電車の呼び声

二ノ前はじめ@ninomaehajime

第1話

 電車が嫌いだった。

 

 私が暮らしている町は片田舎で、すすけたビルや商店街の裏側に野山の緑が寄り添っていた。夏の季節にはポプラの木でせみが合唱し、中学校の通学路にある用水路では藻が揺らめいて、その流れに小さなメダカが懸命に逆らっていた。

 

 忌々しい真夏の太陽を避け、バスの停留所でベンチに座っていると、市営バスがやってきた。四角いフロントガラス越しにまだ若い運転手がハンドルを握っていて、私の顔を見ると露骨に嫌な顔をした。手を上げて挨拶したのに、降りる乗客がいなかったのか排気ガスを撒き散らして目の前を通り過ぎてしまった。

 そのバスの後ろ姿を見送りながら、この町の物流ぶつりゅうはどうなっているのだろうと考える。郊外には大型デパートがあり、住民にとって自家用車は必需品ひつじゅひんだ。客を取られて商店街は閑古鳥かんこどりが鳴き、シャッターを閉めた店舗が多くなってしまった。

 

 ともあれ、店に商品がある以上は外との交流があるのだろう。私が知る限り、人々が自主的に町の外へ出ることはない。彼らも本能的に危険を感じているのだろうか。ならば品物がどこからやってきて、誰が運んでいるのだろう。あまり想像したくなかった。

 

 日が暮れてきて、私は重い腰を上げた。パーカーのマフに両手を突っ込み、iPodを操作して音楽を流す。イヤホンから宇多田うただヒカルの『For You』が聴こえてくる。すっかり靴紐がよれたスニーカーで路面を踏みつけながら、雑談に花を咲かせる下校中の学生とすれ違って帰途にく。

 

 漫然と音楽を聴いていたためか、赤くにじむ警報器を見るまで踏切の警報器が鳴っていることに気づくのが遅れた。あの電車が来る。反射的にきびすを返そうとして、思いとどまった。あれらに対して、自然体でいたかった。

 

 町の中心から離れた自宅のあいだには、長い鉄道の線路が横たわっていた。帰宅するためには踏切を渡らなければならず、いつも憂鬱ゆううつだった。たった一本の棒に行く手をはばまれ、調子を乱される日は特にだ。

 

 狗尾草えのころぐさの重く垂れ下がった穂が揺れていた。俗に言うところの猫じゃらしである。風に上下するさまが、どうにも不吉な手招きに見えて仕方なかった。

 薄い靴底から振動が伝わってくる。視野の端で、迫り来る先頭車両の輪郭りんかくが映った。私は足のつま先を見下ろし、ポケットの中でiPodの音量を大きくする。

 

 大雑把に切り揃えた前髪が強風になぶられる。俯いた私の前で大きな圧迫感が生じた。その圧力に耐えながら、一心に願った。とっとと行っちまえ。

 電車が通過するまでの時間が長く感じた。忌まわしい存在感が面前から消えると、強張こわばった体から力が抜けた。信号の色が青に変わり、遮断桿しゃだんかんが上がる。

 

 大きく息を吐いて、おもてを上げる。踏み出そうとした足が再び硬直した。黄昏の下で影が長く伸びている。踏切の向こうで、歪んだ人影が佇んでいる。

 

 形容するのなら、肥大化した赤子だろうか。楕円形の頭部が異様に大きく、小さな陥没が至るところで陰を濃くしている。反比例して胴体と四肢は短く縮んでおり、とても巨大な頭を支えられるとは思えない。

 山に沈みゆく夕日を背にしているためか、濃い陰影いんえいまとっている。ただ片側に大きく裂けた口は赤々としており、不吉な三日月を連想させた。その内側に汚らわしい乱杭歯が覗いている。

 

 心の中で言い聞かせた。落ち着け、少し面食めんくらっただけだ。あれらは私の存在を認識できない。

 

 異形いぎょうの人影は上手く取れないのか、覚束おぼつかない足取りで踏切を渡ってくる。一人歩きを始めたばかりの幼児を思わせて、嫌悪感をき立てる。こめかみから冷たい汗が伝った。粘ついた地面にへばりつく靴底を、強引に引き剥がす。

 

 赤い裂け目が小さく開閉し、何事かを呟いているのがわかる。私は睫毛を伏せた。イヤホンから流れてくる歌声に集中する。いくら平静をよそおっても鼓動は正直で、あたかも耳の奥が大きく脈打っているかに感じた。

 一分にも満たない距離の踏切が、長く感じた。一歩一歩が重く、頭の芯が痺れる感覚があった。緊張のせいか、曲が歪んでいる。ラジオの周波数を合わせる途中の音声に似ていた。中東の言語を拾って、日本語と重なって混じり合う。

 

 千鳥足ちどりあしの怪物とすれ違う。やはりこちらには見向きもしない。わかってはいても、不快感と安堵が入り混じる瞬間だった。ほんの少しだけ足が軽くなったとき、イヤホン越しにその一言が届いた。


「をあぇいぃ」

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