プロポーズ代行承ります
船越麻央
女子高生の恋 前編
「ここが、鹿ノ内書店……間違いない」
少女は呟くと古本屋の看板を見上げた。そして……。
午後三時、古びた暖簾が風に揺れる。本屋街の路地裏にある古本屋『鹿ノ内書店』は、いつものように静かである。
「ねえ旅人くん、これってやっぱり『坊っちゃん』の初版本だよね?」
レジ台の奥から、店主の鹿ノ内霧絵が声をかけた。三十路を過ぎたばかりの彼女は、いつも無骨な作業着にエプロンという出で立ちで、だがその手元は意外に繊細である。
山野辺旅人は、梯子に乗って古い書棚を整理していた。大学を出て一年、就職浪人の身でこの古本屋でバイトを始めて三ヶ月になる。彼にとってこの店は居心地がいいようだ。いわゆるイケメンではないし、少々頼りないが誠実である。霧絵はそんな彼を気に入っている。
「うーん、ちょっと待ってください」
旅人は梯子から降りると、慎重に霧絵から本を受け取った。
「確かに表紙の色褪せ具合と活字の凸版印刷から見て、明治期のものみたいですね」
霧絵は満足そうに小さく頷いた。彼女の祖父が始めたこの店は由緒ある古本屋である。だが今ではもうほとんど客は来ない。
「ねえ、霧絵さん」
旅人はふと思い出したように言った。
「あの、副業の方ってまだやってるんですか?」
「女性専門プロポーズ代行?」
霧絵は苦笑いを浮かべる。
「もちろんよ。それがないと、この店とっくに潰れてるわ」
霧絵は奥の引き出しから、淡い藤色の封筒を取り出した。表には「プロポーズ代行 承ります」とだけ記してある。表向きは古本屋だが、数年前から女性専門のプロポーズ代行をこっそりと請け負っている。理由は簡単、古本屋だけでは生きていけないからだ。
暖簾が再び揺れた。入ってきたのは制服姿の少女だった。長い黒髪をポニーテールにまとめ、大きなリュックサックを背負っている。
「あの……すみません」
少女はおどおどと声を出した。
「プロポーズ、代行してもらえるって本当ですか?」
鹿ノ内霧絵と山野辺旅人は顔を見合わせた。
「はい、もちろんよ」
霧絵は優しく微笑んだ。
「どうぞ、奥へ。お茶でも入れましょうか」
少女は尾崎亜也子という名前だった。都内の公立高校に通う三年生で、十七歳。座敷に案内されても、なかなか切り出せずにいた。
「いいのよ。何でも話して」
霧絵が温かい煎茶をいれながら言った。なにしろ相手は未成年の高校生だ。慎重に言葉を選ぶ必要がある。
「心配しないで。わたしたちは、秘密厳守でやってるから」
亜也子は深呼吸をしてから、震える声で話し始めた。
「私……湯川先生に、好きだって伝えたいんです」
「湯川先生?」
「うちの学校の数学の先生。三十歳くらいで、すごく優しくて……私、先生のことばかり考えています。生徒と先生だから、普通に伝えたらダメだって分かってる」
霧絵と旅人は黙って少女の話を聞いていた。しかし二人とも内心困惑していた。女子高校生と教師という関係は複雑でデリケートだ。下手をすれば先生の立場も危うくなる。
「だから、プロポーズ代行って……どういうこと?」
霧絵がたずねた。
「先生のこと、ちゃんと好きだって伝えたい。私じゃダメだから……代わりに、ちゃんとした大人の方に、私の気持ちを届けてもらえたら……」
亜也子の目に涙が浮かんでいた。
霧絵はしばらく沈黙した。どうやら亜也子は本気のようだ。これは初めてのケースで、少々厄介である。しかし、鹿ノ内書店の威信がかかっていると言っても過言ではない。じっくりと考えてから、静かに口を開いた。
「わかったわ。ただ、プロポーズ代行っていうのは、本来は当人に代わってプロポーズするものよ。あなたの気持ちを私たちが先生に伝えるというのは、少し違う」
「じゃあ……どうしたら?」
「そうね……」
霧絵は旅人を見た。
「旅人くん、どう思う?」
「えっと」
霧絵に突然ふられて旅人は答えた。
「まず、湯川先生ってどんな方ですか? 性格とか趣味とか」
亜也子は少し恥ずかしそうに話し始めた。
「先生、数学が大好きで…… 授業中も、数字の話をするとき目がキラキラしてる。 休み時間はいつも数学の本を読んでて、 私たちが質問するとすごく丁寧に教えてくれる。数学が苦手だった私も今は楽しいです」
「なるほど」
霧絵はうなずいた。
「それで、先生は独身?」
「はい。お付き合いしている人もいないみたいです。 でも女性を紹介されるとか、時々あるみたいで……」
三人はしばらく黙り込んだ。 霧絵も旅人も考え込んでいる。外では夕方の風が吹き始めていた。
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