第20話
晃哉と唯は、お互いに不安や矛盾を抱えながらも、二人で会う日もあった。
Sugarで顔を合わせることもあった。
仕事が終わってから、少しだけ会うこともあった。
どちらからともなく連絡をして、そのまま一緒に過ごすこともあった。
会う理由なんて、もう必要なかった。
「今日、会える?」
それだけでよかった。
短い時間でも顔を見られれば嬉しかったし、少し話して、笑って、それぞれの生活へ戻っていった。
そんなことが、いつの間にか当たり前になっていた。
普通だった。
あまりにも普通だったからこそ、私はきっと、何かを失うなんて思っていなかった。
その日も、いつものように二人でいた。
ベッドに横になり、私は晃哉の腕の中にいた。
彼は仕事の話をしていた。
私はその声を聞きながら、ときどき相槌を打った。
何か特別なことをしているわけじゃない。
ただ一緒にいて。
くだらないことで笑って。
昔の話をして。
これからの話をすることもあった。
そんな何気ない時間が、私は好きだった。
でも、唯は気づいていた。
狭い街だから、話は嫌でも入ってくる。
晃哉が誰と飲んでいるとか。
誰と遊んでいるとか。
仕事のこととか。
私の耳に入ってくるたびに、胸の奥が小さくざわついた。
それでも、もう何も言わなかった。
言えば、彼を困らせるような気がしたから。
そんなある日。
いつものように二人で過ごしたあと、ベッドの上で晃哉が私の頭を腕に乗せたまま、ふっと黙った。
さっきまで話していたのに、急に静かになった。
私は彼の横顔を見上げた。
「唯」
「ん?」
「俺……仕事とか……いろいろあってさ」
晃哉の声が、少しだけ低くなった。
そこで一度、言葉が止まった。
私は何も言わず、彼の顔を見た。
「少し、会えなくなるかもしれない」
その言葉は、思っていたより静かに私の中へ入ってきた。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
「……そっか」
少し間を置いて、私は笑った。
「……寂しいな」
それだけ言った。
本当は、
どうして?
いつまで?
何があるの?
と、聞きたかった。
もっと聞きたかった。
でも、聞けなかった。
晃哉は私を見ていた。
何かを言おうとしているようにも見えた。
けれど、結局何も言わなかった。
私は、少しだけ笑って言った。
「仕事なら仕方ないよ。メールするね」
大丈夫。
私は大丈夫。
そう言っているようなものだった。
たぶん私は、そのとき晃哉を安心させたかった。
困らせたくなかった。
重い女だと思われたくなかった。
「会えない」と言われて、
どうして?
なんて聞く自分になりたくなかった。
でも、本当は違った。
寂しかった。
ものすごく寂しかった。
帰ってからも、私は何度も携帯を見た。
仕事中も。
眠る前も。
何か連絡が来るんじゃないかと思ってしまう。
画面が光るたびに、もしかしたら、と期待する。
でも、何もない。
静かな画面を見つめて、また伏せる。
そんなことを繰り返した。
それから少しして、晃哉は本当に遊び始めた。
友達と飲みに行く。
出かける。
歳の近い仲間と集まる。
Sugarにも来ていた。
楽しそうだった。
笑っていた。
私と会えなくなると言った人が。
私と会えない時間を、楽しそうに過ごしている。
その姿を見るたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。
最初は、
仕事が忙しいんだ。
付き合いもあるんだ。
そう思おうとした。
そう思ったほうが、私も楽だった。
でも、何度も続くと、さすがに分かってしまう。
ああ。
私と会う時間だけが、減っている。
そんな気がした。
私は、彼に何も言わなかった。
責めなかった。
問い詰めなかった。
ただ、少しずつ離れた。
自分から連絡することを減らした。
彼から連絡が来ても、以前ほど携帯を握りしめなくなった。
でも、会いたいときは、素直に、
「会いたいよ」
とメールした。
そこだけは、嘘をつけなかった。
会いたいものは、会いたかった。
その代わり、私は外へ出るようになった。
隣町のクラブへ行った。
会社の男性たちと飲みに行くことも増えた。
誰かと一緒にいれば、晃哉と会えない時間を考えなくて済む。
笑っていれば、寂しさを忘れられる。
そんな単純な理由だった。
別に、誰かを好きになろうとしていたわけじゃない。
晃哉の代わりを探していたわけでもない。
ただ、空いた時間を埋めたかった。
夜が長かったから。
一人でいると、どうしても晃哉のことを考えてしまったから。
ある夜、私は澄香と飲んでいた。
店内には、グラスの触れ合う音と、周りの笑い声が響いていた。
少し酔っていた。
私は何度か晃哉の話をしようとして、やめた。
口にしてしまえば、また自分の気持ちが分からなくなりそうだった。
それでも、結局ぽつりとこぼした。
「最近さ……こうちゃん、あんまり会ってくれなくなった」
澄香はすぐには何も言わなかった。
私の顔を見て、それからゆっくりグラスをテーブルに置いた。
