢アナスタシア・エヴァロスト、断罪」のテキストが出ることだけは、何周しても変わらなかった。


(つまり、“ゲームとして”見れば、断罪フラグはほぼ確定イベントってことだ)


ここが本当にゲームと同じ世界なのか、どこまで仕様が一致しているのかは分からない。

けど、少なくとも「普通にプレイしているだけじゃ、あいつは救われない」というところまでは分かっている。


(別に、悪役令嬢がいなくなったところで、ゲーム的には大して困らないんだよな)

(世界に愛された聖女様と、選ばれた攻略対象どもがいれば、メインシナリオはどうとでも回る。

 言ってしまえば、悪役令嬢の存在なんて、ゲーム主人公様を輝かせる舞台装置の一つでしかない)


――この世界に来た俺が、やることは一つだ。


「俺が代わりに、汚れ役をやってやる」


口に出してみると、思っていた以上にしっくりきた。

聖女にも勇者にもなれない、モブ貴族のガキ。

正攻法で戦っても勝てないのは分かりきっている。


だったらせめて。

原作シナリオが「悪役令嬢」を殺しに来るなら、その前に俺が全部ぐちゃぐちゃに書き換えてやる。


「よし、俺が攫って逃げよう」


(……と、息巻いたのはいいが)

(そもそも、底辺貴族の俺がどうやって王太子の婚約者に近づく?)


普通に考えれば、雲の上の存在だ。接点なんて皆無に等しい。


だが――まったくのノーチャンスってわけでもない。



ヴェイル領から王都寄りに一日ほど行った場所に、古いダンジョンがある。

昔、魔王軍との戦いで活躍した勇者が、その奥に「聖剣」を封印した――という、ありがちな伝承付きのやつだ。


王都の連中は、「次の勇者を選ぶための試練の場」なんて格好つけた言い方をしている。

実際のところは、危険すぎてまともに管理できないから、適当に神話で飾って放置されているだけだ。


聖剣は、「選ばれた勇者」しか抜けない。

剣を抜けなかった連中は、みんな「勇者候補失格」として忘れられていった。


ダンジョンの隠し部屋に残っているのは、剣を飾るための台座と、誰も価値を感じないガラクタ。


(本命ルートは、どう考えてもあそこだよな)


聖剣が取れれば、話は早い。

魔王だろうが、王家だろうが、断罪イベントだろうが、全部力づくで殴り飛ばせる。


――もっとも、「選ばれた勇者」専用なんだけどな。


(けどまあ、モブ枠とはいえ、中身は事情知ってる転生者だしな)

(転生者ボーナスとか、ご都合主義の一つや二つ。ワンチャンくらい、俺に降ってきてもいいだろ)


そんな甘い期待も、正直ちょっとだけはあった。


それに。


ありがたいことに、あのダンジョンには、俺しか知らない“ショートカットルート”がある。

本来なら熟練の冒険者でもやっとの難易度だが、最低限の装備と命綱さえあれば、十歳のガキ一人でもなんとか潜り込める道だ。


あのダンジョンの最奥まで辿り着けさえすれば――

あわよくば聖剣、本命が無理でも、当座の資金に化けそうな何かくらいは拾えるかもしれない。


(……「選ばれた勇者」専用? 知ったことかよ。その勇者様が生まれるのはまだ先だ。だったら、早い者勝ちだろ、 俺が有効活用してやるよ)


「よし。決めた」


ベッドから立ち上がり、小さな拳を握る。


「俺はモブとして、悪役令嬢を断罪エンドからぶっこ抜く」


そのために必要なものは――山ほどある。


「まずは金、それに聖剣だな」


十歳のガキのくせに、出てくる第一声がそれかよ、と自分にツッコミを入れながら。


俺は心の中で、最初の行き先を決めた。


ヴェイル領の外れ。勇者様の聖剣が封印されたとされる、あの古いダンジョンへ――。


この日から、クロウ・ヴェイルとしての「準備期間」が始まった。


七年後、あの“断罪の日”に、アナスタシア・エヴァロストを攫いに行くための――

馬鹿みたいに回りくどくて、救いようのない計画が。

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