「『女として見れない』と言ったら、社会的制裁。これは愛か、恐怖か。」
比絽斗
第1話 アルコールの霧と、目覚めの熱
プロローグ
宵闇の誘惑
その日の残業は、夜中の10時を回っていた。山積みの企画書と、上司の口癖である「費用対効果」という呪文に疲弊しきった俺の体は、ただひたすらアルコールとカロリーを求めていた。
名前を「榊原 悠斗(さかきばら ゆうと)」という。今年で30歳 都内のそこそこ名の知れた広告代理店に勤めている。
社内では「優秀だが、プライベートがない男」と揶揄される。
その通り、最近の俺は仕事に生き、仕事に殺されていた。
疲労がピークに達した時、俺は会社最寄りの駅ではなく、賑やかな繁華街の真ん中にある駅で電車を降りた。
人波とネオンの洪水。
この喧騒こそが、仕事を終えた後の俺にとっての特効薬だった。
目指したのは、路地裏にひっそりと佇む、行きつけの居酒屋「皆杜(みなもり)の灯」古びた木戸を開けると、女将の「いらっしゃい」という、暖かくも気だるげな声が迎えてくれる。
カウンター席の端に陣取り、まずはキンキンに冷えた生ビールを喉に流し込む。
「くぅっ…!」
全身の細胞が喜びに打ち震えるような感覚。これが、一日頑張った俺への最高の報酬だ。
二杯目のビールを頼んだ頃、隣の席に女性客が座った。仕事帰りなのだろう、タイトスカートにブラウス姿。少し疲れた様子で、スマホを見つめている。年齢は20代後半といったところか。すらりとした体躯と、肩にかかる艶やかな黒髪が印象的だった。
「…すいません、その、レモンサワーって、甘いですか?」
女性が、カウンター内の女将ではなく、俺に話しかけてきた。女将がちょうど奥の厨房に入ってしまったタイミングだった。
「え?ああ、ここのですか?ここのは、結構本格的ですよ。絞りたての生レモンを使ってるから、酸味が強くて、キリッとしてます。甘いのが好きなら、やめた方がいいかも」
俺はグラスに残ったレモンサワーを指さしながら答えた。
「そうなんですね…。じゃあ、どうしよう」
女性は迷うように顎に手を当てた。
「私、甘いお酒はちょっと苦手で。でも、酎ハイだと、たまに妙に甘いお店があって…」
「それなら、ここは大丈夫ですよ」俺は自信を持って言った。
「“オトナのレモンサワーって感じです。女将、レモンサワー一つ!」
俺は勝手に注文をしてしまった。女性は少し驚いた表情を見せた後、ふっと笑った。
「ありがとうございます。…お会計、ご一緒させてください」
「いやいや、いいですよ。たまたまです」
「いえ、せっかく教えてくださったんですから」
このやり取りが、すべての始まりだった。
彼女は「七瀬 澪(ななせ みお)」と名乗った。デザイン事務所で働いているという。今日中に納品しなければならないデザインデータがあり、徹夜明けで、そのまま会社を出てきたらしい。
お互いに仕事の愚痴を肴に、ビールから焼酎、そして日本酒へと、酒が進むにつれて会話は途切れることなく弾んでいった。
俺の仕事の話、広告業界の裏話。彼女のデザインに対する情熱、そして上司への不満。
同じ「ものづくり」の業界にいる者同士、共感する部分が多く、あっという間に時間は過ぎていった。
「いやー、榊原さんって、話が面白いですね!」
澪は少し頬を赤らめ、屈託のない笑顔を見せた。この笑顔が、妙に俺の心をくすぐった。仕事漬けで、女性との接点はおろか、まともな会話すらしていなかった俺の渇望を、この笑顔が一気に潤していくようだった。
「七瀬さんこそ、見てて飽きないですよ。あ、そろそろ終電、大丈夫ですか?」