「私も聞いたんだ」
「え?」
「やっぱり晃哉さん、結婚してる?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「うん……」
少し考えてから、私は続けた。
「なんか、そんな気もする。だから……無理やり距離作ってるのかなって」
口にしてしまうと、自分の中にあった疑問が、急に現実味を帯びた。
澄香は私を見た。
「唯、モテるんだから、自信持ちな」
私は思わず笑った。
「急に何それ」
「だって本当じゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
澄香は笑った。
「本人が一番気づいてないんだよ」
私はグラスの中の氷を見た。
カラン、と小さな音がした。
「でも……」
「ん?」
「複雑なのがさ」
澄香が少し身を乗り出す。
「晃哉さん、唯に対して遊びって感じじゃ、全然ないんだよね」
私は黙っていた。
「慰めるわけじゃないけど。だから、晃哉さんなりに葛藤があるのかなとも思ったり」
「まあ……」
私は曖昧に笑った。
確かに、声をかけてくれる人はいた。
飲みに行こうと言ってくれる人もいた。
私を見てくれる人だっていた。
でも。
その「いくらでもいる」が、今の私には何の意味もなかった。
澄香が続ける。
「そんなに一人の男のことで悩まなくてもいいじゃん」
「……分かってる」
「じゃあ、もっと遊べばいいんだよ」
私は少し笑った。
「ね」
そう言ってから、私はグラスを見つめた。
「でも……こんな好きになってから知っても、どうしていいか分からないよ」
澄香は黙って聞いている。
「彼が言うこと、信じたいのに……」
声が少し小さくなった。
「でも、何が本当なのか分からなくなる」
澄香がため息をつくように言った。
「いや、本当にそれはどうかと思うけどさ」
「うん」
「でも、失いたくないんだろうね……ズルいけど」
私は顔を上げた。
「晃哉さん自身も、実はすごく悩んでるかもね」
「なのかな……」
私は少しだけ笑った。
「ただ、会いたいな」
その言葉は、思っていたより素直に出た。
澄香は何も言わなかった。
私はグラスを指先で回しながら、続けた。
「馬鹿だよね」
「何が?」
「私」
笑った。
「こんなに他の人と飲みに行ったりしてるのに」
「うん」
「結局、こうちゃんに会いたいんだもん」
澄香が少しだけ眉を寄せた。
「唯、もしかしてさ」
「何?」
「晃哉さん、唯が隣町でクラブ行ってるの知ってるかもよ?」
「え?」
「この前、大輔がそういう話を晃哉さんとしたって言ってた」
グラスの中の氷が、またカランと鳴った。
私はそれを見つめた。
「……狭い街だからね」
少し笑ってから、
「実際、私もこうちゃんが遊んでるって聞いてるし」
と続けた。
「遊び人か? あいつは」
自分で言って、笑った。
でも、その笑いの奥には、少しだけ寂しさがあった。
澄香は私を見ながら、静かに言った。
「なんかさ、無理やり距離作ろうとしてる感じがするんだよね」
私は答えなかった。
でも。
私も、そんな感じがしていた。
連絡は来る。
会えば、今まで通り。
話せば笑う。
それなのに、どこか遠い。
離れようとしているのに、完全には離れない。
私も、Sugarに彼がいるか気にしてしまう。
誰かと飲んでいても、ふとした瞬間に彼の顔を思い出す。
結局、どこにいても、心のどこかに彼がいた。
「馬鹿でも……」
私は小さく呟いた。
「私、こうちゃんの嘘を信じていたい」
澄香は何も言わなかった。
私はもう一度、言った。
「こうちゃんが言うこと、信じたいんだよ」
今度は、自分に言い聞かせるように。
本当なのかもしれない。
嘘なのかもしれない。
私には分からない。
それでも、好きになった人の言葉を疑いながら生きるのは、苦しかった。
澄香はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「唯はさ、もっと自分に自信持っていいと思うよ」
私は「うん」と頷いた。
どうして、こうちゃん一人のことで、こんなに揺れるんだろう。
どうして、他の人から優しくされても、心が埋まらないんだろう。
どうして、会えないと言われた人のことを、こんなに待ってしまうんだろう。
私は、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……でも」
「ん?」
「こうちゃんじゃないんだよね」
澄香が私を見る。
私は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「誰と飲んでも、楽しいんだけどさ」
そこで一度、言葉が止まった。
「こうちゃんじゃない」
言ってしまったら、胸の奥に隠していたものまで、一緒にこぼれてしまいそうだった。
私はグラスを持ち上げ、少しだけ飲んだ。
「こうちゃんの代わりにしてるわけじゃないよ」
「うん」
「ただ……」
言葉が続かなかった。
寂しい。
会いたい。
そんな言葉を、私は飲み込んだ。
澄香は、それ以上聞かなかった。
