木の穴の秘密

昼月キオリ

木の穴の秘密


♦︎

古くから町を見守る神社の境内に、一本の不思議な木が立っている。

その幹にはぽっかりと大きな穴が空き、子どもでも三人は入れるほどの広さがあった。


学校で居場所のない子、家で孤独を抱える子、誰にも言えない秘密をもつ子。

そんな子どもたちがひっそりと集まる、誰にも邪魔されない秘密基地だ。


穴の奥には切り株の机。

その上には、毎日のように誰かがそっと置いていく絵本が並ぶ。


そこへ現れるのが、優しい笑みをたたえた若い僧侶、

皐明(こうめい)(27)。

彼は子どもたちにここへ来た理由を何も聞かず、

ただただ静かに絵本を読み聞かせる。

子どもたちは彼の落ち着いた優しい声に包まれ、少しずつ心の氷を溶かしていく。


「ここに来ていいんだよ。君は一人じゃないから」


木の穴で過ごすひと時は、誰の心にもそっと灯りをともす。

これは、隣にただいるだけでしか癒せない心の傷と

静かな時間を共有することでようやく芽生える小さな勇気の物語。


♦︎

風のない、しんと静かな午後3時だった。


神社の奥にある大きな楠の前で、

ひとりの少年、航太(こうた)は膝を抱えて座っていた。

学校でうまく話せず、今日もまた教室を抜け出してしまったのだ。


楠の幹の穴は、薄暗くて、誰にも見つからないような居心地の良さがあった。

そこは航太にとって、世界でいちばん落ち着く場所だった。


その日は珍しく、穴の中にもう一人子どもがいた。

泣き腫らした目をした少女・三葉(みつは)だ。

二人はほとんど言葉を交わさなかったが、

ここにいてもいいという合図のようにも思え、

同じ静かなひとときを過ごすことで互いに心を開くようになった。


すると、境内の砂利を踏む柔らかな足音が近づいてきた。

二人は思わず息を呑み、葉の隙間からそっと覗いた。


黒い袈裟をまとった僧侶が、楠の前で立ち止まっていた。

まだ若く、穏やかな眼差しをした男性、皐目である。


「ここにいたんだね」


皐明は、まるで誰かに話しかけるように静かに言う。


航太と三葉は顔を見合わせた。

ひょっとして、見つかったのだろうか。

怒られるのではないか。

その不安で胸がどくどくと跳ねる。


しかし皐明は静かに木の中へと入ろうとはしない。


「私も入っていいかな?」


優しい皐明の声に二人は頷く。


「ありがとう」


皐明はただ、切り株の上の絵本を一冊を見つめ、

柔らかな声で言った。


「ここは、君たちの羽を休める場所なんだろう?

だったら、僕も邪魔はしないよ」


二人は思わず息をついた。


皐明は続けた。


「この絵本、私が読んでもいいと思うなら・・・明日の夕方まで置いておいていいよ。

私がいない方がいいなら明日だけは家に帰るんだ。

どうかな?」


そう言って、本に触れぬよう、そっと両手を合わせた。


次の瞬間、航太の小さな勇気が胸に芽生える。

彼はほんの少しだけ手を伸ばし、絵本の表紙に触れた。


「うん・・・明日またくる」


「分かった。また明日ね。気をつけて帰るんだよ」


皐が境内の奥へ歩き去ると、

木の穴の中には、ほんのり温かさとどこか安心する静けさが残されていた。


その日を境に、木の穴と子どもたちと僧侶の、

小さな物語が動き始めた。



次の日の午後3時。

境内には風もなく、遠くで鈴の音だけがかすかに揺れている。


大楠の穴の中では、航太と三葉が並んで座っていた。

昨日の絵本が、切り株の上にちょこんと乗っている。

二人とも、その表紙に描かれた小さな狐の絵をじっと見つめていた。


「今日、本当に来るかな」


「わかんない。来なきゃ来ないでいいし」


口では素っ気なく答えつつも、

三葉の指先は落ち着きなく袖を掴んでいた。


その時、砂利道を踏む足音が聞こえた。

二人は反射的に身を固くする。


現れたのは、昨日と同じ黒い袈裟の僧侶、皐明だった。

皐明は約束通り、絵本を読み始める。


「むかしむかし、深い森の中に、小さな狐がすんでいました」


その瞬間、穴の中の空気が変わった。


皐明の声は、風より静かで、水より澄んでいた。

ページをめくるたびに、木の香りと紙の匂いがふわりと混ざり、

冷えた胸が少しずつ温まっていくようだった。


「狐は、いつも一人でした。

でも、一人でいるのが好きだと言い聞かせていました」


しかし、声には確かに

“ここにいていいよ”

