2025年12月7日 13:22
言語はイメージを媒介せずかえって媒介されるへの応援コメント
痛烈ですね。イメージを伝えるために物語を描くと言語が道具としての価値に堕ちてしまい、肝心の文学としての主体性がなくなってしまう危機。私たち作者がしてきたことがただの自己開示とお気持ち表明であり、そのために文字を使う利己主義者なのかもしれないと言う恐怖を思い知らされました。よくメディアミックスなどで小説のコミカライズや映像化などが行われますが、それは文字がツールであることが前提で行われる行為であって、古にあった言葉の主体性というものが蔑ろにされてきた結果なのかもしれません。つまり、私たちは正しく伝えることを主とするのではなく、文字に生命を与えることを主として文学に取り組まなければいけないのかもしれません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。 僕は御作「O person」に接して、何かしら視覚的イメージが先行していることを感じました。漫画・アニメ・ドラマ・映画・ゲーム等に由来する視覚的イメージが尾崎さんの中にはあり、視覚的イメージを充填するように描写が点綴されるが、こちらには視覚的イメージをつなぐジョイントのようなものしか見えてこない。とてもそれ単体で表現を全うしているとはいえず、そういった描写の独立性への意欲も感じられないが、ただ、”作品を超えた何かしらの前提=コード(規定・慣例)”があることだけはよく伝わってきます。これらは・漫画的コードの上に築かれた純文学・アニメ的コードの上に築かれた純文学・ドラマ的コードの上に築かれた純文学・映画的コードの上に築かれた純文学・ゲーム的コードの上に築かれた純文学のいずれかであり、要するに、純文学ではありません。 また、名寄要があまりに女性的であり、あまりに善良であること、遊月知乃の人物像に理想が入りすぎていること等、こうした非現実的な造型の人物が存在をゆるされているのは、土壌が純文学でなくて、先に挙げたいずれかのコンテンツがゆるす倫理的免責の上に描かれているからだと考えます。作者は登場人物らと倫理的な紐帯で結ばれておらず、これを純文学以外のコンテンツのコードが間に入って、断ち切り、絶縁させています。 文字がツールであるという前提を除き去ったとしても、尾崎さんは純文学以外の何かを前提にしている。前提にしている何かの視覚的イメージを充填する形で文字が使われる。なぜならいずれのコンテンツも視覚的なものであるから。となると、やはり文字はツールに逆戻りします。 文字をツールとして使わないためには、エンタメ由来のコードをすべて除き去って、倫理的な紐帯を登場人物らとの間につなぎ直し復活させるしかありません。 やるか、やらないかです。
言語はイメージを媒介せずかえって媒介されるへの応援コメント
痛烈ですね。イメージを伝えるために物語を描くと言語が道具としての価値に堕ちてしまい、肝心の文学としての主体性がなくなってしまう危機。私たち作者がしてきたことがただの自己開示とお気持ち表明であり、そのために文字を使う利己主義者なのかもしれないと言う恐怖を思い知らされました。よくメディアミックスなどで小説のコミカライズや映像化などが行われますが、それは文字がツールであることが前提で行われる行為であって、古にあった言葉の主体性というものが蔑ろにされてきた結果なのかもしれません。つまり、私たちは正しく伝えることを主とするのではなく、文字に生命を与えることを主として文学に取り組まなければいけないのかもしれません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
僕は御作「O person」に接して、何かしら視覚的イメージが先行していることを感じました。漫画・アニメ・ドラマ・映画・ゲーム等に由来する視覚的イメージが尾崎さんの中にはあり、視覚的イメージを充填するように描写が点綴されるが、こちらには視覚的イメージをつなぐジョイントのようなものしか見えてこない。とてもそれ単体で表現を全うしているとはいえず、そういった描写の独立性への意欲も感じられないが、ただ、”作品を超えた何かしらの前提=コード(規定・慣例)”があることだけはよく伝わってきます。これらは
・漫画的コードの上に築かれた純文学
・アニメ的コードの上に築かれた純文学
・ドラマ的コードの上に築かれた純文学
・映画的コードの上に築かれた純文学
・ゲーム的コードの上に築かれた純文学
のいずれかであり、要するに、純文学ではありません。
また、名寄要があまりに女性的であり、あまりに善良であること、遊月知乃の人物像に理想が入りすぎていること等、こうした非現実的な造型の人物が存在をゆるされているのは、土壌が純文学でなくて、先に挙げたいずれかのコンテンツがゆるす倫理的免責の上に描かれているからだと考えます。作者は登場人物らと倫理的な紐帯で結ばれておらず、これを純文学以外のコンテンツのコードが間に入って、断ち切り、絶縁させています。
文字がツールであるという前提を除き去ったとしても、尾崎さんは純文学以外の何かを前提にしている。前提にしている何かの視覚的イメージを充填する形で文字が使われる。なぜならいずれのコンテンツも視覚的なものであるから。となると、やはり文字はツールに逆戻りします。
文字をツールとして使わないためには、エンタメ由来のコードをすべて除き去って、倫理的な紐帯を登場人物らとの間につなぎ直し復活させるしかありません。
やるか、やらないかです。