ただ、
「好きなら、好きでしょうがないよ」
とだけ言った。
その言葉が、妙に優しかった。
私は小さく頷いた。
その夜。
家に帰ってからも、私はなかなか眠れなかった。
ベッドに横になって、携帯を手に取る。
画面を見る。
何もない。
私は小さく息を吐いて、携帯を伏せた。
もう寝よう。
そう思った、そのときだった。
着信音が鳴った。
久しぶりの晃哉からの着信だった。
画面に彼の名前が出ていた。
心臓が、跳ねた。
何度も見た名前なのに。
たった一度、鳴っただけなのに。
それまで張り詰めていたものが、一瞬でほどけてしまった。
私は電話に出た。
「もしもし?」
「唯?」
その声を聞いた瞬間、私はもう駄目だった。
強がっていたはずなのに。
離れていたはずなのに。
彼の声を聞いただけで、昔の私に戻ってしまう。
「久しぶりじゃん。元気にしてた?」
明るく、ふざけるように言った。
「唯、今どこ?」
「え? 友達と飲んで帰ってきたとこだよ」
「そっか」
少し間があった。
「唯、今から会える? 俺、迎えに行くから」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
私は一瞬、迷った。
晃哉から距離を置いたのに。
私も彼と会えない時間を埋めるように遊んでいた。
誰かと飲んでいた。
それでも。
晃哉の声を聞いた瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった。
「急にどうしたの?」
そう言いながら、もう心は決まっていた。
「でも、私……」
何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。
そして次の瞬間。
言葉が勝手に出ていた。
「私……こうちゃんに会いたい」
素直だった。
あまりにも素直だった。
「うん。今から行く」
晃哉の声が少しだけ柔らかくなった。
「公園のとこ着いたら連絡するね」
「うん」
電話が切れた。
静かになった部屋で、私は携帯を握ったまま動けなかった。
胸の奥がいっぱいだった。
ねぇ、こうちゃん。
どれだけ距離を取っても。
どれだけ平気なふりをしても。
前にこうちゃんは、私のことを猫みたいだと笑ったね。
近づいたり。
離れたり。
気まぐれみたいに見えて。
でも、本当は違った。
私は、離れたかったわけじゃない。
傷つきたくなくて、少しだけ距離を取っただけだった。
そして結局、こうちゃんの声を聞けば、また戻ってしまう。
それは、私だけじゃなかったのかもしれないね。
こうちゃんだって、距離を置こうとしていた。
仕事やいろいろなことを理由に、
「少し会えなくなるかもしれない」
と言った。
私から離れようとしていた。
私が追わなくなれば、そのまま離れていけると思ったのかもしれない。
でも。
離れてみたら、苦しかったのかもしれない。
会わない時間が増えるほど、楽になるどころか、余計にお互いの存在が大きくなってしまったのかもしれない。
だから、電話をくれたの?
だから、
「迎えに行く」
と言ったの?
あの頃の私は、そんなことまで深く考えなかった。
ただ嬉しかった。
待っていてくれることが。
迎えに来てくれることが。
私がまだ、こうちゃんのところへ帰れることが。
そして、きっとこうちゃんも。
離れようとしては、離れられなかった。
近づけば苦しくて。
離れれば、もっと苦しくて。
そんなことを繰り返していたのかもしれない。
今になって思う。
彼も。
私も。
お互いに相手を困らせないようにして。
お互いに傷つけないようにして。
そのくせ、自分の本当の気持ちだけは隠して。
そうやって、少しずつ距離を作った。
そして、その距離ができるたびに、また寂しくなって。
また近づいて。
また離れて。
私たちは、何度も同じことを繰り返した。
ねぇ、こうちゃん。
私たちは、どうしてこんなにも苦しくなっていったんだろうね。
いつもこうちゃんは、そうだった。
かっこ悪くても。
矛盾していても。
本当は全部、言葉にしてくれていたらよかったのに。
そうしたら、こんなにタイミングが合わないこともなかったんじゃないかな。
あんなに苦しい終わりを迎えることも、なかったのかもしれない。
「唯みたく生きれたら……」
あのとき、こうちゃんはそう言っていたね。
ズルい。
弱い。
そういう言葉で片付けるのは、簡単だった。
でも、人はそんなに教科書通りには生きられないんだって。
私は、こうちゃんを好きになって、初めて知った。
矛盾していて。
迷っていて。
近づいたり、離れたりして。
それでも、その人なりに何かを守ろうとしていたのかもしれない。
今となっては、本当のところは分からない。
ただ、あの頃の私には、それだけで十分だった。
こうちゃんに会えることが。
こうちゃんと笑えることが。
こうちゃんの隣にいられることが。
ただ、それだけで幸せだったんだよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます