10話

文化祭は中止となり、校舎は静まり返っていた。

 まるで昨日までの賑やかさが嘘みたいに消えている。


 廊下に残った飾りの一部だけが、風に揺れてかすかに音を立てる。


 生徒たちは皆、重い足取りで学校に来ていた。

 一晩経っても、史帆の死は“信じられない現実”のままだ。


 教室は涙の匂いで満ちている。

 泣きすぎて目が腫れた女子、黙り込んだまま机を見つめる男子。


 その中心で──


 橘昂輝は、完全に壊れていた。


 机に突っ伏し、顔を両手で覆い、

 声にならない呼吸を繰り返している。


(俺が……守れなかった)


(また……)


(また誰かが……俺のせいで……)


 火事の記憶が蘇る。

 両親が死んだ日の、あの匂い。

 燃え上がる柱。

 叫んでいた自分の声。


(俺があのとき……もっと早く気づいていたら)


(俺が一緒にいれば……)


(なんで……なんで全部俺の近くで……)


「…………っ」


 昂輝の肩が小刻みに震えた。


 その様子を見て、雅はゆっくりと立ち上がる。


(大丈夫……全部、私が支えるから)


(だって、もう“私たち”しか残ってないでしょ?)


 静かに歩み寄り、

 自分が一番よく知る背中にそっと手を置いた。


「……橘くん」


 優しい声。

 昔、いじめられて震える自分を救ってくれたときと同じ声色。


 昂輝は顔を上げられなかった。


「なぁ……雅……」


 涙に濡れた声。

 かすれて、辛そうで、子供みたいに弱い。


「俺……どうしたらいいんだろう……」


 雅は、迷わず答えた。


「泣いていいよ」


 その言葉は、昂輝の最後の防波堤をあっさりと壊した。


「……うっ……!」


 雅の胸に顔を埋め、

 少年はすすり泣いた。


(あぁ……やっと)


(やっと、私の腕の中に戻ってきた)


 雅は昂輝の背中を、ゆっくり撫でた。

 呼吸のリズムを合わせるように、優しく、丁寧に。


「橘くんは悪くないよ。

 事故は事故だよ。

 誰のせいでもないの」


 その言葉には、一切の迷いがなかった。


(本当は“誰のせいか”知ってるけどね)


「だって……俺がそばにいたら……」


「違うよ」


 雅は昂輝の頬を両手で包み、

 その瞳をのぞき込む。


「橘くんは、優しいだけ。

 人の悲しみに寄り添える、素敵な人」


「でも……誰も守れなくて……」


「守れるよ」


 その声は、あまりにも優しく、温かく──

 けれど芯は鋼のように固かった。


「私がそばにいる限り、橘くんは誰かを助けるよ」


「……雅……」


「昔、橘くんが私を助けてくれたみたいに」


 言葉はゆっくり、確実に昂輝の心に入り込む。


(そう……その痛みも、罪悪感も、後悔も、全部私に預けて)


(あなたは、私だけを見てればいいの)


放課後。

 疲れきった体で校門を出ようとする昂輝を、雅は当然のように隣で支えていた。


「一緒に帰ろう」


 それが当たり前のように聞こえるのは、

 雅の声が“安心”を与える響きだからだ。


 昂輝は弱く頷いた。


「……うん」


 二人はゆっくり歩く。


 風が少し冷たい。

 夜が早く落ち始める季節だった。


 雅は歩幅を合わせ、手が触れるほどの距離を保ちながら言う。


「辛いときは……ちゃんと私に言ってね」


「……うん」


「無理しなくていいよ」


「……雅が……そばにいてくれると……落ち着く」


 思わず出た本音に、雅の心臓が跳ねる。


(そう言ってほしかった)


(ずっと……ずっと……)


 胸の奥が甘く熱くなる。


「私もだよ」


 雅は微笑む。


「橘くんがそばにいてくれると……私も落ち着くの」


 昂輝は驚いたように雅を見た。


「雅も……?」


「うん。ずっと、そうだったよ」


 その言葉は、昂輝を静かに包み込む。


(あぁ……雅って……こんなに優しかったんだ)


(ずっと、支えてくれてたのに……俺は気づいてなかった)


 罪悪感と感謝が混ざり、昂輝の胸に“依存の芽”が生まれる。


孤児院に戻ると、雅はすぐに昂輝を食堂へ誘った。


「今日、疲れたでしょ。温かいもの食べよ?」


「……ありがとう」


 二人で並んで座り、

 職員が作ったスープを静かに啜る。


 湯気が鼻をくすぐり、少しだけ気持ちが和らぐ。


「ねぇ、橘くん」


 雅がふいに言った。


「話したくなったら、夜でも私の部屋来ていいからね」


「……え?」


「眠れないときとか。怖くなったときとか。

 私、ずっと起きててあげる」


 その声は母親のように優しく、

 恋人のように温かく、

 支配者のように甘かった。


「……雅……」


(俺……この子がいないと、ダメかもしれない)


(こんなとき、雅だけが俺の味方だ)


 昂輝はスープを置き、

 震える手で雅の袖を軽く掴んだ。


「……そばにいてくれ」


 その言葉は、雅が最も欲しかった“鍵”だった。


 雅はその手に自分の指を重ね、優しく握り返す。


「うん。私はずっと……橘くんのそばにいるよ」


(あなたはもう、逃げられない)


その夜。

 昂輝は眠れなかった。


 史帆の笑顔、声、温もり。

 すべてが頭の中に浮かんでは消える。


(俺が……)


(俺が守れなかったから──)


 布団を握りしめたそのとき。


「……橘くん?」


 小さなノック。

 雅の声だった。


「起きてるよね?」


 昂輝はゆっくり扉を開けた。


「どうしたの……?」


「なんとなく……橘くん、辛いかなって思って」


 雅は、そっと部屋に入った。


 椅子に座り、昂輝と向き合う。


「ねぇ。ちゃんと泣けた?」


 その言葉だけで、涙が溢れそうになる。


「泣けないなら……私が一緒に泣くよ」


「……雅……」


 その夜、雅は昂輝の手を握りながら、

 一時間以上、静かに話を聞き続けた。


 怒りも、後悔も、悲しみも、全部受け止めるように。


 そして、最後に囁く。


「大丈夫。私がいるから」


 その言葉は麻薬のように甘く、

 昂輝の心の穴にぴったりと入り込んだ。


雅は部屋を出るとき、

 一度だけ振り返って微笑んだ。


「おやすみ……橘くん」


 扉を閉めたあと、雅の表情は完全に別のものになっていた。


(うん……大丈夫)


(もう、手順通り)


(橘くんは“私の世界”に戻ってきた)


(ここから、私はあの子の全部を握る)


 雅は孤児院の暗い廊下を歩きながら、小さく呟いた。


「……ありがとう、史帆ちゃん」


「あなたのおかげで、橘くんは“私のもの”になった」


 その声は、夜の静寂に溶けていった。

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