時計を見ると、すでに深夜1時を過ぎていた。
「ああ…、大丈夫です。今日はもう、帰るつもりないんで」
澪はそう言って、残りの日本酒を一気に飲み干した。その表情は、どこか諦めにも似た、決意に満ちたものだった。
「え、どういうことですか?」
「実は、終電がとっくになくなっちゃったんで…」
彼女は照れくさそうに笑った。
「漫画喫茶か、どっかのカプセルホテルにでも泊まろうかと。せっかく徹夜明けで開放感に浸ってるのに、一人で帰るのはなんか嫌で」
この言葉が、アルコールで理性を麻痺させた俺の「魔が差した」瞬間だった。
「…じゃあ、うちに来ますか?駅から近いし、漫画喫茶よりはマシですよ。もちろん、変なことはしません。…と言っても信じられないでしょうけど、本当に疲れてるんで、寝るだけです」
言ってしまった後で、自分の発言の無責任さに驚いた。普段の俺なら、絶対に言わないセリフだ。完全に酒の勢いだった。
澪は一瞬、戸惑ったような表情を見せたが、すぐに満面の笑みになった。
「いいんですか?…ありがとうございます!じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
女将に挨拶をして、店を出た。
夜の冷たい空気が、少しだけ酔いを醒ましてくれたが、時すでに遅し。俺たちは、他愛のない話をしながら、俺のマンションへと歩いていった。
翌朝の温もり
翌朝
俺は激しい頭痛で目を覚ました。
二日酔いだ。胃のムカつきと、昨夜の記憶の断片が、まるでモザイクのように頭の中を駆け巡る。
「…うぅ」
重たい瞼をこじ開け、体を起こそうとした瞬間、体に巻き付くような重みと温もりを感じた。
「ん…」
低い呻き声が、俺の隣から聞こえた。
俺は、一瞬で酔いが醒めるほどのパニックに襲われた。
隣にいたのは、昨夜知り合ったはずの、あの七瀬 澪だった。
それだけではない。俺も、そして彼女も、一糸まとわぬ姿だった。
白いシーツの上に散乱する、昨夜の記憶を物語るかのような、脱ぎ散らかされた服の残骸。
俺の腕は、彼女の腰に巻き付いていた。そして、彼女の黒髪が、俺の胸元に散らばっている。
頭の中で、昨夜の出来事を必死に再構築しようとする。
マンションに着いた。
澪がお茶を飲んだ。
俺がシャワーを浴びた。
澪が「疲れたから、先に寝る」と言って、ベッドに入った。
そこまでは覚えている。その後は…?
たしか、俺もベッドに入って、電気を消した。そして、「疲れた」と言いながら、彼女に背を向けて…あれ?
思い出せない。
どう頑張っても、肝心な部分の記憶が、アルコールの霧に覆われているかのように、全く見えない。
「まさか…」
俺は恐る恐る、頭を掻いた。
自分の体は、全く違和感がない。痛みもなければ、興奮した痕跡もない。ただ、昨夜浴びたはずのシャンプーの香りと、彼女の甘い香水の匂いが混ざり合って、この寝室に充満している。
俺はそっと、隣で眠る澪の顔を見た。
規則正しい寝息を立て、まるで子供のように無防備な顔で眠っている。昨夜の活発で明るい印象とは打って変わり、この無垢な寝顔が、俺の罪悪感を倍増させた。
「やってしまった…のか?」
もし本当に、彼女との間に「何か」があったのなら。昨夜、あんなに疲れていたのに、なぜ俺は衝動**を抑えられなかったのか。それとも、彼女の方から誘ってきたのか?いや、そんなことはどうでもいい。
問題は、今だ。
この状況で、目覚めた彼女に、俺は何と言えばいいのか。
「ごめん、昨日は飲みすぎた」? 「君の魅力に抗えなかった」?
どの言葉も、この状況を説明するにはあまりにも軽薄で、無責任な大人の言い訳にしか聞こえないだろう。
俺はそっと、自分の腕を彼女の腰から離し、布団を滑り落ちるようにしてベッドから這い出た。
リビングへ逃げ込み、窓の外を見つめる。
東京の朝は、もう始まっていた。高層ビル群から漏れる光と、遠くで聞こえる車のエンジン音。
現実逃避…
俺はただ、遥か彼方の空、真っ青に広がる虚無の空間を見つめるしかなかった。
昨日の仕事の疲れも、二日酔いの頭痛も、すべてがこの「見ず知らずの女性との朝」という事態に比べれば、取るに足らない瑣事になっていた。
「どうするんだ、俺は…」
俺は小さく呻いた。とりあえず、コーヒーでも淹れて、この最悪の事態をどう収拾するか、考えなければならない。
マグカップを手に、キッチンで熱湯を沸かしていると、寝室からガサゴソという物音が聞こえてきた。
「…やばい」
俺は本能的に、マグカップをシンクに置いて、立ち尽くした。
覚醒と、非情な現実
澪が、俺のYシャツを一枚だけ羽織り、寝室のドアから現れた。
その顔は、もう昨夜の無邪気な笑顔ではなかった。どこか、探るような、そして少し冷たい表情をしていた。
「あ、榊原さん。おはようございます」
その声は、驚くほど冷静で、まるで昨夜の出来事など存在しなかったかのような、ビジネスライクなトーンだった。
「お、おはよう、七瀬さん…」
俺はしどろもどろになる。
「あの、昨日は…」
彼女は、俺の言葉を遮るように、静かに、そして鋭い眼差しで俺を見つめた。
「昨日のこと、覚えてますか?」
俺は正直に答えるしかなかった。
「…曖昧で。正直、酒に飲まれてしまって…」
澪は、フッと鼻で笑った。それは、諦めとも、軽蔑とも取れるような、複雑な笑いだった。
「だろうと思いました。じゃあ、聞きますけど。私と、『その先』があったかどうか、それも覚えてないってことですか?」
「…」俺は、言葉を失った。肯定も否定もできない。それが、最も誠実な態度だと判断したからだ。
澪は、ゆっくりとリビングのソファに腰を下ろした。そして、そこで初めて、恐るべき、
そして最悪の「現実」が俺を襲う。
「榊原 悠斗さん。あなた、確か、S高校の出身ですよね?」
「え、あ、はい…」
なぜ、彼女がそんなことを知っているのだろうか。昨夜、話した記憶はない。
澪は、俺の返事を聞くと、深いため息をついた。その表情は、先ほどまでの冷たいものではなく、むしろ困惑と、そして少しの怒りが混じったものだった。
「やっぱり…」
彼女は、俺の顔をまっすぐに見て、そしてとんでもない事実を突きつけてきた。
「私、七瀬 悠哉(ななせ ゆうや)の妹です」
高校時代の残像
その瞬間、
俺の頭の中で、全てのピースがカチリと嵌った。同時に、脳内に警報が鳴り響き、俺はソファに崩れ落ちそうになった。
『 七瀬 悠哉 』
俺の高校時代の同級生であり、親友の一人。サッカー部のチームメイトで、ポジションは俺と同じミッドフィールダー 俺が冷静沈着な司令塔タイプだとすれば、彼は常に熱血漢で、ムードメーカーだった。卒業後も、年に数回は連絡を取り合い、飲みにいく仲だった。
【悠哉には、溺愛している妹がいるという話を、何度も聞かされていた。】
「うちの妹、めっちゃ可愛いんだよ!」
「悠斗、紹介したいけど、手を出したら許さねぇからな!」
「最近、デザイナーになりたいとか言っててさ。応援してやってくれよ」
そういえば、名前は…澪(みお)。
「…え?う、嘘だろ?七瀬の…妹?」
俺は立ち上がって、彼女の顔をまじまじと見つめた。言われてみれば、悠哉の面影がある。目元や、鼻筋の通ったところ。そして、なにより、あの勝気そうな表情
「嘘じゃありませんよ」
澪は、冷静さを取り戻し、腕を組みながら言った。
「だから、昨日、あなたの名前を聞いた時、一瞬でピンときたんです。…まさか、うちのバカ兄貴の友達で、私にとっては“遠い昔の憧れの兄貴の友人”でしかなかった人が、目の前で酔っ払ってナンパしてきたとは思いませんでしたけど」
「ちょっと待ってくれ!じゃあ、昨夜、店で俺に声をかけたのは、偶然じゃないのか?」
「最初は偶然でした」
澪は淡々と答える。
「でも、あなたが私にレモンサワーを勧めてくれた時、ふと『榊原』っていう名字が引っかかって。…それで、話が盛り上がって、あなたが自ら『S高校出身で…』って話し始めた時、確信に変わりました。でも、酔っ払ってたから、兄のことはあえて言いませんでした。面白かったし、あなたから、私に言い寄ってくるかどうか、試したかったっていうのもあります」
試したかった…?ゾッとした。彼女は、俺たち二人の間で、とんでもない実験をしていたというのか。
「それで、結果は、ご覧の通り。…本当に、最悪です」
澪は、床に散らばったままの自分の服を指さした。
「私、兄にどう説明すればいいんですか?兄の親友に、寝取られたなんて」
「寝取られた…って」
俺は頭を抱えた。
「だから、俺は、本当に何も覚えてなくて…」
「覚えてない、ですか」
澪の目が、冷たく光った。
「じゃあ、私から言いますね。『ちゃんと』ありましたよ。あなた、私のこと、『みーちゃん、みーちゃん』って呼んで、『お前が悠哉の妹だって知ってたら、もっと早く誘ってた』なんて、最低なこと言ってたんですよ」
心臓が、ドクンと音を立てて大きく脈打った。
恥ずかしい。
情けない。
そして、なにより、恐ろしい。
俺は、親友の妹を…、しかも、彼女からすれば「憧れの兄の友人」という、絶対的な信頼のラインを、アルコールと下半身の衝動で、あっさり乗り越えてしまったのだ。
「…七瀬、いや、澪ちゃん。本当に、すまない。なんて謝っていいか、分からない」
「謝罪なんていりません」
澪は、まるでビジネスの契約を交わすかのように、きっぱりと言い放った。
「私が聞きたいのは、一つだけです。これからのこと」
俺は覚悟を決めて、彼女の目を見つめた。
「…俺は、責任を取るつもりだ。どういう形であれ、七瀬に…悠哉にも、誠意を見せる」
「誠意、ですか」
澪は、立ち上がり、俺の顔の真ん前まで歩み寄った。Yシャツの襟元から覗く鎖骨が、妙に生々しく、現実を突きつけてくる。
そして、彼女は、俺の人生で最も破壊的で、そして美しい「脅迫」を、囁くように放った。
「聞きましたよ、榊原さん。あなた、『女性として見れない』なんて、言わないですよね?」
俺は、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「え…?」
澪は、俺のYシャツの胸元を、きゅっと握りしめた。
「高校時代からの親友の妹と知って、『今更女として見れないから』とか、『一時の過ちだった』とか、『責任は取るけど、恋愛対象にはならない』とか、『妹のままでいてほしい』とか。…もし、一ミリでも、そんな言葉を口にしたら…」
彼女は、ニヤリと、恐ろしいほど魅力的な笑みを浮かべた。
「私、兄に全てを話しますよ。あなたが、私を弄んで捨てたって。そして、あなたの会社にも、社内報にでも載るくらいの『スキャンダル』を、私がデザインして、流してあげます。…社会的制裁、ってやつです」
俺は、文字通り、凍り付いた。この女性は、デザインの仕事をすると言っていた。
ということは…!!
情報操作やビジュアルの破壊力を、誰よりも理解している。
俺の人生、俺のキャリア、俺の友人関係。
すべてが、この目の前の、一糸まとわぬ見ず知らずの女性に、正確には、昨日までは見ず知らずだった、親友の妹によって、一瞬で崩壊させられる可能性を秘めている。
「榊原 悠斗さん。あなたは、私を『女』として見て、私を『愛』する義務があります。それとも、あなたの社会的地位を、私の手で『デザイン』し直してあげましょうか?」
その言葉は、まるで熱い烙印のように、俺の心に焼き付いた。
逃げられない。後戻りできない。
俺は、深い溜息をついた。頭痛は消え、代わりに、新たな人生の難題が、俺の眼前に立ちはだかっていた。
「…分かったよ、澪ちゃん」
俺は、ゆっくりと彼女の手を握った。
「その社会的制裁、とやらを食らうのは、まっぴらごめんだ。…いや、違うな」
俺は、彼女の目を見つめ、精一杯の誠意を込めて言った。
「俺は、君という存在に、責任を取りたい。…澪、俺と、付き合ってくれ」
澪は、その言葉を聞くと、今まで張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、ふっと微笑んだ。その笑顔は、昨夜、居酒屋で俺に向けられた、あの屈託のない笑顔だった。
「…はい。よろしくお願いします、彼氏さん」
そして、
俺たちの、「社会的制裁」から始まった、前代未聞の偽装恋愛が、ここに幕を開けたのである。
Maybe it will continue?
【作風:方向性思案中】
詠み専からの執筆の若輩者です。
これまで作品の拝読と我流イラスト生成がメインでした。
御意見:感想がの御指摘が閃きやヒントに繋がります。
宜しくお願いします。
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