という優しさが宿っていた。


やがて物語は終わりに近づき、蓮真はゆっくりと本を閉じた。


「・・・おしまい」


その言葉と同時に、風が揺れ、楠の葉がさわさわと震えた。

蓮真は立ち上がり、深く頭を下げた。


「聞いてくれて、ありがとう。

私は毎日ここにいるから、君たちが良ければまた一緒に物語を聞こうね」


子どもたちは返事をしなかった。

言葉にする勇気は、まだなかった。


だが、皐明が去ろうとしたその時。

航太が小さな声でつぶやいた。


「また、来てもいいの?」


皐明はほんの少しだけ肩を揺らして笑った。


「もちろん。君たちの場所なんだから」


その一言が、木の穴に、そして二人の心に、

初めてほんのりと灯りをともした。



♦︎

それは、読み聞かせが始まってから三週間ほど経った頃だった。


大楠の下には、いつもの三人・・・航太、三葉、そして皐明がいた。

今日は絵本を読み終えると、皐明は膝の上で手を組み、

少しだけ子どもたちに向き合った。


「ねぇ、もしよかったら、今日だけ外に出てお寺の中を見てかない?」


三葉はびくりと肩を揺らし、航太は俯いたまま足の指をぎゅっと丸めた。

穴の外に出るというのは、

ただ場所が変わるということではない。

自分と向き合うということだ。


それが怖かった。


皐明は二人を急かすことはせず、ただ微笑んで待った。


「出たくないなら、出なくてもいいよ。

でもね、今日は風が気持ちいいんだ。それに紅葉が綺麗だ。それを君たちにも感じてほしくて」


その声は押し付けがましくなく、

ただそこに寄り添うだけの優しさで満ちていた。


しばらく沈黙が続いたあと、

最初に立ち上がったのは三葉だった。


「・・・紅葉みたい」


言葉は震えていたが、その足は確かに穴の出口へ向かっていた。

航太は驚いて目を丸くする。


三葉が一歩、外へ踏み出す。

光を受けた長い栗色の髪がふわりと揺れた。


その様子を見て、航太は心のどこかがじんわりと温かくなる。

一人なら怖い。

でも、二人なら・・・。


「・・・じゃあ、僕も行く」


航太は小さく息を吸い、一歩外へ出た。


穴の外に出た瞬間、凛とした涼やかな風が頬を撫でた。

枯れ葉の匂いがする。


皐明は二人を迎え入れ、

まるで特別なことをしたかのように大げさに褒めたりはしなかった。

ただ、ゆっくりと微笑んで言う。


「ようこそ。外の世界へ」


その穏やかな言葉に、

二人の胸の奥にずっとあった固い塊が、

少しだけ溶けたような気がした。


三葉がぽつりと言う。


「私、ここ以外の場所、ちょっと苦手。

でも・・・今日、出てみたら思ったより怖くなかった」


航太も、少し照れくさそうに続ける。


「俺も・・・たまには外に出てもいいかも。

二人がいるなら」


皐明は驚いたように目を見開き、

そして優しく笑った。


「いつかね。

この神社だけじゃなく学校でも、公園でも、

どこでも自分の場所だと思える日が来るよ。

今日の一歩は、そのための大事な一歩だからね。」


子どもたちはその意味を完全には理解していなかった。

けれど、不思議と胸の奥がふわりと温かくなった。


境内の風が吹き抜ける。

夕陽が楠の葉の隙間からこぼれ、

二人の肩を明るく照らした。


その瞬間、二人は小さな一歩を踏み出していた。

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木の穴の秘密 昼月キオリ @bluepiece221b

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