黒いのがいます
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黒いのがいます
午前二時、草木も眠る丑三つ時。風が止まり、雲間に隠された月はこの夜を暗く見下ろしていた。
彼女の寝室には重たい静寂が滞り、部屋の隅に不気味な闇が落ちている。
ベッドの上で横たわったまま、彼女は困惑していた。
手が動かない。痺れた足どころか、指先までぴくりともしなかった。首を傾げたくても、首すら動かせない。
ただ視線は動かすことができた。いや、実際には動いていなかったのだろうか。自分は寝惚けているようだ、あるいはまだ夢の中にいるのだと彼女は自分を納得させる。
その身に、理不尽な運命がひたひたと迫っていた。
人を人とも思わない、ただ獲物を見据える冷たい視線が纏わりつく。彼女には抗う術もない圧倒的な魔性が、舌なめずりして彼女を見ている。
カーテンの隙間からわずかに差し込む月光、その儚い明かりは漆黒の領域に決して届かなかった。
彼女の視界の端で、凝縮された闇のような不可解な塊が蠢いている。
それは不定形に流れ出しそうでいて、確かな質量を持ってそこに存在した。時間も空間も捻じ曲げる、宇宙を支配する強者のおぞましくも美しい気配。
彼女は心の中で祈ろうとしたが、そうすべき相手が分からず、思考がまとまらなかった。
衣擦れのような、何かを引きずるような、あるいは蛇の息遣いのような。不気味で微かな音が彼女に忍び寄る。
あの闇の塊がゆっくりと移動しているのだ。彼女のほうへ。
やがてその異形はベッドの足元に到達した。
彼女の視界にはそれの姿が映っていない。しかし気配だけでありありと存在を伝えてくる。それは人類が理解し得る善悪の境を超えて、己の意志を行使するために、音もなく寝台へと這い上がった。
「う……」
微かな呻きが彼女の喉元から漏れる。自分が眠っていないことを“それ”に気づかれてはならない。彼女は必死で息を殺した。
それは幼子の警戒を嘲笑うかのような余裕をもって、そろそろと彼女の身体を這い進む。足首から膝へ、膝から太腿へ。
研ぎ澄まされた鋭利な刃物が皮膚を掠めてゆく。
遊んでいるのだ。彼女はそう理解する。それには彼女を“傷つけよう”という意図すらなかった。
そこにある人間の肉体など、それにとっては戯れに踏みつぶす小さな虫けらと変わらないのだった。
異形は彼女の腹部で動きを止めた。柔らかな肉を貪るように顔を寄せる。パジャマ越しにひやりと肌を刺す温度が、これから起こることを示唆していた。
……重い、苦しい。息を吐き出すこともできない。
内臓が圧迫されても彼女の身体は硬直したまま。彼女自身の業が呼び寄せた異形が、彼女を縛りつけている。
やがて暗闇に順応した彼女の視界は、それの姿を捉えた。
輪郭は夜闇に溶け込み判然としないが、二つの発光体が爛々と輝いている。慈悲も感情もない、ただ冷徹に彼女という獲物を見下ろしている。
聞き慣れない不気味な振動音が彼女の全身に轟いた。肋骨を震わせて背骨を伝い、脳髄に直接流れ込む、低い声。
この音を聞き続ければ彼女の精神はすぐに崩壊するだろう。そして魂は黒き深淵に飲み込まれ、永遠にそれの奴隷となるのだ。
発光体が闇に溶けて消える。朧げな黒い影が鎌首をもたげた。無情な切っ先が、彼女の臓物を抉り出すかのように腹へと振り下ろされる。
痛みが走った。痛みは一度では終わらなかった。
それは一定のリズムを刻み、彼女の腹に何度も何度も白刃を突き立てた。
奇妙なことに、その痛みは彼女に快感をもたらすのだった。
声が大きくなる。振動が激しくなる。己の肉体を蹂躙するそれの悦びを感じるたびに、彼女は痛みが麻痺するほどの歓喜に打ち震えた。
一頻り彼女を打ち据えたそれは、満足すると再び彼女の上を移動し、その濡れた鼻先を彼女に押しつける。
生温かい吐息。魚臭い。
彼女は観念し、終わりを悟った。
「んなぁーぉ」
間の抜けた声が静寂を破る。
窓の外では雲が晴れ、月明かりが彼女の胸に鎮座する黒き異形を照らし出した。
「んもー、ノアちゃん。人を踏んづけちゃだめでしょ?」
耐えきれずに漏らした彼女の言葉に首を傾げて、一週間前に拾ったばかりの黒猫、ノアちゃん(推定生後三ヶ月)が黄金色の瞳をまん丸にする。
「かわいい……」
ノアちゃんがごろごろと喉を鳴らしてくれたのも、彼女に乗っかってきたのも、あまつさえ彼女の腹でふみふみしてくれたのも、今夜が初めてのことだった。
拾ってすぐに動物病院へ駆け込んだ彼女のことを、ずっと怒っていたから。
まだ人に慣れきっていない猫を驚かせまいと抑えていたはずの興奮が理性を突き破り、彼女はつい手を伸ばす。
「にゃっ」
ノアちゃんは彼女の指先にざらざらの猫舌による一撃をお見舞いした。
「あぁぁぁかわいい、かわいいねえ……かわいいよぉ……」
混乱のあまりまともな人語さえも失った彼女は、胸の上にある小さな魔性の生き物を優しく撫でた。
彼女の宇宙の支配者は「不敬であるぞ」と言わんばかりに身をよじったものの、その手に頭を擦りつけながら喉を鳴らす。
午前二時、十分過ぎ。
彼女はすぐにでも起き上がり、この可愛らしく理不尽な彼女の支配者に夜食のカリカリを献上するため、リビングへと向かいたかった。
しかしノアちゃんは奴隷の意志など気にも留めず、のんびり丸まって眠りについてしまう。
彼女の上に黒いのがいる。それは彼女を「餌を出してくるあったかい寝床」くらいにしか思っていないのだろうけれど、彼女は満たされていた。
道端で偶然拾った小さな業が、彼女を永遠の幸せに縛りつけたのだ。
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