第8話(後編)――「クリミアの市、500の手綱」
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登場人物
雷槍皇女ラフィーナ〈13〉、アレク〈20〉「異世界の冒険者、魔法の達人、ラフィーナの実の父親」、ヤオ・ジン〈38〉「アレクの妻、格闘技の達人」
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アレクはラフィーナと別れ、妻のヤオ・ジン〈38〉と並んで、クリミア半島のビザンツ帝国の都市へ転移した。足裏に返ってくる石の硬さが、さっきまでの操縦室とは別の冷たさだった。鼻先へ潮の匂いがいきなり入り、魚の生臭さと、松脂の甘い焦げが混じって喉に張り付く。城壁の上では旗が乾いた音を立て、港の方からは鎖が擦れる低い鳴りが途切れず聞こえた。
市門を抜けると、通りは朝から人で詰まっていた。荷車が石畳を叩き、車輪の縁が欠けたところでがくりと跳ねる。香辛料の粉が風に舞い、胡椒の刺激が鼻を刺す。パン窯からは小麦の匂いが流れ、すぐ横では汗と獣脂の匂いが濃くなる。声はギリシア語だけではない。北方の訛り、商人の早口、呼び込みの甲高い声が、狭い路地に反響していた。
奴隷市場は、町の外れの広場にあった。木柵の内側に人が並べられ、縄の擦れる音と、鎖の小さな金属音が絶えない。日差しは強く、地面の砂は白く乾いていた。踏むたびに粉が上がり、舌の奥が渇く。水桶の周りだけが湿って黒く、そこへ群がるようにして人が喉を鳴らしていた。
アレクは、先に条件を切った。チェルケス人だけ。年は10代後半から20代前半。男女は同数で合計500名。売り手の顔色が変わるほどの数だが、アレクの声は落ち着いていた。ヤオ・ジンは半歩後ろで黙って立ち、視線だけで場を測っていた。逃げようとする者、値をつり上げようとする者、仲買人の癖。そういうものを、目の動きと肩の揺れで拾っていく。
選別は早かった。アレクは一人ひとりの前を歩き、手首の太さ、肩の張り、膝の曲がりを確かめた。皮膚の色つやより、骨の揃い方を見る。恐怖で瞳孔が開いている者もいる。怒りを飲んで口を結んでいる者もいる。市場の空気は汗の酸っぱさが濃く、近くの桶からは鉄臭い水の匂いがした。ヤオ・ジンは、群れの端でふらつく若者の背へ手を添えて倒れるのを止め、無言で水を飲ませた。余計な言葉はないが、触れ方だけは乱暴ではなかった。
数が揃うと、次は金だ。秤台の上でノミスマ金貨がまとめて量られ、皿が揺れて止まるたびに、澄んだ金属音がした。書記が羊皮紙へ名前代わりの印を並べ、封蝋が熱で柔らかくなり、蝋の甘い匂いが立つ。ヤオ・ジンは、契約の文言を一度だけ指でなぞり、抜けがないことを確認した。アレクは頷き、必要な分を淡々と支払った。
人だけでは終わらない。北方の馬も500頭、同じ数で揃えた。厩舎へ入ると、空気が一気に変わった。干し草の匂い、尿の刺激、馬の体温の湿り気が鼻へ強く来る。馬は背が高く、首が太い。吐く息が白く見えるほどではないが、鼻先から温い蒸気が立ち、耳が小刻みに動く。蹄が床板を打ち、重い音が腹に響いた。アレクは馬の目を見て、怖がりすぎない個体を選んだ。ヤオ・ジンは背と脚の筋を見て、長く走れる馬を外さなかった。
武器と防具も、全部揃えた。軽装騎馬に必要なのは、重い鎧ではなく、動ける装備だ。革と金具の匂いが並び、油を塗った鉄が鈍く光る。鞍の革は新しく、締めるときにきゅっと鳴った。弓は握っただけで反発が分かる。弦に触れる指先が乾き、ささくれが引っかかる。矢は束で運ばれ、羽根が擦れてさらりと音を立てた。ヤオ・ジンは矢羽の揃いを見て、曲がりのあるものをその場で弾いた。アレクは、折れたときに困らないよう予備を多めに買い足した。
買い集めた500名は、まず水と食に慣れさせた。腹が落ち着くと、次は手と足だ。訓練場は城外の平地に設け、柵と旗で区画を作った。地面は硬く、走ると土埃が立ち、口の中がじゃりつく。朝は冷え、昼は焼ける。夕方には汗が乾いて塩の跡が首筋に残った。
アレクの教え方は派手ではない。最初に動きを止める。次に、決め手を短く通す。軽装の者が乱れて突っ込めば、すぐ潰れる。だから半歩の間合いを守り、体の軸を崩さない形を繰り返させた。棒を持たせると、槍の線を払う角度だけを何度もやらせる。余計な力を入れる者はすぐ息が上がる。アレクは声を荒げず、姿勢を直させ、同じ回数をもう1度やらせた。
ヤオ・ジンは守りを教えた。転び方、立ち上がり方、味方の背を守る位置。弓を持つ者には、狙いを一点に絞ることを叩き込んだ。目、関節、鎧の継ぎ目。遠くの的に当てるだけでは足りない。走る馬の揺れの中で当てる。息を吸って、吐く途中で放つ。矢を番える指が血で赤くなっても、手順だけは崩させなかった。
実戦形式の稽古では、アレクが地形を作った。土を盛って逃げ道を狭くし、風で粉塵をまとめて浴びせる。視界が悪い中で、隊が崩れないようにするためだ。馬は驚いて首を振り、鼻を鳴らしたが、何度も繰り返すうちに踏みとどまるようになる。氷で足場を滑らせる日もあった。転びそうになった者は一度転ぶ。転んだ者は、次から膝と踵の使い方が変わる。痛みの記憶が、技の形を固くする。
日が重なると、兵の匂いも変わった。市場の汗の匂いから、油と革と土の匂いになった。声も変わった。泣き声や怯えた声が減り、短い返事と、合図の声だけが残る。馬の背で矢を放つ者は、矢筒に触れる手つきが迷わなくなった。隊列の先頭が急に止まっても、後ろが押し潰れなくなった。
アレクは最後に、全員を並べて見た。男も女も同じ数だ。誰もが同じ武器を持つわけではないが、同じ手順で動ける。ヤオ・ジンは黙って頷き、弓の弦を指で弾いて張りを確かめた。音は高く、よく締まっていた。ここまで鍛え上げれば、次はバーリだ。そこからビトントへ向かい、さらにカノーザへ進む。その道筋が、砂塵の向こうに一本の線として見えてきた。
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